朱音


 茜色の思い出は遥か彼方の、愛しい母のぬくもり。

 遠く遠く響いた石音一つ、きっと誰も振り返ってはくれないだろう。それでも私は確かに生きていて、今、逝こうとしている。
 新しい明日のために、今日の私は静かに、茜色の空と同じように、暗闇へ落ちるしかないのだ。薄暗い店先からいつだって見える茜色の空は、今日も明日も『そら』であることには変わらないのだけれど、きっと毎日違う色を見せるということは変化があるのだ。

 この色彩も、この四季彩も。この世界において変化のないものなどない。だから黙って私はこの身をそのまま、明日の私のために捧げよう。
 からんころん、無機質な鐘が今日も世界に響いて、最後のお客さんはお金を出して出ていった。店じまいはすぐそこに来ている。まいどあり、といつもの声をかけて、私は動けぬその場所から商品の確認をし始めた。

 茜色の思い出は遥か彼方の、愛しい母のぬくもり。
 されど朱音は遥か昔に忘れた、耳障りだけれども、生きていた私の道標。



代鐘


 銀の思い出はただ静かな、雪で覆われた空と大地に似た父の愛情。

 いつからだったのだろう。思い出せない。
 煩い声が聞こえないな、と思っていた。丁度お昼に食べたはずの卵焼きの、味がわからないと思っていた。不思議だけど大好きな石炭の香りがわからないと思った。ざらざらとしているはずの地面の感覚が、わからない。ぼんやりと見える明かりが、少しずつだけれど確実に、見えにくくなっていく。雪灯にも見えるその道標が。

 そう言えば、雪が嫌いだった。同時に好きでもあった。でも人前では決して好きだなんて言えなかった。父を奪った雪を許せるわけがない、村を閉ざして飢えに導いてしまった雪を愛してはいけない。
 でもその傍らで、母が嬉しそうに眺める雪が好きだった。少ない子供たちで遊ぶ雪合戦は、身体の弱い私でも参加できて、白熱した。好きだった。けれども好きだと言えなかった。


 あれ、けれども私は、確か鉱山に父を迎えに行ったはずなのに。どうして私は、ワタシは何故父が死んでいることを知っているのに。

 銀の思い出はただ静かな、雪で覆われた空と大地に似た父の愛情。
 されど代鐘は、奪ったものを報せはせど返しはしない。  

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