永久不変の世界にて
――廃墟の楽園には小さな湖がある。晴れ渡った空の色よりも青く、底に行くにつれて藍色へと変化する澄んだ水の世界だ。真上から左手を伸ばしてみる、勿論届くはずがない。この身体は地上から離れて空へと浮き、美しい水面からは遠い場所にあるのだから――
「その水って、冷たいのかしら。リコフォス」
「温かいわよ? 少なくともお話に出てくるような氷のように冷たい水、というわけではないわ」
真下に居る少女声をかければ、鐘のように響き渡る声で返事が返ってくる。その少女は半身を水面から出し、もう半身は自分が触れてみたいと思い続けるその水の中に沈めていた。ずっとずっと、また湖の街へ帰るまで――。
彼女の名前はリコフォス、ただの人間ではなく下半身が鱗に覆われ尾ひれを揺らめかせる、伝説の人魚だ。 暗い水底からやってきた彼女は、まだこの廃墟には慣れていないらしい。季節が巡らないこの世界に咲く花を、とても綺麗だと言っては毎日飽きずにここへ顔を覗かせに来ては、手を伸ばして触れようとするのだ。
「ん……やっぱり届かない。腕がこう、ひょいって伸びたりしないのかしら。そうしたらあれにも届くのになあ」
「今日は何の花を取ろうとしているの、リコフォス」
「ちょっと薄い赤色の花。小さい花がいっぱいあって、すごく可愛いのよ」
薄めの赤色の花、群生で、可愛らしい。思い当たるものは多くあったが、この庭に咲く花は種類が限られている為見れば分かる。きっとあれだろうという見当はつけ、目の前に垂れていた鎖を両手で持って引いた。途端にぎぃと鈍い音が鳴り、景色がほんの少し遠ざかっていく。ある程度のところで鎖を離せば、地面の揺れも収まって我知らず止めていた息を解放する。そして相変わらず自分の周りを覆う鉄格子へと手を伸ばした。格子と格子の間を通りぬけ、右手は取り付けられた扉の鍵部分へ。
「あら、籠鳥のお姫様?」
「どの花かしら、指を指して私に教えて?」
右手首を少し振るとしゃらり、長い銀色の鍵が一つ。それを手に取って扉の鍵を開けると、外側へ扉を押し開けた。身体を少しだけ動かし、顔だけを覗かせると長い金の髪が扉の外へと垂れた。人魚は微笑みかけてくれ、こちらを向いたまま前方を指さした。彼女は私がこうして顔を見せると、まるで安心したように胸を撫で下ろし、決まってその微笑みを見せてくれる。その笑顔が堪らなく、この世界には元々無かったものだからかすごく新鮮で。
「ふふ、あれですわ」
彼女が指した先に広がるのは、言葉の通りほんのり赤みがかった色の可愛らしい小さな花が沢山――それも、指した方向に大きく広がる絨毯のように咲いていた。ああ、この花は確か、誰かから花束として貰ったことがある、確か名前は――
「リモニウム。かつてはスターチスと呼ばれていた花よ。花言葉は『永久不変』」
「えいきゅうふへん……?」
「ずっと変わらないってことよ。ここにピッタリの花ね」
「そうなの……ふふ、ずっと咲いているのかしら」
ああ、確かにそれはそうかも知れない。けれどもリモニウムには大きな意味をまだ持っている。それを彼女に打ち明けることはしない、寂しい、哀しい、もうこの世界で一人は嫌だから。
「――ラスヴェート?」
「いつか、その花に手が届く日が来るといいわね」
「ええ、いつか必ず――ああ、やだ、もうこんな時間。私そろそろ皆の所に帰るわ!」
いつの間にかオレンジ色の明かりが空に差し掛かっている、彼女と一緒にいると昼の時間がとても短く感じてしまうのはどうしようもない。一人は、寂しい。
「リコフォス、また明日」
「ええ、また明日! おやすみなさい、ラスヴェート」
そうして彼女は笑顔で手を振ると、水面へ身体を沈めていく。ぱしゃりと跳ねた水飛沫を見て、その湖を眺めていた。
――リモニウム、その花に込められた花言葉はもう一つ。『永久不変』と少し似たその言葉は『変わらぬ心』、どうか貴女がこの世界を見捨てませんように。二度と自分が一人ぼっちになりませんように。