終幕『紅々と染まる鉄の森』
運ばれてきた食事を平らげて、その後はベッドにまっすぐ向かった。食べてすぐに寝たら牛になる、という青年の冷ややかな言葉が聞こえてはいたのだが、色々と疲れがたまっていたせいかあまり気にせずに寝てしまったのだ。女性に案内された二階奥の大部屋、ベッドが八つ並んだその一番端を陣取って、その日はすぐさま寝転がった。
目を覚まして最初に見たのは天井窓だ。その先では空に薄明かりが灯っていく、夜明けが終わり、少しずつ日が差し込んでくるような、明かりを灯したばかりの空。手癖でベッド周りを確認し、数少ない自分の荷物を手から伝わる触感だけで確認する。しかし、その中でも一番肝心な武器の感触がないことに気づき、慌てて身を起こした。武器がないとは、とぐるぐる思考を回して、普段では考えられない自分を責める。
ベッドから見える範囲を見渡しながら昨晩の記憶を辿り、直後納得して頭を垂れる。昨晩先生たちに武器を預け、修理に出してもらったのだ、恐らく。記憶の片隅で明日引き取ろうと言ったのだから、この場にないということは、本当に出してもらったのだろう。心を落ち着かせて深呼吸すれば肌寒さを唐突に感じる、寝起きには辛い朝だ。サイドテーブルに置いてある自分の上着を羽織り、皮のブーツに足を突っ込む。なんとか潜り込む前のベッドの姿へと戻して、その場を離れた。曖昧な昨晩の記憶を必死に手繰り寄せながら、寝息が立つベッドの脇をゆっくりすり抜けて扉をくぐり、階段を降りる。
階段を一段ずつ降りる度、窓から差す僅かな光が恋しくなる。早い北の町の朝を一人で味わってみたい、という感情が沸々と湧き上がって、足の速度を少しだけ早めた。階段の壁を挟んで何かを話す声が聞こえる、もう既に誰かが起きているのだろうか。それが誰なのかは分からないまま、階段を下りきって、部屋の中を覗きこむと、そこには見慣れた姿が二つあった。
「おはようございま……あれ、ユティーナ? エイブロ?」
てっきりビアンカさんかフィルバートさんだと思ったのだが、その予想は見事に外れた。机の上でマントを畳んでいた黒髪の少女が、私の姿を見るとぱっと明るい笑顔を浮かべる。赤髪の少年は背中を向けてマントの留め具をはずしている最中だったが、彼女の声に振り返った。寝息が聞こえていたので全員が寝ているのだと思ったが、どうやら違ったらしい。
「あ、おはようございます!」
「おはよう。早いな」
「二人こそ早いね……どうしたの?」
そう訊ねると、少年は留め具を外しきってこちらへ向き直る。よく見るといつもの短いマントではなく、旅人がよく使う普通の外套だ、慣れていないのか上手く畳めずにおろおろとしていた。ユティーナがそれを見かねてか、彼の手から外套をむしりとり、縦に横にとてきぱき畳んでいく。
「酒場の知り合いに国内の地図を預けにいったんです。話すと長くなりそうですから、皆が出るより先に行っておこうと思いまして」
「地図って……あぁ、あのエイブロの地図だよね。預けに行くには早すぎない?」
エイブロが外套をとられて面食らっている間にユティーナは説明してくれる。地図とは、リベルテの町へ向かう馬車の中で見せてもらった、あの綿密すぎる地図だろう。元々エイブロの物らしいが、隣国へ行くということでこの街の酒場へ預けると言っていた気がする。しかし、まだまだ酒場が開く時間ではない。指摘を聞いて二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「営業開始まであと鐘一つらしいです。ほら、営業時間に行くわけにはいかないので……」
「あー、なるほど」
そういえば国内の地図も貴重品、人目についてはいけない。本当はずっと持って置けたらいいのだが、敵国で運悪く落としました、なんてことがあったらこちらがただでは済まないだろう。納得したことを確認し、外套を抱えて階段を上っていく二人を階下から見送る。その音に気づいたのか、やけによれたオーバーオールを着たビアンカさんが目を擦りながら奥の暗がりから出てきた。
「……ん?今誰か上がっていった?」
「あ、おはようございます、ビアンカさん。エイブロとユティーナが酒場から帰ってきたんですよ」
「おはよう。ふぁ……朝から大変ねぇ。ルーフォロさんたちといい、あの子たちといい」
「え?」
欠伸を漏らすビアンカさんから、急に騎士の名前が出てきて思わず聞き返してしまったその直後。
「なーんか呼んだ?」
「ひやぁっ!?」
突然耳元近くで低い声が聞こえて、飛び上がり悲鳴をあげる。なんだ、何があった。自分の悲鳴に自身も驚きながら、咄嗟に身を縮こまらせた。自分の目の前にいるビアンカさんが笑いながら手を振る先は、こちらの後ろ側。振り返ると、騎士と神官が腹を抱えて笑いを堪えている。なんだ先生だったのか、と胸を撫で下ろし、急に自分のしたことが恥ずかしくなって顔を俯かせた。
「び、っくりしたぁ……」
「……そんなに驚く?」
どうやら反応にショックを受けているらしい。彼は困り顔、というよりは少し怒っているようで、目が普段より若干細い気がした。そんな顔をさせてしまったという申し訳なさと、急に驚かせる先生が悪いのだと、つい二つ感情が溢れ出す。
「先生がいきなり現れるからですよ……」
「お前な、そんなのいつものことだろうが」
「ごめんなさ……」
騎士にため息をつかれ、反射的に謝りながら顔を上げた先。昨日まで着ていた服とは、また普段学校で見掛けるときの服と違うそれへ目が留まった。真ん中に大きな白の縦ラインが入る黒の上着、縁取りは光り輝く金。服の合間から見えるズボンは上着へ合わせたように黒く、膝近くまである革のブーツは華美の少ないものだ。全体的にゆったりとしたその生地は上質なもので、見るだけで高級品だとわかる。私が物珍しそうに見たからか、騎士は軽く胸を張って誇らしげに言った。
「王国騎士団の服。似合う?」
「べ、別人のようです」
「……それさ、普段のルーフォロがヘタレみたいな言い方に聞こえるぞ」
騎士への返事に突っ込んでくれた神官の服装は、騎士の服とは色違い。少し暗めの緑の生地に同じく白のラインと金の縁取り、ズボンとブーツは騎士と同じものだ。騎士と決定的に違うのは、神官の左耳につけられている、白く濁った黄色の耳飾りくらいだろうか。固まっている私の後ろから顔を出した女性もほぅと感嘆を漏らした。
「似合うねぇ、ルーフォロさんもコルペッセさんも。……と、兄貴おはよう」
「おはよう」
店の奥から革靴の高い音が響き、騎士よりもさらに低い声に体ごと後ろを振り返る。人影は暗がりから姿を現し、黒を翻した。フィルバートさんも騎士と同じ服装をしている。黒という色合いに加えて元々の身長があるために、マント等をつけていないとそれはとても屈強な戦士のようだ。騎士のイメージよりも傭兵のイメージの方が合っている、と言っても同意を得られるかもしれない。ふと、考え事の途中で男性とばっちり視線が合い、慌てて頭を下げて挨拶をする。
「お、おはようございます」
「おはよう、ティリスさん」
小さく頭を下げた男性はかすかに笑い、店の扉近くへと向かう。その姿を何気なしに追うと、自然に店の扉の向こうを目にする。明るく照らされた通り、かすかに人の声が漏れ出してその多さを物語る。あんな通りはきっと、歩くだけでも楽しい気分になれるに違いない。だが、そんな北の朝を味わうのはまた今度、一人でゆっくりできるときにしよう。
階段にゆっくり近寄ると、声に気づいたのか階上から話し声が聞こえ、複数の足音が階段へ近づいてくる。何となく降りてくる人に想像がついたため、階段を離れ部屋の中に戻ると、案の定すぐに階段を降りてくる音が聞こえた。
「おはよーございまー……すげぇ!先生!かっけぇ!」
「朝からうるさ……あ、あの、先生?」
兄と青年はバタバタと駆け寄ってきて、楽しそうに先生たちを眺める。彼らの服装に目を爛々と輝かせる兄とは裏腹に、青年はまるで不思議なものを見るように固まっていた。あんまりにもその時間が長いので、彼の顔を覗き込むと慌てて先生たちから視線を逸らす――見たことがない、というよりは見惚れていたようだ。一瞬目を丸くした神官は急に笑いだし、足早に兄とノウゼンへ近寄ってその肩に手を置く。
「おはよう、ありがとうガディーヴィ。で、ノウゼン」
「おにあいですね……」
「ぜってぇ別のこと考えていたろ!?」
片言のように答えたノウゼンへ、騎士は突っ込みをいれて青年の肩を掴んだ。青年の目は壁に掛けられた布へ向いており、先生たちの視線と合わそうという気配はなかったが、真意ともかくとりあえず先生が勘違いしているのは分かる。小さく忍び笑いをして、これがこの人たちの日常なんだろうなぁ、と一人傍観した。
旅用の少ない荷物をまとめて、数分。階下にギルド全員が揃うにはさほどの時間を要しなかった。同じく荷物をまとめ終えたらしい神官が一つ大きな背伸びをして、自分の荷物を手に取る。と、同時に騎士の荷物をつかみ、前を向いたまま後ろへ軽々と放り投げた。荷物は弧を描いて、一歩も動かない騎士が差し出した手のひらへすっぽりと収まる。ギルド全員が目を丸くする最中、何事もなかったように騎士が一人呟いた。
「さぁて、市場も開くし、そろそろ出ますか」
騎士の言葉に慌てて皆で頷くと、まとめてあった荷物をそれぞれ手に取っていく。今の彼らの行動がちょっとだけ羨ましくなったのは、果たして私だけだろうか。
昨晩、晩御飯を食べているときに今日の予定について話し合った。今から皆で買い物をし、その足で野営地に向かい、鉄の森へ入ってしまう。そのため、もうここに戻ってくることはないため、荷物も全部持っていかなくてはならない。神官と騎士は元々荷物が少ないが、こちらは肩にかけるカバンとベルトに付けるベルトバッグ、計二つをそれぞれが持っていた。肩や腰にバッグを寄せて私たちが旅支度し始めると、フィルバートさんも作業台からベルトバッグを手に取り、慣れたように腰へ付ける。
「ビアンカ、親父と店を頼む」
「はいはい」
名前を呼ばれた女性は、男性へ畳んだマントを手渡し、光が僅かばかり差し込む木製の店の扉を開けてくれた。扉から暗い店内へ一気に入り込む光は眩しい、反射的に上げた手でその光を目の前で遮る。少しずつ手を下ろしながら、昨日は暗くてよく見えなかった通りを店の中から眺めた。楽しそうに話す人々、忙しそうに走る人々、職人通りというだけあってビアンカさんのようなつなぎを着ている人が多く目立つ。同時に春先でまだ少し寒い風が店の中へと入り込み、北の朝を知らせているよう。そんな光景へ向かって、店から先生たちに続いてエイブロ、ノウゼンがゆっくりと出て行った。ユティーナや兄と視線を合わせ、店の外へと向かう。扉にもたれかかり、にこやかに笑うビアンカさんへと笑いかけて、頭を一斉に下げた。
「ビアンカさん、ありがとうございました!」
「うんうん、また寄ってね!……あ、そうだ。待って、渡すものがあるの」
皆で首を傾げると、ビアンカさんは奥へ走り去り、すぐに木箱を抱えて帰ってきた。頑丈そうなそれからは薄茶色の布が見えていて、兄とユティーナを先頭に皆で覗きこむ。何だろう、明らかに手製の、作り込まれたそれから少しだけ紅茶の香りがした。
「はい、これ餞別。特別な糸で縫ってあるから、耐久性は抜群だと思うわ」
「あ、ありがとうございます。大切にします」
ビアンカさんが私たち五人へ一つ一つ、その布を丁寧に手渡していく。手渡しされたものを広げてみると、それは膝丈まである大きなマントだ。ゆったりとした肩口には目立たない留め具が施されており、二ヶ所で留めることができるようになっている。布の表面は滑らかで、茶色の繊維の所々で絹のような白い繊維が見えた。試しに羽織ってみるとそれはとても軽やかで、見た目より重さを感じさせない。本当に特別な糸なのだろう、普通のマントに比べると羽のようだ。
「よかった、寸法も大丈夫そう。気をつけてね」
「はい。次に寄るときは、何か買わせてくださいね」
「あははっ、ありがとう。帰ってくるのを待ってるわ。ルーフォロさんたちもね」
「おう」
「ビアンカさん、また寄ります」
笑顔で返事すると、ビアンカさんもニッと笑った。ユティーナとは違う、元気ではつらつとした笑顔――見送るにしては自信のある笑顔。それぞれが握手をかわし、少しずつ店から通りの方へ離れて行く。最後にフィルバートさんがビアンカさんへ何かを告げて、"Sever・Couturie"セヴェル・クーチュリエから離れた。
協会支部でお金をもらい、市場で回ること数十分。馬車でレンガの街壁を潜り抜けた頃には空気は、ようやく暖かさを取り戻す。皆が買い物に慣れていたお陰で、必要なもの――治療道具や食料品の備品はほとんど買い揃えることができた。あえて人ごみを避けるような時間帯に買いに行ったこともあり、時間もそこまでかかっていない。予定通りに昼前には野営地へと辿り着ける。
その想像通り、馬車でエスペラルの街から一時間と少し。着いた野営地の景色は三日前とほとんど変わらず、人が多く滞在しているようだった。物々交換、鍛錬か剣同士で軽く切り結んでいる人、つい先日に魔物に襲われたというのに呑気な雰囲気が漂う。さすがに平和ボケすぎないだろうか、と心配していたが、以前と唯一変わっている部分を発見して思わず納得してしまった。
こちらに気づいたのか、森のすぐ手前に今まではいなかった兵士が私たちの姿に注目し始めていた。黒い制服に身を包んだ彼らの腰から吊るされるのは、長剣。近づくか迷っていると、私たちの間をすり抜けてフィルバートさんが一人進み始め、騎士と神官もその後に続いた。慌てて付いていくと、兵士の一人が姿勢を正し、周りの兵士たちもそれに従う。
「ルーフォロ第二師団長、フィルバート第三師団長、コルペッセ第二神官に……敬礼!」
その場に居合わせた兵士たちが一斉に右手を上げて敬礼し、先生たちもそれに応えて敬礼する。風を切る音が聞こえそうなほど揃った敬礼、その光景に我知らず息を詰めて足を止めてしまうと、代わりと言ったように先生たちはさらに近づいていく。表情こそ先程と変わらないが、三人が纏う雰囲気は馬車の中で冗談を言い合っていたようなそれではない。騎士が敬礼を崩すと、周りの兵士たちは一斉に手を降ろし、兵士の何人かが三人の元へ走り寄る。
「お仕事ご苦労。頑張っているか?」
「はい!」
「そうか。何か変わったことはなかったか?」
「今のところ、異常はありません!」
彼らの会話を聞いてノウゼンがぼそり、騎士団の兵士のようだな、と呟いて笑う。どうやら、私たちの報告を受けて協会長が兵の配備を提言してくれたようだ。先日魔物が出たから当たり前かもしれないが、他の人に比べると装備もきちりとしている。一人納得していると神官が突然手招きしたので、慌てて五人で先生たちの所へ走り寄った。
「俺たちの見送りはここまでだ。……フィルさん。こいつらを頼む」
「分かりました」
「先生」
男性が頷いて答えると、先生たちは近付いたギルドと入れ替わるように、背中を森の入り口側へと押しつつ後ろへ下がった。思わず振り返れば騎士と神官は頷きだけを返す、そろそろ、出発の時間のようだ。騎士がほんの小さく、私たちに聞こえるだけの声で言った。
「絶対生きて帰ってこい」
「……いってきます」
その声音はやはり、普段の姿からは想像できないものだ。戸惑いながら答え、前に数歩進めた次の瞬間。風を切るような音と共にその場にいた騎士たちが、一斉に敬礼を私たちの方へ向けた。先頭では先生たちも敬礼をする、王国の騎士と神官としてその場に立つ先生たちの姿は、私が知っているものとは全くの別人のよう。野営地の所々にいる騎士たちの敬礼と、何事かと騒ぐ野営地の人の注目の中、せめて恐縮して足を止めないよう、森の中へと進んだ。