人魚姫と籠鳥姫

 暗く深い水底、その最奥部に沈んだ街が一つ。小さな城と周りを囲む石造りの外壁、いくつかの大通りと細分化された路地。そこに立ち並ぶ建物は全て白い壁と白い屋根で、水に揺らめく度に光に彩られるため元が何色だったかを忘れてしまう。こんな場所に人影などありはしない、いや、あった。建物の間を優雅に舞い泳ぐ少女の姿、けれどもその下半身に二本の脚はなく、代わりに鱗で覆われた身体と尾ひれがつく――人魚と呼ばれる伝説の魚だ。
 何組か連れ立って泳いでいる中、たった一人だけ街の広場に佇む人魚がいる。他の人魚よりも一際小さく、金色の長い長い髪を優雅に揺蕩わせた少女だ。どうぞ姫、早く水面へと。周りからくすくすと笑い声や誘う声が聞こえて、彼女はほんの少し俯いた。地上には楽園がある、そう教えられて育った彼女は今日初めてこの水面から顔を出す。けれどもそれすら許されない周りは、嫉妬という名の刃を言葉に変えて彼女へと投げつけていた。それが堪らなく辛くて、気持ち悪くてどうしようもなくて、ゆるりとその目を閉じた。

 「どうせまたここへ戻ってくるもの、大丈夫」
 「――あらあら、まだ行かないの」
 「そんなことをしていたら日が暮れてしまいますわ。ふふ、夕焼けを拝みに行くのかしら、貴女は」
 「行きます、行きますわ御姉様方!この目で楽園を見てきます!」

 噛みつくように言い放ってから砂の地面を蹴った。白い街を振り返ることはしない、そんなことをしたところで何になる。広がる視界と水中まで差し込んでくる明るい光に目を細めて、それでもその辿り着きたいと願う水面を目指した。そんなに遠くない距離だと思っていたのに、この何もない水の中では寂しくて、怖くて、立ち止まってしまいそうな恐怖に襲われて。それでも、それでも私は水面から顔を出してみたいんだと、その一心で泳ぎ進む。
 大量の泡を押しのけながら手を伸ばせば、初めて身体の表面を水が滑らない場所に出た。思い切って顔を覗かせれば――

「……何、ここ」

 石に囲まれた、庭のようなところだった。切り取られた青、今自分がいる水とよく似た青だが、まさか天も水で出来ていたのか。だが水滴一つ落ちてこないそれを水と断定するには、知識も情報も乏しくて。周りを見渡してみるもやはり石を積み重ねたような壁が、高さを変えてそこに鎮座しているだけ。岸の周りには色とりどりに咲き乱れる花々、けれども全てが綺麗に咲いていて、誰かが踏み荒らした形跡もない。ここはいわゆる人間と呼ばれる者が来ない場所なのだろうか。

 「誰も……誰もいないの」
 「いるわ、待っていて」

 どこからか声がする、凛とした鈴のような高い声だ。辺りを見渡すもどこにもそんな人影は見えず、思わず天の水を見上げた。――いた、あった、けれどそれはぎぃっと鈍い音を鳴らす巨大な何かだった。

 「ひゃっ……!」

 明らかに鉄の塊だとは想像がつく、それにしてもなんて大きさだ、天の青が真っ二つに分断されてしまいそう。音を相変わらず鳴らしながら横に移動してきたそれは、花たちの上で動きを止めた。

 「あなた、水の中にいて寒くないの」
 「えっ」

 鉄の塊から声がする、まさかあの中に人が閉じ込められているのだろうか、それにしてもなんだってそんなところへ。答えられずに思案しているとくすりと相手が笑った。

 「ふふ、分かったわ。あなた人魚姫ね」
 「え、あ……えと」
 「答えなくて大丈夫、怖がらなくても大丈夫、ほら」

 ガシャン、と金属と金属がこすれる音が上から聞こえる、よく見ると扉のようなものが開いていて、そこから顔を覗かせる一人の少女が居た。前髪をかきあげて少女は笑う、思わず魅入ってしまうほどその瞳は澄んだ青で、天の水とよく似ていて。

 「初めまして、可愛い人魚さん。私はご覧のとおり籠に住んでいるの、近づけなくてごめんね」
「な、なんでそんなところに」
「ふふ、私にもわからないわ。けれどもここは私にとって唯一自由な場所なの……移動は不便だけれどもね」

 じゃらりと鎖を垂らして見せてくれた、よく見れば切り取られた青の世界には細い鎖が。あんなものに人一人を乗せる籠を吊るせるのか。よほど特殊なものなのだろう、そう納得するしか無かった。

 「ねえ、あなたの名前を教えて。ここは寂しい世界なの」

 少女は腕を伸ばす、決して届かないと知っているだろうに懸命に伸ばして。  「ああ、いっそここから飛び降りてしまえれば楽なのにね。私は籠の鳥だから動けないの」
 「籠の、とり」
 「……ふふ、ただ飼いならされているだけならよかったんだけどね」

諦めたのだろう、腕を引っ込めて顔をまた覗かせて彼女は笑った。  「また次でいいわ、あなたの名前を聞かせて。この世界で名前は一番思い出に残りやすいから」
 「……リコフォス」
 「え」

 呟いた言葉は相手に届かなかったらしい、だからせめてもと声を張り上げる――彼女に届かせて、彼女の記憶に刻みこむように強く。

 「私の名前はリコフォス、あなたの言う通り水の民で、人魚の姫よ!」
 「リコフォス……綺麗な響きね、羨ましいわ。私の名前はラスヴェート。歌を紡ぐために生きる籠の鳥の姫」

 慈しみの笑みを湛えて、少女は声を上げる。閉じ込められた世界に響くその声はまさに歌姫。心に刻みつける、初めて楽園で出会った少女の名前だ、絶対に忘れるものか。

 「ラスヴェート、私、初めて今日水面から顔を出したの。だからあなたが初めての人間よ」
 「まあ!じゃあお祝いしたいわ、どうしよう、わたくしに何が出来るかしら……!」

 はしゃぐ彼女に笑いかけつつ、一つ早速我儘を申し出てみた。

 「歌を、聞かせて。さっき歌を紡ぐって言ってたわよね。私も歌が大好きなの」
 「本当、じゃあ一つ、出会えた喜びとあなたのお祝いを兼ねて」

 歌が一つ紡がれる、ここは世界の果てにあるという墓場、或いは楽園と呼ばれる場所。そしてこれは、決して叶わないと知りながらもその手を伸ばし続けた少女たちの、出会いの物語。

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