終幕『紅々と染まる鉄の森』
鉄の森は日が差しているにも関わらず暗い。入り口付近だけしか見ていない森の奥は、外から見えた緑豊かな森、なんて表現が似合わないほど景色が違う。男性は足元の枝を一本拾い、懐かし気な、悲し気な瞳でそれを見詰めた。全体的に腐ってしまっているのか、枝の根本からはボロボロと木屑が落ちていく。落ちる先の地面に敷き詰められた葉は色が濁り、森の奥に入るにつれて鮮やかな色と香りは消えて、代わりに届くのはかすかな血の臭い――。ふと、男性はポツリと言葉を漏らした。
「元は美しい森だった。所々にさす木漏れ日と、今よりずっと鮮やかな葉が綺麗だった。国を跨ぐ商人たちにとっては心安らぐ場所だった。俺たちのような、戦いに身を投じる者たちにとっては、多くの意味で癒してくれた場所だった。だが、ここはもうどんなに人が手をかけても元には戻らない。アルストメリアとフォブルドンがそういう風に変えてしまった」
崩れて欠片ほどしか残っていない枝を、地面に置く男性の手つきは驚くほど優しい。けれども、彼へかける言葉が見つからない、分からない。あまりにその瞳に宿る色が怒りに見えたから。
「君たちは知らないだろうから教えておく。俺も、ルーフォロさんも、コルペッセさんも、あちらの国を許すことはできない。失ったものを埋めるまでは決して。元通りになるまでは」
そう言いきった彼は歩を進め始める。その真剣な眼差しに足が縫い止められてしまったが、一瞬の間を置いてから後についていかなきゃ、と気が緩みかけた次の瞬間。
木の葉が擦れて音が僅か鈍る、誰もいないはずの背後から気配を感じ、振り返って槍を取り出しつつ臨戦態勢を整える。こんなところに自分達以外の気配がすれば、それはほぼ確実に敵だ。
「何かいる!」
呼びかけに全員が臨戦態勢を取る中、木影から出てきたのは地面から僅かに浮いた灰色の巨体――間違いない、ついこの間も遭遇した悪魔だ。さて、魔法が今回は上手く通じてくれることを願うばかりだ。ほとんど反射的に呪文を唱え、魔法の言葉を放つ。
「緑を軽やかに纏う妖精よ、汝は地上を駆ける者、我の前に立ちはだかりし者を切り裂く刃となれ。【風の刃】!」
数個に分かれ、緑の光は刃を模して敵に近づく。しかし悪魔は光を難なく避け、外れた何個かは木をかすって傷を作り、地面に跳ね返って消えていく。位置をずらして何とか悪魔に当たった魔法も、まるで初めから当たっていないように空中へと消えていった。
「消えた……?こいつがお前の言っていた、魔法が効かない悪魔か!」
魔法が消えていく様子を目で確認しながら、青年の質問に慌て気味に首を縦へ振った。前回はユティーナに協力してもらい、倒した敵だ。さてどうしたものか、また少女へ頼むかと考えるも束の間。
金色の風が素早く走り抜ける、誰かのマントが大きく翻り、視界を一瞬遮る。一瞬兄かと思い、追撃しようと駆け寄る体勢へと身体を倒しかける。直後、マントが地面近くまで下がりきり、見えたのは黒の服の生地が翻るところ。離れていても耳に届くほどの打撃音と共に、悪魔はその場で崩れ落ちていった。
「……君たちは体力を温存しろ。そのために俺は護衛としてついてきている」
フィルバートさんはそう言って、いつのまにか抜いていた銀剣を鞘へと戻した。悪魔を簡単に一撃で倒すほどの強さを目の当たりにし、ただ、呆然と立っているしかない。反応速度が早い攻撃を潜り抜け、とか、気をそらして、とか。そんなことを考える暇すら、フィルバートさんには不必要だった。そんなことをしなくても、彼は強かった。
再び歩き始めた彼の後を追って、五人がそれぞれのペースを保ちつつ、ゆっくり確実に歩を進めていく。枯れた葉を踏みしめながら、まだ見えぬ森の奥を見つめながら、少年に改めて予定の確認をとった。
「とりあえず目的地はアルストメリア王国ね。フォブルドン共和国は後の方が良いんだよね、エイブロ?」
「そうだな。行って早々フォブルドンで捕まりたくないし」
「鉄の森を抜けたところはどっちの領土なんだ?抜けた瞬間に捕まるのはごめんだぞ」
「抜けてすぐのところは荒れ地だと思います。どっちの領土でもないはずですよ」
フォブルドン共和国では、神官たちの情報によると格段に人間を見る目が厳しいのだという。そこで、一旦アルストメリア王国へと行き、その上で情報が足りない場合にのみ行こうということとなった。あくまでも自分たちは調査と異変の究明が目的だ、できる限り安全な道を行くよう言われている。
しかし、森を抜けてすぐが荒れ地とは不思議な感覚である。森が育つには土壌や水、空気、その他色々なものが必要で、反対にそれだけ揃っていれは簡単に森は育つ。そのため、森を抜けたところは大概草原が多く、野営地のように整備されている場所もあるが基本的には緑豊かな状態であることが多い。わざとでもしない限り、ほったらかしの代名詞・荒れ地になんてならないだろう。
「えーと……確か戦争の爪痕、っていうか、焼き払ったらしいからだとか。疫病とかじゃない」
「そうなんだ。よかった、ありがとうエイブロ。さすが情報屋だね」
頭を過った嫌な予想を、良い形裏切られてつい笑った。疫病だった場合、自分たち旅人にとっては未知の病となることが多い。そうなると調査どころではなくなったしまうだろうし、下手をすれば死体が積み上がることになってしまうだろう。
けれども、そんな軽やかになったこちらの気分とは真逆、少し沈んだ声で少年はぼやくように呟いた。
「……これでも少ないんだ」
「え?」
「ハイマートからは情報が漏れ出しているのに、あっち側の情報は格段に少ない。規制をかけてるんだろうな」
話を半ば打ち切るようにし、少年は前に向き直る。沈黙が再び自分たちを包み込むようで、間近にいた少女がたった二、三歩の距離を駆け寄り、彼の隣に寄り添う。自分の中で何かひっかかるものを感じながら、それが何なのか分からず彼等の後を追った。その背中の数は四つ、思わず小さく漏らしたのは隣を歩く兄へ向けた言葉だ。
「……何か、すごいことになっちゃったね」
「まさか国外で旅をすることになるとは、予想もしていなかったぜ」
「私は、兄さんが学校に行ったときから予想外ればっかだよ」
「あははっ、そっか」
兄の笑顔につられて笑うと、兄の大きな手が頭を撫でてくる。ほんの少しの恥ずかしさはありながらも、どこか懐かしくて嬉しくて、払う気にはなれない。――予想なんてすぐ覆るものだと、この何年かで理解したし、今だってそう。お互いが話さなくなって静かになり、何となく物思いに耽っていると兄が呟く。
「……頑張ろうぜ、怒られないように」
「もちろん」
誰に、とは聞かず兄と私は握った手を軽くぶつけた。誰かは聞かなくても見当がついていた――元々、私たちは学校なんてものに行けるような子供ではなかったのに、わざわざ通わせてくれた、育ててくれた人だ。そういえば、学校に行き始めてから一度も会っていない……どうしているのだろう、私たちの育て親は。
ハイマート国領内で交代制の仮眠をしつつ、一層不気味となった夜の森を過ごし終えた。まだ春になったばかりのハイマート王国は夜になると肌寒く感じるが、特に暖かな日差しが入りにくいこの森では、息がほんの少し白くなるほど気温が下がっているようだ。もちろん、光の差し込まない森の中では、朝になったという感覚もあまり感じない。
次の日、さらに奥へと進めばようやく国境へと着き、フィルバートさんとは別れた。朝まで付き合ってくれたが、フィルバートさんが護衛してくれるのは国境の手前まで。この先は私たち五人で切り抜けなければいけない。彼の姿が消えるまで見送りをしてから進んだ私たちに待っていたのは、二つの変化の急襲だった。まずは見た目だ、回りの木々の色が暗緑から鮮やかな赤へ染めたように変わる。落ちている葉の色も枯れた茶の色から、鮮やかな赤と黄を混ぜたような色。そして――
「……な、なるほど……鉄の森って、そういう……ううっ」
「大丈夫?なんか辛そうだけど」
「な、なんとか……!」
「ユティーナよりも、エイブロの方がキツそうだぞ」
少女の呻きに思わず訊ねると、杖を握りしめて彼女は顔をあげる。その表情は険しく、この場所に彼女が慣れるにはしばらく時間がかかりそうだった。一方、いつのまにか青年が先頭に出ていて、声をかけられた少年は私のすぐ前まで後退していた。
彼等を悩ませているのは、匂いだ。一体何処から漂ってくるか分からない、鉄が錆びたような、とても濃度の高い血の匂い。私や兄は近接戦闘が多いので慣れているし、以前魔物の処理をしてもらっていた青年も慣れているようだ。しかし、エイブロとユティーナはそうではないらしく、ユティーナはなるべく吸わないように必死に頑張っている。エイブロも必死に耐えているのか、顔をしかめながらギルドの先頭から一変、しんがりにまで下がった。もしや、少年が前衛を嫌うのは。
「……何で三人は平気なんですか」
「前衛がこんなことで弱音はけねぇだろ。……つか」
「俺は後衛です!よっぽどのことがない限り前に行きません!」
エイブロの呟きに兄が突っ込むと、逆に怒られてしまっている。ノウゼンがボソッと、俺も後衛だぞ、と呟くが火に油を注いだようで、彼の睨み付ける視線が青年に突き刺さる。さっきまでの丁寧な口調はどこへ行ったのか、エイブロは眉間にシワを寄せたままさらに怒った。
「同じ後衛でもアンタとは違うんだ! ……うえっ……まじ、キツい……」
「……さっさと抜けましょうか」
「はーい」
「おう……」
最初の勢いはよかったものの、大きく空気を吸い込んでしまったようだ。悪態をつきながらふらふらと後ろから付いてくる少年も含めて声をかけると、少年以外からの声は揃って返ってくる。遅れて一つ、かなり低い声で返ってくるのを確認しながら、苦笑を浮かべて先を急いだ。慣れは、意外に大切だ。
「二人は血の臭いにはさすがに慣れていないんだなー」
「まあ、両方とも後衛で戦う人間ですから……」
「でも、エイブロはナイフを使うんだろ。間近で……とか……」
彼女が答え、もう一つの返事を待つが待っても返ってこないので心配になって後ろを振り返る。振り上げたその顔は、なんで質問したのかと咎められている気になるほどの、とてつもないしかめ面だった。
「話すのも嫌だそうです」
代弁をする少女もやはり微妙な顔で眉を寄せ、きつい匂いに耐えているのが分かる。歌を歌ったりするときの、あの幸せそうな顔が台無しだ。
「そういえばさ……ユティーナ」
「はい?」
「古語でいつも歌っているけど、あれは誰に教えてもらったの?」
「おば様です。子守唄がわりに歌ってくれていました」
なるほど、と頷いた隣で、ノウゼンが木の幹に手を乗せ損ねて足を軽く滑らせる。兄が大丈夫かーと顔を覗き込みながら声をかけると、彼は何とか踏ん張った足を直しながら無言で頷いた。珍しくほどの動揺の仕方だ。
「古語が子守唄か……魔法使いが聞いたら嫉妬するぞ」
「嫉妬していらっしゃるんですか?」
「まぁ、な」
少女のあどけない質問に、ノウゼンは視線をそらして答える。どうやら子守唄に古語、というのは高速詠唱ができる青年でも羨ましがるほどのことらしい。私も羨ましいと言えば羨ましいが、かといって今さら覚えられるものではないような気がするので、古語に関わるのはとっくに諦め済みだ。ユティーナはふふっ、と小さく声に出して笑い、言葉を濁す彼へ話しかける。
「私はノウゼンの高速詠唱の方がよっぽど羨ましいんですけどね。それに、私が習ったのはせいぜい五曲くらいで、あとは耳に覚えているものをそのまま歌っているだけですよ?」
「例えば?」
「……――」
ノウゼンの問いかけに、ユティーナは歌って答えを返した。以前悪魔との戦いの時に聞いたものよりもさらにゆっくりで、心が安らいでいく落ち着いた曲。単純な上手さだけでは表現しきれない優しさのようなものが声に乗っているかのよう。黒赤い森に、普段の彼女の声より大人びたそれが響き渡る。
「え、あ、」
突如後ろから聞こえた声に振り返る、不思議そうにするエイブロが口を開けて回りを見渡していた。よく見れば彼の回りの景色はかすかに揺らいでいて、何かの透明な膜の中に入っているみたいに見える。
「大丈夫?エイブロ」
ユティーナが振り返って訊ねると、少年は慌てたように何回も頷く。先ほどまでの気分の悪そうな顔ではなかったので、幾分か匂いが和らいでいるのだろうか。兄が物珍しそうにエイブロへ近づいて、膜に触れて首を傾げた。
「なんじゃこりゃ」
「結界ですよ。今は匂いを遮断してくれているみたいです。だよな、ユティーナ?」
「うん。少しの間しか持たないけど、ないよりましでしょう?」
兄の呟きにエイブロが答え、ユティーナも満足したように自分の周りにも同じものらしい膜をまとわせる。ユティーナの華が咲く笑顔に、エイブロも小さく笑っていた。
「助かる、ありがとう」
「どういたしまして。……という感じです」
「なるほど。ちゃんと効能も理解しているんだな」
ユティーナはエイブロからノウゼンの方へと向き直って、最後の一言が質問に対する答えだと示す。青年は納得したように軽く頷き、手元を確認しながら言葉を続けた。感心する部分はそこか、と突っ込みたくなる発言だったが、ユティーナは何も触れずに反応を示した。
「最初のうちは乱れうちでしたけどね。理解するまではエイブロにも沢山手伝ってもらいました」
「出会って間もない頃なんか、戦闘中に俺を殺しかけたもんな」
「やっ、言わないで!」
エイブロの皮肉めいた言葉に慌てふためくユティーナを、振り返った兄が笑いながら止める。止められた少女の顔は林檎の実よりも真っ赤で、私と目が合うと恥ずかしそうに下を向いた。
「あははっ、良いじゃねえか!それがあってこその今だろ?」
「うん、充分上手だよ」
誰も嘘は言っていない、というより本当にそう思っていた。過去がどうであれ、魔物の攻撃をほぼ無効化し、人を癒し、おまけに空気に干渉することができる。すべてそれが歌を歌うことで出来るのだから、本当にすごいことだ。その点で見るのなら剣士よりも、法術士よりも、魔法使いよりも彼女は強い。
「うううっ……本当ですか?」
「確かにうまいな」
「ほら、こういうのに口うるさいノウゼンさんも認める上手さ」
少し涙が浮かぶ目に見つめられて、ノウゼンへと視線をそらし助けを求める。彼は考えるように目を閉じて、ユティーナへ話しかけた。どう受け取ったのか彼女は顔をさらに真っ赤に染める。ここまでくるとさっきの大人びた歌声は何だったのかと思うほど可愛く、見ているだけで微笑ましくなった。
「あ、あり、ありがとうございます!」
わざわざ頭を下げて、ユティーナは嬉しそうに先へと進みだした。何とか落ち着いたみたいだなと前に歩き始めると、肩へ急に重みと痛みを感じた。振り返らなくても大体予想はついている、視界に銀色の髪がなびいて見えているからだ。
「ティリス、後で面貸せ」
「あれ、ノウゼンさん怒りました?ていうか女の子の顔を殴るなんてひどーい」
「まだ殴ってもないし、殴る気もない。第一お前の方が体力的にも強いんだから敵うはずないだろ」
「……体力的に弱かったら殴るんだー」
「そんなこと一言も言っていないだろ」
「お前な」
「てへ、ごめんなさい」
「おい待て、ガディーヴィ」
「まーまーノウゼン、気持ちはわかるぜー。でもさ、本当のことを言われたからっておこんなよー」
「……ほお。ティリスより先にお前のほうを何とかするべきだな」
「へ?」
直後鈍い音が兄へと襲い掛かる。ノウゼンが手にしているのはいつも魔法のときに使っている本で、微妙に角がへこんでいた。頭を抱えて悶絶する兄を横目に見ながら煽るなんて馬鹿だなと思いつつ、自分も青年にやられる前に歩き始めた。苦笑しながら追って来るエイブロとユティーナ、口論しながらもついてくるノウゼンと兄、そのメンバーの先頭に立って。
荒れ地に出るか出ないかのところで休んだその夜。いつもと同じ、けれど違う夢を見た。どこまでも続く白の中にただ一人立つその子供は、こちらを向いて小さく口元を歪ませる。不思議な色の瞳を、慈しむように細くして。
「……あなたは」
「ようやく歩き出したんだね、ティリス。いつまでも待っているよ。君が、僕の名前を呼んでくれるまで」
そう言って、夢でしか会えない子供は、霧となって消えたのだった。