Dandelion
太陽が昇り始めて、世界が始まる。けれども辺りを払う者は何人たりともおらず、静けさだけがこの通りを制する。それが私の世界の常識であり日常であり、哀しさだった。この通りを通る人は日常的に少ない、ましてや店の前で足を止める人など、日にいるかいないかの瀬戸際。それでもこの店が成り立つのは、一重に客たちが落としていくお金や物があるから。そうでなければこんな店、いつまでも建ってはいられないだろう。
今日は何やらこの街で催しがあるらしい、寂しい通りが一気に抜け道に変わって、人がいつもの三倍も、四倍も通って行く。それを鬱陶しいと思おうにも、中にはこちらに気を掛けて入ってくる客もいて出来なかった。いや、鬱陶しい客もいるにはいたが――例えば、軒先の花に手を触れただけとか。けれどそんな客は本当に触れただけで、そのまま通り過ぎていくので問題はない。
何かにいそしむ人々が通り過ぎる度に、ああ、目的があるのも素晴らしいなと思う。目的なく開いたこの店は、主の趣向を映したものばかりが置かれるが、それ故に手にとってもらっても買われない事が多かった。だから、今日みたいに人が、客が多くても商品は減らない。当たり前だが、店主である私に声を掛ける者もいない。チェリーレッドの華やかなドレスの裾を揺らして、パステルブルーの燕尾服の裾を靡かせて、彼等は何処かへパーティをしに行くでもみたいに楽しそうに笑って去っていくのだ。
いいな、いいなあ。私もそこに行ってみたい。けれども、カウンターから手を伸ばしても、伸ばすだけではその宴には参加できないと知っているから、私は今日もここで一人。
店先に咲いた蒲公英は、花茎を伸ばして白い種子を風に乗せる。自由に飛んで、どこまでも広いという空を一人で、あるいは仲間と旅して、いつか地面へ戻ってくるのだろう。どこにも行けない私と違って。
ダンデライオン:日本語名、蒲公英。花言葉は「別離」。
Linaria
世界が桜色に染め上げられる頃、桜の花びらが舞い散る景色の向こうに、必ずそのヒトは立っていた。毎日のように店先へと足繁く通うそのヒトは、必ず何か御願事を呟く。そして祈るように手を合わせて、私が声を掛ける間も無く去っていくのだ。そんな通りすがりのヒトに――私は、そんなひとときしか見ることが叶わないヒトに。一目惚れをした、だなんて。
そんな初恋のような気分を抱き続けた、ある明け方のことだ。私はいつものように花舞う店先へと顔を覗かせる。片手にはハタキ、もう片手には雑巾。店先を掃除する言い訳を、誰かにするはずもないのに用意してしまったのだ。もちろん、用意してから気付いた訳だ。何をやっているのだろうか。
自分の手に握ったままの掃除用具を片付けるか迷っていると、通りの向こうからそのヒトが歩いて来るのが見えた。急いで隠れ、ゆっくりと近づいてくるそのヒトの足元を眺める。くる、来る……そう思って影から様子を伺っていると、いつものようにそのヒトは店先で足を止めた。いらっしゃいませ、勇気を出してそう言おうと顔を出しかけた時だった。想像以上に低い声が、耳で谺した。
今日も妻が元気でいますように
ぴたり、と身体が、金縛りのように止まる。胸が締め付けられて、熱くて、掃除用具を握ったまま胸元を押さえたままになってしまった。心臓が古びた大時計の針のように止まってしまいそう。私はこっそり物音を立てないように、建物の中へと戻っていった。暗い、その闇に限りなく近い空間で、静かにだが息が漏れる。
もしもこのときの私がもう少し大人であったなら、その感情の名前を嫉妬、とちゃんと呼べたのかも知れない。しかし、私はまだ幼く、感情の名前を知ることはおろか、存在さえ知らない身であった。だから、会ってはいけないことだけを記憶に刻んで、その日一日出ることを止めてしまった。
――これは後に知ったことだが。そのヒトは数年前に伴侶を亡くした過去があるのだという。そしてあるかどうかもわからない天国の世界とやらに祈りを込め、毎日変わらぬ願いを伝えにここへやってきたのだと。店先のベビーピンクにも、スカイブルーにも、目をくれないまま。
リナリア:日本語名、姫金魚草。花言葉は「この恋に気付いて」。