第一幕『私たちの故郷』
ハイマート王国東国境近く、野営地。東に鉄の森〈ジェリェーザ〉と呼ばれる大きな森が面する、旅人達の休憩場にして中継地点。ハイマート王国と隣国との国境を示す役割を果たせしていることもあり、その重要性はかなり高い方だ。
この野営地に面する鉄の森、その木の葉の緑は光が当たると更に鮮やかさを見せ、素朴な野営地に癒しをもたらしていると耳にすることが多い。しかし、一歩でも入れば昼間でも日が差し込まず暗い場所へと変化する。昨日森の入り口から少し入った所までを案内してもらったが、目に見えているはずの向こう側があまりにも不気味だったためにそれ以上は断念し、野営地へと戻った。
――噂では、森の奥が魔物達の住みかとなっていて、かなり強い魔物が集まっているらしい。昔は鍛練のためだろうか、剣士達はこぞって名乗りをあげて森の中へ入った。入って、ぼろぼろになって帰ってくるのが当たり前だったとか。それでも人が出入りしてもう何十年。物騒な森を抱えているにも関わらず、この野営地は平和そのものだ。森の入り口や中に仕掛けを施したため、近年はあまりほとんど魔物が入ってこない。そして、この国では魔物以外の脅威が少ない。だからこそいざ入って来たときが大変になるのだろう、とは誰も思わなかったのだろうか。
昼下がりの野営地はいつも通り賑やかになっていた。人の多さもさながら、目につくのはそれよりも多い荷物――交易品の山だ。果物・布・木材、何でも有りの世界。とにかく野営地には様々な物資が持ち込まれるため、その場での物々交換がしやすい。それを狙って野営地に来る人も多いため、寝泊まりする人間だけではなく通りすがりの旅人もよく訪れる。そんな中、たまたま森の出入り口に程近くの場所で、旅人同士で交渉をしていたであろう一人の年配の女性、彼女は物音に気づいて交渉を手で遮って動きを止めた。周りの人間も遅れて彼女の視線を追う。
――視線の先、森の入り口には異形の姿。そう、明らかに人間ではない。人影とすら呼べないその何かをいわゆる何と呼ぶのか。それを知っていた女性は皆に知らせるように、上擦るも大きな声を張り上げた。
「っ魔物よ!!」
その声は広い野営地に響き渡る。口を止め、手を止め、足を止め、頭がその意味を理解することに専念した。そしてほんの一瞬の出来事、短い単語を正しく理解した人から野営地の入り口を目掛けて逃げ始める。バラバラであったはずの人の波は次第に集団となり、ただ逃げたいという一心、欲望に似た塊へと変わる。押し問答や悲鳴があちこちで谺しては押し潰されて、さらに場を混乱させていく。その中を逆方向へ歩き進めることがどれだけ大変で、足を縺れさせないように必死だと思うのか。少しは非常時用の手引き書でも作った方がいいのではないか。
後ろから子供だろうか、泣き声が聞こえてくる。ほら、まただ。逃げ回る人々に、それを淡々と見つめる異形の魔物。昨日仕留めた時と違うのは、魔物の種類が猪ではないことぐらいである。人々の合間から爪先立って目を凝らせば、相手の灰色の身体は少しばかり宙に浮いて、足が地に着いていないことが分かる。頭から生える角と二本足の格好、滅多に見ない奴だが悪魔と呼ばれる魔物だと確信した。珍しい、と踵を地面につけながら一人思う。
握りしめていた袋を持ち直し、自分を落ち着かせてもう一度周りを見渡す。ここには剣士がいるはずだが、誰一人出てこようとしない――それで良いのか見張り。おかしい、朝には最低でも4人は見かけた。どこに行ったというのだ、見張りどころか本来の職務さえ果たさないとは。普通の剣士には手出ししにくい敵には違わないが、勝手に相手が引いてくれるわけではないのだ。
――悪魔はその皮膚の固さから、剣や槍といった物理攻撃の耐性を持っているとされている。唯一皮膚の薄い首が弱点だと習うのだが、攻撃や防御の反応が非常に速い悪魔の弱点部位だけを狙うのは難しい。物理攻撃しか方法がない剣士にとってはかなりの難敵である。ただ、とある攻撃だけはどの部位でも通用する。物理攻撃ではないその攻撃に悪魔は弱く、体勢を崩しやすいので弱点も狙いやすい。だがそれを知っていても使える人は限られており、この場所に果たしてそれを使える人がいるかが問題だ。
ちょうど人波をようやく抜けようとしたその時、遅れたがために逃げようとして焦ったのか、一人のおじさんが勢いよくこけた。虎視眈々と狙っていたのだろうか、獲物を探していた悪魔は好機を逃がさない。急に動き始めて、音もなく一直線におじさんへと向かっていく。その光景を見た後ろの人々から、おじさんから、恐怖に満ちた悲鳴があがる。袋を持った自分の右手に力が入っていく気がした。袋の口に縛り付けていた麻紐を解く。こんなやつ――
「やぁっ!」
「……へ?」
強そうでやりがいがあっていいよね!と腹の痛みは我慢し、無理矢理おじさんと悪魔の間に割って入る。袋と紐を地面へ投げ捨て、現れた槍を両手で持って横凪ぎすれば、悪魔は滑るように後ろへ下がった。恐らく視界に私が見えていたのだろう、虚ろな感情のない瞳は私の姿をただ映している。もう一突きして距離を稼いでおこうか、今度は左手を槍にそっと添えてから足を踏み出し、悪魔の方へ突きだす。さらに後退したことを確認し、その隙間でおじさんを立ち上がらせた。長袖に長ズボンというやたらに動きにくそうな格好のおじさんはおそるおそる顔をあげる。目の前でやられそうになったのだから、さすがに怯えているとか強ばっていると思った。しかし、その予想は外れて意外な方向に。
振り返った先の顔は間抜けた、という表現が一番正しい表情だった。何故だと問うよりも前に、それもそうかと納得がいった。今の私の顔は多分、笑っている。原因は分かっている、戦いが好きというわけではないが、弱い魔物より強い魔物と戦う方が楽しいと思うからだ。それに動いたこともあってお腹の痛みも若干引いてきた。やっぱり動いている方が私には合っているのだ。あんぐりとただ口を開けていたおじさんは、はっと気がついて叫び声に近い声を出した。
「お、お嬢ちゃん危ないよ!」
馬鹿らしくて振り向くことを止める。そんなことを言う暇があるなら逃げてください、こんなときにそんな余計なことを言われてもかえって邪魔なんですよ……とはさすがに言えないため、代わりに用意していた言葉をかけることにした。今はただの足手まといにしかならない。特に武器も持たないこの人では、目の前にいる敵を倒すことなど不可能に近いのだ。
「逃げて!ここは私が引き受けます!」
「なっ、お嬢ちゃん一人で!?」
間髪入れずに言われた言葉に苦笑する。……確かに、女の子一人では危ない。普通なら真っ先に逃がされるべき人間の一人だとは思う。ただしそれは、私が本当にそこら辺にいる"普通の女の子"なら、の話。答えるのも面倒になり、言葉を小さく唱えて集中することにした。呟く言葉に周りの空気が反応し揺らめく光となり始める、目で見なくても感覚だけでわかる。
――準備完了。左手を槍に添え、槍の先を悪魔に向けて力ある言葉を放つ。
「――【風の刃】!」
自分の周りに、半円形の刃の形をした黄緑色の光が大量に出現する。一つ一つが意思を持ち、それらは全て槍が向けられた方向へと飛び交っていく。その攻撃に驚いたのか、それとも悪魔自身が苦手とする攻撃だからか。悪魔は避けようと必死に逃げ回っていたが、足を、腕を、背中を、魔法の刃に切り裂かれていく。威力もそこそこあり、良い感じに命中したらしい。魔物特有の叫びが野営地に谺する。その光景に、逃げようとした野営地の人達は足を止めて振り返り、今起こっている状況き顔を見合わせていた。そう見ることができるものではない、からなのだろう。先程助けたおじさんが、尋ねるように呟く。
「ま、魔法使い?」
正解、となるべく笑顔を保ちながらおじさんに答えた。
――魔法使いとは、言葉通り魔法を扱うもの。百年前にあった事故のせいで一度大きく衰退したが、今は少しずつ数が増えてきた職業だ。とはいってもそのほとんどは研究者で、旅人は格段に少ない。つまり、外で魔法使いを見るのは珍しいということだ。私はその中の一人、数少ない外にいる旅人の魔法使いである。魔法使いは空気中にある魔法を呼び起こす元、魔素<マナ>と呼ばれる気体に呪文で呼び掛け魔法を発動させる。今私が使ったのは、風の魔素による初級の攻撃魔法。もちろん初級だから威力は落ちるが、使い勝手がよく呪文を間違えることがない自信がある。旅先で何度も慣らしたかいが合ったようだ、その証拠に悪魔はたたらを踏んで体勢が崩れている。体勢を直す前である今が好機、と自分の前方、悪魔の後ろへ向かって叫ぶ。
「兄さん!!」
「おうよ!」
呼び掛ける必要もなく、既に準備万端だったらしい。マントをはためかせながら思いきり飛び上がり、剣を勢いよく悪魔へと降り下ろす。剣士としては基本の技だが、これも威力のある一撃だ。私の魔法と共に磨いてきたその刃が狙うのは、悪魔の一番弱い部位である首筋。
――こういう時、兄・ガディーヴィの存在がとても頼もしくなる。迎撃も追撃もされることなく、灰色の悪魔は瞳の色を完全に失い地へ落ちた。
背中の鞘に剣をしまう兄さんを見て野営地の人達は動きを完全に止める。何が起きて何となったのか。一つの結論に達した者は笑顔を溢していく。恐怖が伝染したように、喜びもまた人の波を潜って伝染して、入り口から反対側へ駆け寄る人々。その先頭にいたのは、先程悪魔から助けたおじさんだ。あぁ、笑顔が眩しい。その輝きは、障害物が何もない野営地にさす太陽の光のごとく。他の人よりも笑顔なのは気のせいではないだろう、握手を求められてそれに答えると、力強くがっしりと両手で握られた。
「まさか魔法使いだとは思わなかった!助かったよ、ありがとう!」
まさか、という言葉に首をかしげ、直後に思い当たる節を発見した。私たち兄妹は昨日の夕方からここに滞在している。そして、その昨日は昨日で猪に襲われた。その時は特に必要性がなかったために魔法は使わず、物理攻撃のみで魔物を倒したのだ。私が魔法使いであることは兄以外誰も知らなかったということなのだろう。
あれだけの驚きだったところを見ると、どうやら今この野営地にいる魔法使いは、私一人だけしかいないかもしれない。――本当にこの野営地大丈夫なのか、正直心配である。この国の人は元々どこか抜けているというか、平和ボケしているというか、とにかく危険にさらされやすい。おかしい、私だってハイマート国の国民だがそこまではいかない。いっそハイマート国民ではないよと言われた方が納得がいく。
「いやいや本当に助かった!あんたらがいなけりゃどうなっていたか!」
その前に武器を持っていないなんて馬鹿じゃないですか?と言いたい、凄く言いたい。目をそらしてなんとかその笑顔から逃げる。おじさんの言葉はとても嬉しいのだが、裏を返せば私たちがいなければどうなっていたかということ。確かに私達みたいに各地を回る人は他にも大勢いる。だが、どこをどう回るかは個人の自由であり、ここへ確実に誰かがくる、というわけではない。たまたま旅の途中で、休憩のためにこの野営地を訪れただけだ。それなのに、ほとんど出てこないはずの魔物を二日連続で退治した。はっきり言おう、疲れた!……と愚痴りたい衝動をこらえる。言ったところで何も変わらない。
「いえいえ、これが仕事みたいなものですから。皆さんが無事で何よりです」
いやいやそんなことは!と何人からか声が上がる。視界の端では、見張りである剣士とおぼしき人達が肩を落として空気を淀ませている。責められている、と思っているのだろうか。――野営地の人たち、馬鹿正直なのは分かったからその辺でやめてあげてほしい。並の剣士では太刀打ちできない魔物じゃあしょうがないし、何よりその重たい雰囲気を見ているこっちがいたたまれない。しかし、今の心中を察してくれるはずもなく、野営地の人達は止まることなく喋り続けている。助かった、とかありがとう、とかという言葉が出る度に見張りの人の空気が暗く濁るのだ。
ついに剣士たちの話題に入ったおじさんたちに、頭を抱えそうになる。あぁ、だめだ。このまま話していても私の癪に触るだけだ、出よう今すぐ。全く頭に入らない話を若干無視して、放り投げていた袋やら二つの旅行用の鞄を掴んで、そのうちの一つを兄さんに向かって放り投げる。
「んぶっ!」
合図もせずにやってしまい、怒りに任せるがままに投げた鞄は見事に兄さんの顔へ当たった。ちゃんと見ずに投げてはいけないようだ。一応心の中で謝るものの、朝の仕返しが済んでいないため口に出したりしない。そもそも体調の悪さの原因は、この馬鹿兄がやらかしてくれたからである。今、私の機嫌が自分でも分かるほど悪いのもこの男のせいだ。
「おいっ!いきなりなげ……あだだだっ!」
「じゃあ私達いきますねー」
兄さんの抗議の言葉を遮ぎるためにちょっと力を込めて腕を掴む。とりあえずさっさと出たい。手に持った荷物を簡単に確認し、一人を半ば引きずるようにしてそんなに遠くない野営地の出口へ向かう。今さらここに名残惜しいなどの感情なんてない。その時、背後から野営地の人の声が唐突に聞こえた。
「お気をつけて!お二人の旅に幸あらんことをー!」
止めそうになった足をなんとか動かし続け、顔だけを振り返らせる。旅び立つ人への決まり文句を口にした野営地の人達は、やはり笑顔のままだ。その更に後ろ側で明らかにどんよりしている剣士たちがいるため、余計にその笑顔が輝いて見える。それでも、この言葉は旅人の私達としてはとても嬉しい言葉だった。見送り見送られ、旅立つ者への安全を願って。引きずられている真っ最中の兄さんは大きく手を降り応えた。
「ありがとうございましたー!皆さんも気をつけてー!」
兄さんの声に、野営地の人も大きく手を降り返している。私も兄さんにならって、だが小さく手を降り返して野営地を後にする。野営地からのびる街道に入ってすぐ、掴んでいた兄さんの腕を離す。よろめきはしなかったものの、兄さんは赤くなった腕をさすりながらいてーとか、ありえねぇとか呟いている。
……やりすぎた、かな。思い返せば先程までのやり取りで、兄さんの悪い部分は無かったわけだし、ただ巻き込んでしまっただけだ。謝ることを心の中で決めて、すでに歩き始めている兄さんに追い付こうとした。偶然、兄さんの口からぽつり。
「まじおっかねぇ暴力女…」
前言撤回。右手に持っていた袋に入ったままの槍を手の中でくるっと回し、柄の部分を兄さんの後頭部目掛けて勢いよく降り下ろす。