序幕『始まりの夢と最悪の誕生日』

 真黒の空に銀の地面。流れていく雲は灰色の塊のままで、色が変わる気配は一向に訪れない。――それ以外、何もない。青く光る海も、緑揺らす木々も、赤く燃え上がる太陽と金色に輝く月も。空気は冷たく、暖かさを感じられないまま、ただ時だけが過ぎていく。世界の果てまで続く、単調で不思議な光景、何一つ……生きた物の鼓動さえ感じられない世界。
 そんな世界の中に、人影がぽつりと一つだけ存在している。"私"の身長より格段に小さな、子供の人影。まるで場違いとでも言わんばかりに存在する、異様な生き物。生きた鼓動が不思議と感じられない、ヒト。
 これは夢だ。私が昔から何度も見る、訳が分からない不思議な夢。いつも内容は同じ――今日もやはり、いつもと同じように、その子供は私がいる方向を見ずに話しかけてくるのだ。まだ幼い、でもどこか大人びた少年の声で。

「やぁ。また会ったね、ティリス」

 そう、"私"の名前はティリス。"私"はここで名前を名乗ったことはないのに、この子供は何故かその名前を知っていた。そして夢で出会うたび、必ず最初にこの子は名前を確かめるように名前を口にするのだ。どうしてそんなことをするのか、"私"には分からなかった。分からなかったから"私"は何も答えずにいた。肯定もせず、ただ黙って。
 ――突然、ふわりと心地のよい風が吹いた。
 自分の髪が揺らめき、その先にいる小さな人影へ目が行く。子供の髪は空と同じ黒色だが、風でなびくたび緑に光っている。この夢の中でしか見たことがない珍しい色合いだ。きっと、こんな夢の中よりも色が溢れる現実で見た方が美しく見えるだろう。
 ――だから分かる。この子供は、私が夢以外で会ったことのない人なのだと。だからこそ大きな疑問が浮かぶ。

「あなたは、だれ?」

 何度も、夢でこの子供と出会う度に繰り返された質問。くすっ、と子供が笑ったような気がした。"私"は子供の名前を知らないというのに、子供は私の名前を知っている。それはおかしく、同時に恐ろしい。

「さぁ、誰だろうね? いつか分かるんじゃない……あぁこれ、ずいぶん前にも言った気がするけど」

 そういえば言われた気もしたが、いつ言われたなんて覚えているわけがない。なにせ、いつの間にか見始めたこの夢は、もう何十回目か分からない。終わらない追いかけっこのようにいつまでも見るのだろうか。一人考えていると、いつもの通り子供は少しだけこちらを向いてまた笑った。

「あはっ、まだ分からないか。まあいい、ヒントをあげよう」

 ……あれ?と首を傾げる。いつもなら、ここで「じゃあ、分かったら教えてね」と言われるところだ。そして、夢から覚める……ということの繰り返しだったはず。だからこそいつまでも子供の名前が分からず、悩みの種となるのだ。
 しかし今回はどうやらいつもとは違うようで、子供は地面をゆっくり踏みしめるように近寄ってきた。それほど遠くない距離から時間をかけて歩いてきた子供は、私の目の前に立ち、私の顔を見上げる。初めて近くで見る子供の顔に、私は無意識に目を奪われてしまった。
 右目を隠すように流れる黒髪、耳の上で光る赤鋼の花の髪飾り……そして、私を写す吸い込まれそうな薄紫の小さな瞳。そんな子供と私の目が合った次の瞬間、唐突に世界は崩れた。

「……え?」

 あまりにもいきなりすぎて、状況がうまく飲み込めない。地面が見えず、先程見上げていたはずの空が正面にある。思ったよりも柔らかな地面の雪の感触が、背中から伝わる。だが感触はあっても温度は――冷たさは伝わらないまま。
 なぜ……?
 私が倒されているのか、と理解するまでにそこまで時間はかからない。その証拠に、笑ったままの子供が私の上に乗っかり、私の喉元に両手を添えている。何をと言わなくても、どういう状況かくらい分かる。少しずつ、少しずつだが子供の手に力が入っていくその感覚。無意識に自分の手を子供の手に乗せて、剥がそうと試みる。
 私、殺される……?
 夢だと分かっているはずなのに、恐怖が心の奥底からこみ上げてくる。子供のあどけない指の爪が、私の喉に小さく食い込んで息を苦しくさせる。逃げる隙は無いかと子供の方を見ると、先程の目とまた目が合った。しかし、見たのは間違いだった。見なければよかった。その時私は大きな後悔を抱いていた。
 その目には明らかな、殺意。
 反射的に動こうとした瞬間、ぐっ、とさらに押し込まれる。もう大人になりかけの自分と子供とでは、体の大きさも力加減も違う。それなのに。
 違う、これは、夢。それなのに酸素が肺から抜けていく感覚のせいで、夢という認識すら頼りなくなる。息が詰まる、苦しい、誰か。まだ私はこんなところで死にたくない。まだやらなければならないことがあるのに、それなのに!遠のく意識の中、息の音を確実に止められる、という迫りくる恐怖に何とか抗おうと力の限り叫んだ。

「いやぁあっ!」
「うおっ!?」

 それは突然の出来事。場違いな声が、私の意識のその奥をついた。あるいは引き戻した、と言うべきなのか。自分の体の上にあった重力は、ない。飛び起きて周りを見渡す。白の世界、黒の空、だがそこは。

「……え……?」

 ぼんやりとした視界が妙に明るい。多少暗さは残っているが、夢に比べればかなり明るい方だ。周りを一度見渡して、あの場所ではないと分かった。夜はまだ明けてはいない、空は青と赤を混ぜた色をして、いつか訪れる夜明けを待っていた。旅人用のテントがいくつも張られ、蛇などの侵入を防ぐために回りの草が刈り取られている場所がちらほら見える。自分の下に引かれたシートのさらに下、大粒の石が取り除かれた地面からの冷たい感触が、妙に心地良い。所々で灯された灯火が、のんびりと歩く人達を照らしてくれている。
 ――ごく普通の、私がよく知る野営地の風景。
 あの夢とは違う風景。そう考えたとき、夢の内容を思いだした。ふと、自分の首に優しく手を当ててみる。喉に食い込んでいく指の、あの感覚。子供の、あの殺意がこもった瞳。あの靡いた髪の色同様、忘れることなんてできなさそうなくらいに記憶は鮮明に残っていた。そして、記憶を頭の中で再生してしまって身震いする。
 汗が顔の横を、服の中を伝っていくが分かる。自分にかかっていたタオルケットへ縋るように、強く強く握りしめてしまう。何故、どうして。分からないことばかりで、あの夢が一体何なのかと普段以上に考えてしまう。気持ちを落ち着けるために、深呼吸でもしておこう。そう思ったとき、後ろから自分に近づく足音が聞こえた。

「っ!」
「おい、大丈夫か」

 急に感じる人の気配に、思わず身構えて側に置いてある武器を手に取る。しかし、見上げた先にあったのは兄、ガディーヴィの姿だった。あの子供じゃなくて良かった、と胸を撫で下ろして武器も地面へと置く。その瞬間、後頭部がコツン、と控えめに叩かれた。

「もう、びっくりさせんなよ。魔物が出たのかと思ったじゃねぇか!」
「ご、ごめん」

 反射的に謝ると、兄さんは手袋を外し、その大きな手で頭を豪快に撫でてきた。視界に兄さんと同じ金色の髪、自分の横髪が揺れる。兄さんの後ろをよく見ると、私のあの悲鳴じみた声を聞いて駆けつけてくれたのだろうか。他にも何人か心配そうな目で、物陰から控えめに私達を見ている。
 不意に兄さんの手が離れていくのがわかった。見上げたその表情は寂しそうで、心配してくれているのだと頭の片隅で他人事のように理解する。あぁ、心配してくれてありがとう。その言葉ですら、今の私からは出なかった。

「ほんっとに大丈夫か?」
「なんでもないよ。ちょっと、怖い夢を見ただけだから」

 笑顔を取り繕ったが、多分効果はない。兄さんはそんなもので騙されてはくれないからだ。案の定、その緑の瞳は訝しげに細められている。ほんの僅かな間沈黙が下りて、先にそれを破ったのは兄さんの方だった。

「……ふぅん、そうか」

 口調的に、どう考えても納得していない。結局追求はせず、兄さんは手袋をはめ直して遠ざかっていった。本気で心配させてしまったようだ。まだ料理用の手袋をしているところを察するに、料理の真っ最中だったみたいだし、ただ邪魔をしてしまったということになる。
 目線で追えば、兄さんはこちらを見ていた人々に何か話しかけている。大方、「心配をかけました」とかだろう。時々私に向かってくる視線でさらに申し訳なくなり、視線をそらしたいがために頭を下げる。だが、あまりにも居心地がわるくなって、これなら動いていた方がましだと考える。立ち上がってタオルケットを畳み、専用の袋に入れて旅行鞄の中へしまう。慣れた片付けが終わると、急に肌寒く感じた。あれだけ汗をかいたわけだし、まだ早朝だし、仕方ないだろう。鞄をテントの脇にそっと置いた時、ふと何か疑問を感じてその場に立ち止まる。
 ――早朝?
 簡易の料理場で野営地の人と何やら話し込む、楽しげな兄さんの姿を凝視してしまう。少し覗きこむと、火の明かりが奥で点っていた。何を調理しているのは分からないが、肉を火で炙ったような香ばしい匂いが漂ってくる。
 ――兄さんが、こんな時間から料理?
 私の時間感覚が狂ってしまったのだろうか。そう思いもう一度周りをよく見渡すと、テントに吊り下げた半円の鉱石――まだ中の人が寝ていることを示す印が残っている物が多く、寝ている人が多いことがわかる。この野営地の朝は、他の場所に比べると早い方だ。つまり夜が明けてすぐ、という私の認識は正しい。それなのに兄さんは料理している。
 早い。いつも兄さんが料理し始める時間にしては、早すぎる。普段なら朝日が昇ってからゆっくりと、しかも私と二人で料理する。こんな早くから料理をしなければならないなんて、何かあったのだろか。疑問を感じていると、調理場から当の本人から声がかかった。

 「今日の朝御飯は、皆が作ってくれたスープと昨日仕留めたやつなー。つったって、普通に焼くだけなんだけど……」

 肉なら食えるよな?と笑顔で言ってくれるあたり、私を元気付けようとしてくれるのがよく分かる。笑顔で軽く返事をし、兄さんのいる方向に足を踏み出しかけたそのとき、思考が停止した。
 ――昨日仕留めたやつって、あれ一応魔物だよね、食べること出来るの。いや猪っぽいし、食べられるだろうとは思うけど。
 そんなことを考えているとは思ってないだろう、できたぞー、と兄さんから呑気な声がかけられた。疑問を抱えながらも歩き出す。テーブルには、朝から野営地の人達が炊いたと思われる野菜のスープと、見た目だけ美味しそうな炙り肉が出されていた。
 喉が、勝手に鳴った。ふ、普通に美味しそうだ、スープとか特に。肉も、……肉の正体さえ聞いていなければ食べることができそうだ、多分。

「まあまあ、とりあえず、な?」
「……イタダキマス」
「あー! まて、待て!」

 疑いながらも食事に手を伸ばしたそのとき、兄さんの馬鹿でかい声が野営地の中央で響く。鼓膜に響く音で右手にスプーン、左手にスープが入った器を持ちかけて止まってしまった。持ち上げて落とさなかっただけ良かったと思う。
 何だ、急に。―-あぁ、今の声で何人か起きたかもしれない。野営地の人、ごめんなさい、こんな 兄で。もし起きてしまったのならば今すぐにでも謝りに行きたい。
 兄さんに向かって白い目を向けると、何を勘違いしたのか照れくさそうに笑った。どう反応していいか分からず、ぶっきらぼうに短く聞いてしまう。

「何?」
「あの……うん、誕生日おめでと、ティリス」

 言葉を反芻してから数秒、固まった思考がようやく動き出す。おや。私の誕生日か。朝から何か豪勢だなと思っていたのだが。
 まだ顔を赤らめたまま、兄さんはおもむろに手を叩き始めた。すでに起きている野営地の人達も初めから合わせていたように、「おめでとう」と言って兄さんと一緒に叩いてくれる。小さく、長い拍手が野営地に響いた。誕生日自体に興味がない私としては、苦笑いしたくなる光景だ。そしてようやく、一つ目の疑問が解けた。

「もしかして、わざわざ朝早くからやっていたのは」

 私の誕生日だから?と声には出さないものの、兄さんには伝わったはずだ。兄さんの反応は、少しはにかんで小さく一言。

「……てへ」

 止まりかけた思考を、何とか現実に戻す。実の兄がこんなにかわいいとは……じゃなくて。もうこれだけでも祝われて嬉しいと言うのに。

「……じゃ、じゃあいただきます」

 わざわざ野営地の人が、何よりも兄さんがこのために朝早くから支度してくれたのだ。これは何としてでも食べなければいけない。でも、お肉は怖い。美味しそうだけど魔物の肉という時点で食べられる気がしない。そもそも昨日苦戦した末に自分が槍で突きまくった相手だと思うと、一層食べにくい。……ひとまず先に、野営地の方々が作ったスープを食べてみよう。当初の予定通り、スープから食べることにする。
 簡素な白い器に手を添えると、その温かさが器に触れた手へ伝わってくる。赤、緑、黄色といった鮮やかな野菜の色がちょうど明かりで浮かび、みずみずしく見える。美味しいことを期待してスプーンですくい、一口。……美味い。
 こういう料理に慣れている人が作ってくれたのだろうか。味が、とにかくいい。とろみをつけているので喉に通りやすいし、中に入っている野菜は一口サイズに切られているので食べやすい。何よりも、何を使ったかはわからないが香りがよく、食欲が進む。これはいい、後で作り方を教えてもらおう。また一口、さらに一口。どんどん食べ進めていると、お腹が空いていたこともあってすぐに器が空になった。
 さて、と自分で何とか気持ちを切り替えて別の皿、肉の方を見る。
 匂いは、まぁ別に問題なさそうだ。見た目もまぁ普通の肉の塊。ただ味の保証が……無さすぎる。後ろにいる兄さんの恐らく期待しているような視線が、ものすごく痛い。正体さえ聞かなければ、普通に食べることができたのに……。仕方ない、この際、魔物の姿は忘れることとしよう。
 がんばれ、私。せめて食べられるものでありますように、と強く心の中で祈る。勇気を振り絞って、切り分けられている肉の一枚を口に入れて噛んでみた。



 ――先程から、お腹が痛い。後で悔いるから後悔するって言うのだけど……とりあえず、痛い。お腹を庇うように寝転んでから数時間。夜はとうに明けて朝の光が眩しくテントの合間から差し込んでくる。目に痛く感じ、空いていた左腕を閉じた瞼の上に乗せて、光を遮る。かといってあんな夢を見たあとで眠れる訳がないので、本当に何も出来ない状態である。

「あの……ティリス、大丈夫?」
「うるさい黙ってて」

 お前のせいだ、とは言わないが、思わず兄の方を睨んでしまう。私はあのお肉を食べた後、急にお腹が痛くなって机に突っ伏し、野営地の人へさらに心配をかけてしまうはめになったのだ。起きたときのことといい、先程の出来事といい、居たたまれないこの気持ちをどうしてくれる。

「すみません……」

 兄さんは、私に怒られたのがかなりショックだったようで、頭を項垂れさせた。罪悪感は多少覚えるものの、こっちはそれどころじゃない。心配をしてくる兄さんに、ちょっとした殺意が芽生える程の痛みなのだ。
 いつもなら運動がてら、兄さんと手合いをする時間帯。しかし、今日はお腹を下しているのであまり動けない。そのため、今は自分が寝ていたシートの上で横になることぐらいしかできなかった。自分の手元にある槍をどうにか動かすことができれば、真横に突っ立っている男を差すことができるのだが。
 あの夢と、あの食事……もとい肉で、私の気分は完全に低迷した。自分も忘れていたとはいえ、久しぶりに祝ってもらった誕生日を憂鬱な気分で過ごす、という予想が嫌でもついてしまう。このあと少しでも良くなることを願いつつも、何かまだ起こりそうな気がして私は一人溜め息をついたのであった。

「お昼からは何もありませんように。あと、兄さんが余計なことをしませんように」

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