文学への好奇心に負けた男の御噺

 少年はただひたすら、その光を求めていた。這うように侵食する暗闇から逃げ続けて、小さな陽だまりを追い求めていた。例えそれが家を裏切る行為になったとしても、知り合い全てを失うことになったとしても、それが自分の答えだ、決別だと信じて。
 ――そんな昔話の真実を、誰も信じてくれなかった。



 開いた書物の頁を捲る手を止めて、青年はソファーに寝転がる。無秩序に跳ねる短髪は、彼の目付きの悪さと合わせれば所謂不良に見えなくもない。乱れたYシャツもズボンも、その生地が東方からわざわざ取り寄せた高級布地だと言われなければ、青年の出自を知ろうという者はいなかっただろう。こんな古ぼけた図書館の、こんな埃まみれの本棚の間でソファに寝そべっていたら、貴族などと言われても疑っていただろう。
 彼の名前はフレッド・フォン・エーデルモルス。本物の貴族どころか、かつて家の次期当主にまで上り詰めた、実力も伴うやり手の学者であった。小さな家ではない、エーデルモルスといえばこの界隈では有名な研究者の一家で、その功績は輝かしいもので――そこまで言って褒めてくれた彼の叔父も、数カ月前から行方不明だ。そう、彼にいたはずの後ろ盾は全て崩れ、今はもう彼の派閥は彼自身しか残っていない。援助をもらえない青年は家には無用、そうして弟から追い出されて、彼はここに居た。
 今日も司書達の優しい声が響く、閉館時間ですよー、館内に残っている来館者は本を片付けてくださいー。その声を聞いて青年はソファ下に潜り込む――見つかっては困るのだ、少しだけにんまりと笑んだその表情ははやはり貴族らしからぬ顔で――ああ、けれども歳相応の笑みだった。
 父から受け取ったのはこの研究に対する類まれなる才能、母から受け取ったのは世界に溢れる文学への好奇心。フレッドが得意とする研究とは、その二つを混じ合わせた世界、文学について研究だ。当然読むのも書評や文学そのものばかり、昼間にたまたま見つかった司書からは、格好に似合わずと褒めてもらっている。

 「けれど、身を改めていただきませんと、貴族たちから文句が飛んできますよ」
 「こんな図書館の奥にまで入ってくる、酔狂な貴族が果たしているのやら」
 「酔狂な不良が入ってくるのでいるんじゃないですか」
 「はっ、確かにな」

 自分がその酔狂な貴族なのだが、とは口へ出すことはせず、青年は苦笑いで場をとどめた。それが、貴族の称号さえ奪われてしまった青年の答えだった。忘れ去られた研究のことも、それに関わっていた一人の研究者のことも、今頃彼らの中からは消去されていることだろう。ソファ下に潜り込んで司書をやり過ごした後、彼は地下書庫に続く階段を降りていく。
 家を失った彼の、生きるための寝床――だが、今日は珍しく先客がいた。

 「……おい、子供」
 「子供じゃないもん」
 「どっからどう見ても子供の奴が子供じゃなければ、一体何なんだ」

 少女が木を組み合わせただけのベッドの前に立っている。青年を振り向く顔は酷くやつれているように見えて、浮浪者かと一瞬思ってしまうほど。それなのに、背中に流れる薄金の髪は艶があり、着ている服もどこぞのお嬢様のようにレースがひろひらと付いた良い物だ。迷子にしてはやけに落ち着いているのが、妙に気味悪く見えた。

 「なんだってこんな所にいる、えーと」
 「ノーヴェ、あたしの名前はノーヴェ」
 「……珍しい名前だな」

 忌み嫌われる”九番目”を意味する名前、人の名前として付けることすら躊躇われるはずの、青年はきゅっと眉を寄せる。良い気はしなかったようだ。それもそのはず、名前ばかりはどうしたって付け手の意図が見えてもをけ入れるしかない。自分から改名しても尚、一生死を迎えるまで付き纏うものだ。特に数字を冠した名前など、いつまでもその数字が憎たらしく見えてくる。
 座れよ、そう青年が声を掛けるも、少女は黙ったまま立っているばかり。結局どうしたいんだ、お前。無視。ベッドに座って軋ませながら、隣をぽふぽふ叩く。無視。青年の眉が明らかに寄ったその時だった。
 「――此の図書館、好き?」
 「は」
 「此の図書館の本、好き?」

 いきなり尋ねられたその質問に、彼は目を瞬かせ眉を下げた。少女がここを図書館として知覚していることに対する安心か、それともようやく話した内容が図書館に対してのもので気が抜けたのか。どちらにせよ、今まで顔を顰めていた青年に優しい色が滲み、少女もまたその答えを期待して笑顔になった。

 「大嫌いだよ」

 その答えは、少女の顔色を一気に暗く変えていく。期待を裏切られた表情、絶望までは行かずとも近いものを滲ませる。

 「……嫌いなの」
 「ああ、嫌いだな。何もわかっちゃいない貴族の手で運営されて、司書もそこまで向上心があるやつじゃない。埃が積もるほど図書館の奥には掃除が入っていなくて、本の手入れも最悪。こんなところ好きになる奴の気が知れないな」

 継ぎ早に言い切った青年を少女はただ見詰める、悲しそうに、哀しそうにただじっと。階段奥には流れ込まない筈の生温い風は、場の雰囲気を重くしていくだけ。やがて諦めたように息をついた少女は、彼の隣へやっと座る。だが軋む音は聞こえない、彼女が至極優しく座ったのか、青年も気になったらしく隣を見ていた。

 「じゃあ、図書館変えてみる?」
 「……図書館を、か?」
 「誰もが訪れやすい図書館、本の手入れも部屋の手入れもきちんとされていて、自分たちの手で運営していくの」

 ぶらぶら、少女が足を浮かせてばたつかせてもベッドは何も言わない。

 「貴方が知っている姿でもいい、貴方の想像でもいい、貴方の手で作り出す図書館が欲しい?」
 「ああ、欲しい。本は人に読まれて初めて価値を生み出す。本は、人が生み出した財産だ。それを管理できる図書館が欲しい」

 くるりくるり、少女は自分の髪を指先に絡めて遊びだす。青年は彼女の言葉を聞いて、行動を見て、即座に反応を返す。首が振られたのは――縦だ。幸か不幸か、青年は図書館に従事しても問題ない立ち位置にいた。だからだろうか、その肯定を、その提案を自ら受け入れてしまったのは。

 「――分かった。じゃあ、貴方に”ノーヴェ”をあげる。私は、不適任だった。けれど貴方なら何か――」

 次の瞬間起こったことといえば、少女の姿が消えたこと。人間らしく生きていた青年の身体が、突如としてその論理を崩されてしまったこと。崩れていく地下室はすぐに地下牢となり、やがて、悲鳴一つ上げることを許されなかった青年の遺体は、石壁の破片に埋もれて見えなくなってしまった。
 その夜、郊外の図書館が全て焼失したという報せが、灯火が消えかけた街中を駆け巡った。焼け跡からは一切本の欠片は見つからず、すさまじい炎であったと伝えられている。図書館内にあった地下につながる階段も崩れており、死者・怪我人はいないらしい。司書や管理人の貴族によると、主に見つかったのは焼けた本棚と、子供の骨だけだった。

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