第一幕『私たちの故郷』
昼過ぎで明るい太陽の光が世界を照らす。街道の回りの草原も、街道の脇にぽつぽつと咲く色とりどりの小さな花も、全てその恩恵を受けたかのように鮮やかで美しい。それに加えて、後頭部を黙ってひたすらさする兄さんの姿は後ろから見ても小気味良い。光景的には目を楽しませる物ばかりだが、それを見ても私の疲労感は取れそうにない。――今ついさっきまで戦っていたのだ、当たり前か。
それにしても、疑問点が一つある。魔物が少ないはずの国内で悪魔が出たのは久しぶりだ。本来先程の悪魔は隣国・アルストメリア王国を根城にしており、こちらには滅多に来ない。ハイマート国内ではそれほど存在自体が認識されていない、と言ってもいい。見たことはあるのだが、この生きてきた時間の中で数えるほどしか記憶がない。
悪魔の弱点ともいうべき魔法を使えるのは当然魔法使いだが、この国では魔法使いよりも剣士の方が確実に多い。そして、どちらかと言うと対魔物より対人に特化した戦い方を習う者が多い。そんな状況下において、悪魔の出現はハイマート国として由々しき事態だと思う。
――こういうときは、兄さんにも聞いてみるべきか。一人で考えることを止めて、少し前を歩いていた兄さんへ小走りで近づく。隣に並んだことを気にとめない兄さんと歩調を合わせながら、考えていたことを切り出す。
「兄さん、悪魔なんて普通こんなところにでないよね?」
「何の話?」
「さっきのやつの話。悪魔の生息地帯はアルストメリア王国だよ。わざわざこんなところまで出てくるわけないよね」
「そだっけ?」
話についてこれないのがとてももどかしく感じる。私の言い方が悪いのか、やはり私より三歳も年上であるはずのこの男がだめなのか。いや、そんなことよりこの人魔物の生息地帯を把握してなかったのか。ちゃんと学校で習ったじゃないか、もう忘れたのか。沸々と沸き出る文句を言おうとしてすぐに止めた。私の話し方がいけないのかもしれない。何とか言葉だけで分かってもらいたくて、もう一度要点をまとめた。
「悪魔の生息地帯からここまでかなり距離があるのに、わざわざ森を抜けてまで来るのはおかしいよ。こっちまで来るには何か、あるんじゃない?」
アルストメリア王国は獣人が暮らす国の一つ、ハイマート王国とは鉄の森を挟んで隣国として存在している。国土には森が多いらしく、魔物も獣人も暮らしやすいのが特徴だとか。あちらでは、魔物と獣人の仲が良いとか、食料が意外と豊富とかとも噂を聞く。そのため、鉄の森に元から住んでいる奴はともかく、アルストメリア王国から魔物がこちらに出てくることはない……はずだった。出てくる必要があったのだろうか、考えられるのは食料難か、それとも誰かの命令でいや、それはないか。とにかく、魔物に何かあったと考えるのが妥当だろう。
「じゃあ、一回協会行って聞いてみるか?」
ようやく理解してくれた兄さんの言葉に頷き……かけて止まる。兄さんに顔を覗きこまれ、心の中を悟られそうで思わず視線をそらしてしまった。間違ってはいないのだが、何とも言えない感情が溢れだす。
――協会とは、私達のような旅人やギルドに魔物退治などを紹介してくれる、国の支援団体みたいなものだ。魔物対策や情報提供にも力を入れており、私たち協会員はそれを利用することで旅をしたり依頼を請け負う。それは全然問題ない。問題なのはその所在地が王都・レクエルドにあること。もちろん、ここから遠いから嫌だというわけではない。少し時間はかかるが今から歩いても夜までには必ず着くし、途中で馬車に乗ることができれば夕方前につくことになる。国内中を旅する私たちとしては、まだ短い距離。――行きたくない最大の理由は、レクエルドに知り合いが多く、会いたい人よりも会いたくない人が多いからだ。
特に、雷魔法ばっかり研究してる研究者の鑑みたいな人とか……
「あ、ノウゼンに会いたくないとか?」
「うわぁっその名前言わないでよ!!知ってるでしょ?!私があの人嫌いなこと!」
兄さんは私に喧嘩を売りたいらしい。空気を読まない兄さんが名指ししたノウゼンさんとは、兄さんの同級生であり、かつ私の先輩にあたり、今は王都で雷魔法を専門に研究している変人だ。私が学生の頃には学校の中でよく出会ったが、白衣を着ていつも難しそうな本を読んでいた気がする。そして何より、とことん性格が悪い男だ。めざといし無視されるしよくわからない人、といえばいいだろうか。とにかく、ノウゼンさんは王都で会いたくない人の筆頭みたいなものだ。
しかし、思う。王都に行けば何らかの情報が手に入るのはまず間違いない。依頼のこともあるし、先程の野営地で起こったできごとも出来れば報告したい。優先順位を考えれば、そんな駄々をこねている場合ではない。そう、ノウゼンさんに会わなければとりあえずそれでいい。ここは、我慢するところではないだろうか。したくないが。
「……そうだね。行ってみよう」
何とか自分の気持ちを押さえ込む。ここで文句を言ったところで、悪魔の問題は解決しない。今や、街道をゆっくり歩いていたら急に現れてもおかしくないような状況…
「――って言ってるそばから!!」
いち早く気づいた兄さんが、背中の鞘から慣れたように剣を抜いた。反射的に少し後ろへと下がり、槍を両手に持って構える。それと同時、視界の隅に灰色の巨体。兄さんが前衛となってくれているのを確認し、魔法の詠唱を始める。先程と同じように槍へ光が集まってきた。
「【風の刃】!」
だが相手はすでに魔法を使うのを察知していたのだろう、先程倒したものと同じ悪魔は上手く避けきってしまった。黄緑の光は次第に色を失い、空へと消えていく。魔法は継続して使わないと、時間がある程度経てば消えてしまうからだ。正直、消えるまでの間一度も当たらないなんて考えてもいなかったがために、槍を下ろしかけた。焦る気持ちを抑えて前を見据える。槍と剣で攻撃しつつ詠唱するか、と足を踏み出しかけたその時だった。
「ティリス、止まれ!!」
兄さんが私の服の襟を掴んだせいで前のめりになり、体勢が崩れた。振り返って直後、無意識に相手へと睨み付けた。慌てて槍を地面へついて体を戻す。本来なら戦っている最中にあってはならない、してはいけないこと。いくら兄妹だとしても、それは許される訳じゃない。しかも今はいつ攻撃されるか分からない状態、怒鳴りたい衝動は抑えきれなかった。
「何するのこの馬鹿!馬鹿兄!」
「落ち着け!そいつ魔法を食ったんだよ!!」
「はぁっ?!」
「魔法が消えたんじゃない!吸収されてたんだ!!」
かつん、と構えかけていた槍を再度地面へと下ろしてしまう。今行われた押し問答の内容がまだ飲み込めていなかった。目の前にいる兄の言葉を一生懸命に理解しようとする、いやまだわからない。ちょっと待て、今、兄さんは何と言ったのか。頭の中で必死に反芻させて、意味を考えた。
――そいつ魔法を食った。そいつとは私たちの前にいる悪魔で、魔法とはさっき私が使った風魔法のことで、食べたとはつまり――
回らない頭を何とか動かして導く結果に、頭を悩ませたくなった。小さくぼやいた声は、何もない草原で風と同化していく。そんなことがあり得るというのか。
「……魔法、効かないってこと……?」
兄さんが空気を読まずに頷くと、ますます心の中に潜んでいた不安が表に出てくる。私は京、誕生日を祝ってもらう日ではないのだろうか。何が誕生日だ、とんでもないことだらけではないか。祝い事だけで一日を無事に終わらせてはくれないのか。
顔を上げて道の向こうにいる悪魔を見つめる。肝心の魔法が効かないとなると、どうにかして弱点の首を攻め続けるしかない。しかし二人では難しい。悪魔は反応速度が速く、中々攻撃しても当たってはくれない。このままでは魔物が倒せないどころか、こちらが魔物に倒されるかもしれない。兄さんは剣を構え、しかし何もできないためにぼやくだけ。
「厄介な敵だ……。剣の耐性も高そうだし」
手も足も出ない、とはまさにこの事だ。魔法が使えないという状況なんて久しぶりで、今ここで困るとは。かといってこの悪魔を道端に放っておくことは出来ない。いつ人がくるか分からない街道にほったらかしにするなど、絶対に出来ない。となれば今やらなければならないことは一つしかない。はあ、と大きなため息をついた。
「倒す、か……」
「だよな。魔法なしでどこまで……?」
話の途中、急に兄さんが言葉を途切れさせた。ふと兄さんの方を振り返れば、目をしばたいて前をずっと見ている。悪魔に何か、と考えたがそうでは無さそうだ。何か見つけたのだろうか、視線の先を辿ると悪魔のさらに後方、王都に続く西の街道に
「……」
女の子がいた。身長も年齢も、私とそう代わりないように見える。私と同じショートワンピースを着ているが、シンプルな私のものとは違いフリルがふんだんに使われた可愛いもの。顔はよく見えないが、回りの草原の緑に映える黒い髪が綺麗だ。ふとよぎる光景、白と黒の世界に残される子ども。ほんの一瞬だけその面影を重ねたが、風になびいて光った彼女の髪色は赤紫。あの子どもは緑色だったはず。子どもに似ていないというだけで自分でも胸を撫で下ろしたことが分かる。まだ、夢のことを引きずっているみたいで、自分が今ちゃんとした世界にいることに喜びを感じた。
もちろん、私がそんなことを考えているとは知らない兄さんは、至極もっともなことを叫ぶ。
「そこの子、逃げてくれ!」
兄さんの声に意識が引き戻される。今が戦闘中だということをすっかり忘れていて、前方に相変わらず浮いている悪魔の存在を完全に無視していた。さっき兄さんに向かって怒鳴ったが、私も大概なことをしていたらしい。反省しなければ、と考えたところに兄さんの声がさらに重ねられる。
「おい、逃げろって!!」
兄さんの声に怒気が混ざっていることにようやく気付き、前方をもう一度よく見る。さっきから隣が呼びかけを聞かず、女の子は悪魔へとゆっくり近付いていく。地面を歩く音と弱く吹き抜ける風の音がやけに響いて、不安が胸いっぱいになる。何故、と槍を少し強く握りしめる。急に何をすればいいのか分からなくなりそうだ。にこやかに笑う女の子はやっと兄さんの言葉に顔をあげて、大丈夫ですよと小さく笑い声を漏らした。
少しの高めの透き通った声に二人して戸惑う。何が大丈夫なのだか、さっぱり分からない。ただ彼女は自ら危険に巻き込まれるようにしか見えず、私たちは何ができるのか迷うことしかできない。何か秘策があるのだろうか、兄さんがもう一度声をかけようとしたその瞬間だった。
「――」
広い街道の中で、それは綺麗な鈴のような歌声が響き渡った。
――聞いたことがない、歌われている言葉も理解できない、だけどどこか懐かしい感じの歌。無意識に聞き入りそうになるその歌が、目の前にいる彼女が歌っているものだと気付くまでには時間を少し要した。目を閉じ、悪魔がすぐそばにいるというのに、やけに楽しそうに歌っている。ふと、兄さんが服の袖を掴んで何回か引っ張る。女の子から兄さんへと視線を移し、その顔を見上げた。
「ティリス、あれ」
兄の指されるままに視線を動かすと、悪魔が苦しがっていた。何とか女の子の方へ向き攻撃しようとしているが、耳を手で塞いでいるため結局何もできていない。ただ睨みつけているだけの悪魔は、歌が効いているということを表していた。この歌は魔法と同じなのだろうか、それともまた別のものなのだろうか。ゆっくりと考える暇もなく、歌がいきなり止まり女の子は大声で叫ぶ。
「今です、早く!」
女の子の方へ完全に向いた悪魔は、弱点の首を私達にさらけ出した状態となっている。兄さんに目で合図し、攻撃しやすいようにするためだ素早く道を譲る。兄さんは少し下がると、一気に加速しながら途中で地面を蹴って跳躍した。歌が終わっていたことと後ろからの気配に気づいたようだが、悪魔より兄さんの方が少し早かったようだ。
歌、そして重力の力を借りて、兄さんは一撃で魔物を地に伏せた。
――
野営地に一旦戻ってニ体目の魔物の処理を頼むと、野営地の人達は快く引き受けてくれた。昼間の悪魔の処理も終わってなかったらしく、どうせするなら一緒にだそうだ。こういうとき本当にありがたい、と感謝しながらもう一度街道に戻る。先程悪魔と遭遇した所で、女の子は待っていてくれたのだろうか、手を後ろに回しさっきとはまた別の歌を歌っていた。兄さんと二人で近付くと、彼女は歌を止めてぱたぱたと走り寄って来る。マントを羽織直しながら、私も女の子の方へ近づく。
「助かったよ、ありがとう!」
手を差し出すと同じように女の子も手を出して握手を交わす。女の子の髪をまとめるオフホワイトのシュシュの飾りが、笑顔と共に小さく揺れる。あの夢の子どもとは正反対の可愛らしい、優しさの溢れた笑顔。似ても似つかない雰囲気に癒されていると、ぎゅっ、と相手の手に力が入る。
「いえ、最終的に倒したのはあなた方です。私はそのお手伝いをしただけですよ」
「む……そんなご謙遜なさらず。あなたがいなければ倒せませんでした」
「あははっ、そんなことないですよー」
「ふふっ、そちらこそー」
下手な意地の張り合い、に見えるのであろうか。私も人のことを言えないが、この子も可愛い見た目に寄らず結構強情な女の子だったらしい。一方に引き下がらない相手にこれではきりがないと思った。仕方ない、ここは兄さんを使うか。横で私達の動向を静かに見守っていた兄さんに、視線で合図する。どうとったかは分からないが兄さんは唸って、一言ひねり出した。
「んー……今回はお嬢ちゃんのお陰だよ」
どうやら上手く意図が伝わったようだ。二対一となり、女の子の方が数的に劣勢となる。いつまでも続きそうなやり取りをしていたため、そうでもまだ粘るかと考えたが、女の子は兄さんの方へと一度視線をそらしてから、すぐに白旗を上げた。手の力を緩め、握手を外したのだ。
「わかりました。誉められておきます……」
よし、私の勝ち。右手で小さくガッツポーズをとる。何だか子供じみた低レベルな争いだなと我ながら思った。何を一体争っていたのだろうか、私たちは。ついさっきまでのことを多少なりとも後悔したが、女の子の方はというと逆に開き直ったらしい。少し頬を桃色に染めて照れる女の子は、小さく忍び笑いを漏らす。
「ふふっ、私はユティーナと言います。お二方のお名前は何でしょうか?」
「ガディーヴィだ」
「妹のティリスです」
「ガディーヴィさん、ティリスさんですね。……あの、お二人は旅人さんですよね?よろしければ街道で歩きながらでもお話しませんか」
ユティーナは街道の西側、王都へ続く道を指す。さっきの歌のことについても聞きたいし、どうせ王都へ行くことは変わらない。聞きたいことも沢山あって、多分ユティーナにも聞きたいことがあるのだろう。急ぎの用事もなく、これといって断る理由はない。
「いいよな?」
「もちろん」
兄と一緒にしっかり頷いて、ユティーナの提案に二人で賛成を示したのだった。