第七幕「よく似た鼓動」
アルストメリア王国王都・フェアリーレン。その西に広がる森の中をキャロルさんに言われた通りに進んでいく。心配してくれた彼女を信頼してはいるが、万が一誰かに襲われた時のために、とその足取りは誰が言う訳でもないのにいつになく早めだ。将軍本人が城へと来ているとなれば、もしかしたら部下でも連れてきているかもしれない、というのがノウゼンさんの見解だった。本人と会うのは避けたいし、その部下とも出来れば会いたくないに決まっている。
しかしその願いはすぐに打ち破られる。城の裏口から出て数分経った頃だろうか、先頭を歩き周りを警戒していた赤髪の少年が、突如足を止めて短剣を空へと切り上げた。飛んできたのは数個の赤い光の玉、それらは寸断されて炎のように消えていく。――炎属性の初級魔法だろうが、それにしてはあまりにも気配が読めなかった。エイブロも驚いたのだろう、深く息をつく――だがそれだけでは終わらなかった。
「ほお、今の魔法を切るのか」
森のどこからか誰かの声がする、低く滑らかな男性の声だ。嫌な予感を胸に警戒を続ければ、その男は木の影から姿を現し、青地のマントを大きく翻しながら私たちの方へと歩み寄ってきた。歳は兄さんやノウゼンさんよりも少し上ぐらいだろうか、薄い茶金の髪は後ろへと流されていて、見た目はとても若く見える。肩や首の留め具は鮮やかに輝く金、控え気味ではあるが明らかに高位権力者の証で、あの花の国の将軍に似た格好ということは最早間違えようがないだろう。目の前にいる彼は、私たちが最初に訪れた国の中でも高位の人間。
「――フォブルドンの、ナヴィリオ将軍」
「俺を知っているのか?……なるほど、そっちはインペグノで間違いないな」
直後に出された名前にはもう驚かない、そんなことをしたって相手が有利になるだけだ――エイブロたちと事前に打ち合わせておいた内容があれで本当に良かったと思う。現に赤髪の少年はにこりと営業スマイルを見せて、男の言葉を流そうとしているだけだ。遅かれ早かれ追いつかれるものだとは思っていたのだ、心の準備はとうにしている。
「違うと、言ったら?」
「この辺りで五人組の旅人はそういないね。報告を聞いている限り、あんたらで間違いないだろ」
さすがは将軍、こちらが情報の制限をしても意味はなさそうだ。私たちの沈黙を肯定と受け取ったらしい、ゆるりと樹の幹に凭れ、彼は口の端を上げていた――けれども逃がす気はこれっぽっちも無いらしい。逸らされることのないその視線に睨み返せば、にこりと意地悪く笑いかけられる。こちらも出会ってしまった以上、簡単に逃げられるとは思っていない。
「……まずいですね、どうしましょうか」
「全員でかかって倒せる?」
黒髪の少女がエイブロから杖を受け取りつつ、前を見据えて体勢を整え直す。姫だという彼女ならこの将軍とも会っているのだろうか、もしかしたら弱点なり、隙なりわかっているかもしれない。けれども返ってきた言葉はそういう類のものではなく、ただの否定の言葉だった。
「無理です。この人数で戦って勝てる見込みはありません」
見込みはない、ということはやはり逃げるしかないようだ。自分の槍を袋から出して戦闘態勢をとりつつ、逃げる算段をし始める。私たちは五人、相手は一人。全員が一気に逃げる隙はできなさそうだが、二人と三人に分かれることが出来れば何とかなりそうだ。
その時、黒髪の少女を見て将軍は目を瞬かせた、どうやら今更気づいたらしい。樹の幹から背を離し、一歩踏み出してまたにこりと微笑んだ。
「ん?よく見ればユティーナ姫じゃないか。探したんだぞ?」
「近寄るな!」
「おおっと」
珍しい言葉使いに将軍を除いた全員が振り返る、その雰囲気は彼女の母親に当たるというアルストメリア王国のキャロル姫ではなく、戦乙女と呼ばれるもう一人の王国の姫で、キャロルの双子の姉・ノエル姫とそっくりだった。小さな身体から発せられた言葉はとても短かったというのに、その威力はかなり強く秘められている。
私たちがゆっくりと話を聞く気が無いのが分かったらしい、将軍は諦めたように溜め息を付いて、腰に挿した鞘から剣を抜いた。青い刀身、恐らくは銀と魔石を混ぜ合わせてあるのだろう。場の空気が一瞬揺らぐ、相変わらずにこにこと笑みを湛えているというのに、男から滲み出る気配はそんな生温いものではなかった。
「じゃあこうしよう。お前ら五人で俺と戦う。勝てば無事に国へ。負ければ、」
「負ければ?」
「そのときはそのとき、ということで」
そのときってなんだんだ、と突っ込みたくなるのを無視して、持っていた槍を横へと構えた。巻き上がった風に揺らめくリボンを取り外して、手に巻き付けつつ槍を手前へと滑らせる。どうやら戦闘は本当に避けられないようだ、ならばうまく撒いてやるしかない。例え彼が勇名な将軍であったとしても、ちょっとくらい隙はあるはず――ここには将軍を見てきた少女と、作戦を出し周りを警戒することができる二人、それに加えて旅によって戦闘に慣れた二人がいる。望む所だ、高らかに宣言した兄と共に、剣を構えることもなく待つ将軍へと走り寄った。
それからたった数分、ほんの二、三分という所だろうか。私たちは戦闘によって、折角癒やして治りかけていた傷口を開くような結果になってしまっていた。指揮していたというこの将軍、私たちは実際に戦争を体験したわけではないが、恐らくハイマートの人間からしたらとんでもない化け物にでも見えたのではないだろうか。
「なんだこの程度か。つまらんな」
「っこの!図に乗ってばっかだと、後で痛い目に遭うんだぜ!」
「ほお、痛い目に遭わせてみせろよ、さあ」
逃げ出す隙が、全くと言っていいほどなかった。戦いに全員が専念しなければならないほど目の前の敵が強すぎて、同時に周りを全員が警戒しなければならないほど囲まれていた――他でもない、将軍の放った魔法に。
兄さんを煽りながら鍔迫り合いを繰り広げた男は、木の影を利用しながら魔法の言葉を紡ぐ。その声は追い詰められている私たちとは違い、落ち着いて伸びやかな声だ。
「"雨垂れに潜む蒼の王よ、氷晶に潜む碧の王よ、汝らは大いなる水の源より出る。汝らは一つとなりて愚者への槍とかせ"【水氷の欠片】」
槍を振るって壊したばかりの氷の破片が、彼の声によって導かれ、元の通りに再生していく。ユティーナの壁魔法にまた一つ大きな塊がぶつかり、壁を壊してしまった。慌てて呪文を唱える彼女の周りを更に警戒しながら、兄さんとエイブロの動向を横目で確認する。
旅の間に何回か鍛錬を行っていたおかげか、彼らの連携は上手く行っていた。将軍に方向を変えながら斬りかかる兄さん、常に後ろを警戒させながら投げナイフと大ぶりの短剣で応戦するエイブロ、更に魔法と弓でランダムに攻撃するノウゼンさん――この三人に掛かれば大抵の魔物なら確実に倒せるだろうし、今は後ろで多くの壁魔法を操る事ができるユティーナが控えている、余程のことがない限り倒されるような事態になんて陥るはずがなかった。
それでも、今私たちは追い詰められている。主な原因は唯一つ、この眼の前にいるナヴィリオという男と私たちとの力の差が、あまリにも大きすぎたのだ。剣も魔法も予想外のもので、両方を澱みなく使うことができる将軍には舌を巻くしかない。
迫っていく兄さんの剣を剣の側面を使い横へと流し、弱くなったところで将軍は剣を大きく振り上げる。危ない、その言葉を紡ぐ前に自分の兄の身体は地面へと倒れていた。弾かれた剣が近くの地面へと突き刺さる、慌てて赤髪の少年が取りに行くも、肝心の操り手に近づくことが出来ない。
「さあて、ちょっくら質問の時間にしますかね」
「……っ、俺のことはいい!お前らは早く」
キッと私に視線を寄越した兄さんに思わず手を伸ばしたその時、彼の表情が凍りつく。兄さんの首元には銀色に煌めく長剣、青い刀身がそこに。酷く背中が冷えていく、頭に過っては消えていく幾つもの予感があまりにも恐ろしくて、脚はその場に縫い付けられたかのよう。この状況でどうにか動いたのは、口だけ。
「――兄さんっ!」
「「俺のことはいい、お前らは早く」……その続きは?」
ぞく、と背中に悪寒が走る。その声音は先ほどまでの口調よりも冷たく、一瞬にして場の雰囲気が変わった。ノウゼンさんが男を目掛けて直接矢を放つものの、兄さんの首元から離された剣がそれを切り落としてしまう。散らばって落ちていくそれを横目に、将軍はまた兄さんの首に切っ先を宛てた。
「俺をそんなもので止められるとでも?甘い思考だな、青年。さて――」
「っ……」
「止めなさいナヴィリオ将軍っ!」
息を呑む音、兄さんの首から流れる一筋の赤、息を詰めたような声がどこからか漏れる。ほとんど人質状態に陥ってしまった兄を助けるためにか、後ろに居た黒髪の少女は男の元へ駆け出そうとした。それを止めたのはエイブロ、今行けば確実に彼女まで被害が出ると思ったのだろう。少年に強く腕を掴まれて、少女の行動は未遂に終わった。
冷静さを保つ青年を見て、荒れ狂う心が少しずつ落ち着いていく。どこかに隙があるはずだ、それを見逃さないためにも兄の剣を持つ赤髪の少年に目配せをし、槍を強く握ってタイミングを図る。下手に動けば何をするかわからない、村で私たちを襲撃した先生たちとは違い、彼はこちらに何らかの危害を加えるつもりでいる。私たち誰かが起こした一つの行動が、もしかしたら国にすら帰れなくなることに繋がる可能性だって――
将軍は血が付いた剣をほんの少しだけ兄さんの首から離し、まるで何事もなかったようにユティーナへと笑いかけた。
「心配しなくても殺さないですよ、まだまだ聞きたいことがありますし……さあ青年、続きを聞こうか。さっきの続き、「安全な場所へ行け」か?それとも……「国へ帰って上に報告をしろ」か?」
何故、ただその一言だけしか口からは出せない。ほんの僅かに言われた言葉の意味を理解するのが遅れて、たまたま目に入った銀髪の青年の姿ですぐに理解できた。民間からの依頼にする、そう口裏を合わせてどこでも漏れないようにしていたはずだった。それなのに、この男は今"上に報告を"と言ったのだ、聞き間違いであればどんなに良かったのだろうか。
「そういえば向こうじゃ魔物の出現率がやたらと上がったり、普段見ない魔物が出たりしてんだよな。国から調査団が派遣されてもおかしくはない」
「何が……言いたい……」
「お前らがその調査の人間じゃあねぇかって話。五日前、ハイマートでは珍しく国からの依頼を受けたギルドがいるらしい」
ああ、やはり漏れているのだ、規制をかけたはずの正しい情報がどこからか――でなければ彼は知らないはずだ。私たちはそもそも国からだとは一度も言っていない、民間ギルドからの依頼だ、調査だ、聞かれたらそうとしか答えてはいない。この将軍は、裏の事情をすでに知っている。
「そいつらが数日前に鉄の森へ入ったという報告があってな。わざわざ軍をアルストメリア側へつけ、案の定フォブルドンへ入ったはずだった。――だがそいつらは捕まらず、俺たちの方では行方が掴めなくなった、不思議なことに」
どうやらあの荒れ地にいた軍勢は、わざと置かれたものだったらしい。兄さんが居なければそのまま突っ込んでいたのかもしれないが、気づいたお陰で彼らの思い通りになったのか。将軍は兄さんの首に相変わらず剣を添えかけたまま、意地悪くニヤリと笑った。
「フォブルドンでは人間が見つかり次第捕縛し、首都へ付き添いの護送をしてもらうことになっている。国民誰一人にも見られずに通りきる?そんなのは不可能な話。となると……誰か手引きしたか口を封じたかのどちらかだろう?そして後者は、お前たちを見る限り出来なさそうだな」
脳裏に浮かんだのはピオーヴェレの村の住民たち、茶色の髪を持つ優しき狼、そして……翼を携え逃してくれた、気高き黒の鷹。出会っていないことにしよう、そう言ってくれたミンデルさんの言葉が今更になって重く突き刺さる。これを彼は恐れていたのか。まずい、これは調べられたらすぐに分かってしまう。頭の中で必死に思考を巡らせながら槍を強く強く握れば、高らかに声を上げて将軍は言葉を紡ぐ――その笑顔には相応しくない言葉を。
「さぁ、何処の奴だ?報告も寄越さず見逃した馬鹿共は」
誰が答えるものかと言い返そうとした時だった。突如場に低く笑う声が小さく漏れて、全員の視線がそちらへと引き寄せられる。声の主は将軍の足元、金髪の彼は珍しいほどの嘲り笑いをしていたのだ。妹の私がほとんど聞いたことのないような、奇妙な笑い方。紛れも無く自分の兄の声なのだが、割と信じられない光景であった。
そして、それを聞いて将軍の眉は案の定顰められる、明らかに彼を馬鹿にしているのだから当たり前だ。――それにしても一体兄さんはどうしてしまったのだろう。
「――おい、何がおかしい。吐く気にでもなったか?」
「……へっ、誰が言うもんか。お前なんかに答えてやる義務なんてないね。俺達は俺達の仕事をするだけだ」
舌打ちが聞こえて反射的に魔法を唱える。もう我慢なんて出来なかった、目の前で誰かが傷つくのは耐えられない。燃え盛る炎に似た心と、それとは反対に落ち着いた口調で魔法を導きだすための標を並べた。
「"新緑を揺らす美しき者よ、汝は地上の果てまで溢れ流れし者、我が刃となりて立ちはだかる敵を切り裂け"……!」
「"天空を駆け抜ける気高き支配者よ、汝は遥か彼方の空に輝きを放つ者、愚者へ天罰を与えるための剣となりて降り注げ"」
完成した風魔法を――この際人間相手だからと手加減していた考えは取っ払って、力を抑えることもせず――将軍の剣を目掛けて放つ。ちょうどノウゼンさんの魔法と同時に発動したらしく、私の魔法を切り伏せた将軍の手の甲へ雷魔法、見事剣を弾き飛ばすことに成功したようで、ついでに相手をよろけさせることも出来た。機会を狙って待機していたらしい赤髪の少年が、黒髪の少女に剣を託して救出に向かう。一瞬の隙を突かれたことに驚いたらしい将軍は、身を引いて兄さんを解放した。
「ガディーヴィさん!しっかり!!」
「兄さん!」
「ってて……ありがと、助かった」
慌てて兄へと駆け寄って、その傷口に回復魔法をかけた。微弱なものだが無いよりはましだろう、乱れた髪や服に付いた砂をちらりと見ながら安堵の溜息をつく。周り三人に警戒してもらいながら魔法を唱え終わり、ハンカチで彼の首元を押さえた。
「……中々やるじゃねぇの、坊主。いい威力だ」
飛ばされた剣を拾い終えた将軍は、もう一度剣を構える――けれどもその構え方は明らかに先ほどまでとは違う。片手を背中へと回し、光る刀身を縦に立てたその構え方は、いつだったか見たことがある騎士の構え。その目の色は変わらないが、少なくとも先ほどまでが手加減で、今からがようやく本番なのだというのは最早明白だ。
「ティリス、ガディーヴィを頼む。お前なら止血の方法、ある程度分かるだろう。――ユティーナ、エイブロ、援護を。ガディーヴィがある程度動けるようになるまで回復するところまででいい、あいつを……止めるぞ」
「分かった」
「分かりました」
ノウゼンさんの提案に頷いて、それぞれが戦闘準備をもう一度整えていく。兄さんの疲労が何とかなれば、さっさと逃げなければならない――少なくとも、この将軍と戦って勝ち目なんて私たちにはないのだから。
「止める、ねぇ?ひ弱な子どもに止められるほど俺は手加減しねぇぜ!」
一気に間合いを詰めた将軍は、剣を逆手に持ち替えてエイブロへと迫る。二本の短剣で制しようとしたが、まるで見えない力でも働いているかのように、少年はその手から短剣を落とした。その手の甲、まるで仕返しとも言わんばかりに横一閃された傷跡が見える。次の瞬間には掌底突きをくらい、エイブロは近くの幹へと飛ばされてしまって。
「っユティーナ、魔法……!」
「遅い」
弓を構えていたノウゼンさんが呼びかけるも、脚をうまく捻り将軍が向かう先は黒髪の少女。杖を構えて詠唱途中だったためか、反応が少し遅れた彼女の腹あたりを目掛け、柄を押し込む。吹き飛ばされていない辺り手加減をしてもらえたらしいが、その場で彼女もうずくまってしまう。
「くそっ、"天空に"」
「"――深き蒼を纏いて敵を撃て"」
ノウゼンさんよりも早く詠唱を終え、剣を縦に構えて目を閉じた将軍、途端に容赦なく降る氷雨の青い光、威力があったのか弓を手から落として青年も膝をつく。
一分を満たしたのだろうか、目の前で起きたことが信じられなくて、構えていた槍を下ろしかける。しかし冷たい視線を肌で感じて、慌てて壁魔法の詠唱へと入った。
「"新緑を揺らす者よ、汝は地の果てまで流れし者、我らを守りし盾となれ"!」
「"暗き世界を象る冷たき統治者よ、汝は銀衣を地上に垂らす者、深き蒼を纏いて敵を穿て"!」
ノウゼンさんの時とは違い、緑の光で作られた壁には一塊の氷が落ちてくる。衝撃に耐えるために槍をかざして待ち受ければ、やはり壁を破りながら入ってくるそれを槍で強引に弾いた。兄さんに支えられながらも、何とか槍を持ち直して前方を見詰める。致命傷を狙わない攻撃、圧倒的な強さを見せつけてくるそれに、手出しが何も出来ないのが悔しい。まるで彼の掌の上で踊らされているようだ。
「まぁできる方というところか……まだまだ未熟ではあるがな」
「こんなところで、負けるわけには、いかない」
「はっ、諦めろ。ここは弱肉強食の世界だ。恨むなら自分の力不足を恨むんだな。人間なんて所詮」
「――そんなに人間が嫌いかよ」
息も途切れ途切れに話していると、隣から今度こそ怒りに満ちた声が響いた。誰の声だったのだろう、隣にいるのはただ一人だというのにも関わらず、その声音に耳を疑ってしまった。
「何?」
「ハイマートにだっていいやつはたくさんいる。それすら無視して、誰かの想いを踏みにじってまで人間と争いたいのかよ!」
――頭の中で何かがつながる音がした。ライラさんやピギが言っていた言葉が、双子の姫が言っていた言葉が、彼に集約されて一つの事柄を形成していく。人間であるはずの彼がそこまでして人間を嫌うほどの何かが、過去にあったのだ。兄さんは争い事か嫌いだ、戦争のことをもしかしたら以前から何かしら思っていたのかもしれない。だからだろうか、いつになく必死に止めようとしているように見えたのは。
だが相手がそれを聞き入れてくれるほど、今の状況は良くなかった。挑発されたのだと受け取ったのだろう、将軍は今まで使っていなかったもう一つの剣を空いた手に携え、強く地を蹴った。向かう先は、私たち。その顔は兄さんと同じく怒りに満ち溢れて、逆鱗に触れてしまったということにようやく気がついた。
「黙れっ!……お前らに、世界から見放された俺達の、気持ちが分かってたまるか!!」
「逃げて二人とも!」
「ティリス、ガディーヴィ!」
ユティーナの悲痛な声が聴こえる、エイブロに切羽詰まった声で名前を呼ばれる、まだ傷が癒えていない兄の肩を庇うように抱きしめながら、防ぐこともせず衝撃に備えて目を瞑ってしまった。こんな、ところで。
――けれども、いつまでたっても衝撃は訪れない。恐る恐る目を開いたその先、目の前には深緑のコートを舞わせる、背丈が小さな少年が立つ。その子は杖のようなもので、振り下ろされた将軍の剣を止めていた。
「そこまでだ、ナヴィリオ」
まだ声変わりが終わっていない少年の声、記憶の隅に引っかかり、耳から離れてくれない。ありえないと思った、こんなところにいるはずがないと、ただその姿に驚くことしかできなかった。一度起きていた身体に付くこの目で見ても存在を疑い続けていた、夢の住民である子ども。
「剣を引いて。今はまだ戦う時じゃない」
「……ちっ、お前が言うならしょうがないな。本当なら押しのけてでも切りたいところだが」
「まったく……探し回ったんだからね、ちょっとは反省してほしいな」
その声は今朝聞いたばかり、少年は顔をあげると周りを見渡してにこりと笑い、無理やり彼の剣を横へと押しのけた。正面を向いた時に見えた顔、片目を覆うように流す前髪に、赤鋼の髪飾り、美しい薄紫の瞳――間違いない、彼だ。首を絞め、助け、忠告までしてくれた意味不明なあの子どもだ。
「そうか、やはり君達がインペグノ。色々と噂は聞いていたけど、面白い面子ではあるね、確かに」
「あなたは、一体」
思わずそう声を上げた時、重ねられた少女の呟きはたった一つの単語だった。
「クラベス……」
ばっと彼を下から見上げる、意味が飲み込めずただ見詰める。くらべす、クラベス、まさかそんなはずは。その名前は確か二国の軍師であり、れっきとした建国者で、そこに佇む将軍と共に戦ったという奴隷解放の英雄で――クラベスはにこりと笑いながら、杖を持ち上げて言葉をゆっくりと紡ぐ。
「やぁ、ユティーナ。しばらく見ない間に随分と図々しくなったね。さすがはあの女王たちの娘というべきなのかな。国をわざわざでて敵国につくとは、皮肉な運命」
「わ、私はそんなつもりでここにいるわけじゃない!」
「ふぅん?けれども君が選んだのはその道なのだろう、結局は僕らの敵にしか過ぎない。まあ僕らの前に立ちはだかるというならば全力で薙ぎ倒すだけ、だけどね」
瞬時に背筋が凍る、ただその発言をしてにこりと微笑んだだけなのに、氷魔法にでも包まれてしまったような感じがしたのだ。何も、特に異常はない、それでも心の中に入り込んだままの不安は解消されない。
杖を下ろした少年は城の方へと歩を進め始める、将軍の袖をくいと引き、促すように。一瞬将軍の表情が硬くなったように見えたが、ここからではあまり見えなかった。
「行くよ、ナヴィ。この子達はほっといても問題はない」
視線を向けられるものの、その子どもには逆らう気力はないのか剣を鞘にしまい、将軍は歩き始めた。その視線は兄に向けられたものだろうか、鉄のように尖って寒いほど。
「……命拾いしたな、ガキ共」
「じゃあね、ティリス、ギルド・インペグノ」
呼ばれた名前に顔をあげる、こちらを向くその表情、見覚えのあるそれは夢の中で何度も見たことのある、含みのある笑顔を浮かべている。少年と将軍は二人で優雅に歩きながら、私たちの前から立ち去った。
姿が見えなくなり、一息ついたところで地面に拳を振り落とす兄の姿を見て、思わず凝視してしまった。かなり悔しがっているようだ、何か思うところでもあったのだろうか、兄さんは自身の怒りを隠そうともしない。
「くっそー!ぜってぇ次は勝ってやる!あいつには絶対まけねえ!!」
「……おち、つけ、ガディーヴィ。今回はお前一人が悪いわけじゃない、相手が悪かったのと、俺達全員の技量不足――それに、俺の判断ミスが大きい」
「ノウゼンさん、」
「次は上手くやる、今まで魔法と弓ばかりにかまけていたからな、良い薬になっただろう」
兄さんがやられたからだろうか、妙にやる気のある銀髪の青年を見ながらとうとう地面へとへたり込んだ。もう気が抜けて、腰も抜けてしまって、頭の中も混乱したままだ。――ようやくあの夢の少年を名前で呼ぶことができる、という意味の分からない安心と、夢でずっと会ってきた子どもの正体がまさか、敵国の軍師だったなんてという不安が混ざったまま。
「どうした、ティリス」
「……クラベス……」
クラベス・ディクタトル。人間だけれども獣人たちと共に生き、奴隷解放の英雄、アルストメリア王国やフォブルドン共和国の建国者としても名を広めており、かつハイマート王国で"裏切り"として追われた罪人。複雑な事情が絡み合った彼が、何故私なんかと夢で通じているのだろうか。単なる偶然ではないだろう、彼は私とこうして直に会う前から私を知っていて、見ても居ないはずのことを知っていて。間一髪彼に救われたようだが、その意図とは一体なんだろうか。
「ティリス!」
「えっ」
「ぼうってして、どうしたんだよ」
なんにもないよ、そう答えれば兄さんにまたかと言わんばかりに眉を顰められてしまう。けれどもしようがないのだ、私にだって分からない。思い当たる一つの予測――あの子どもは、少なくとも十数年前から、何かを企んでいたに違いないということだった。