第六幕「舞い踊る気高い花と可憐な花」


――この国ではほとんど魔物を見なくなった、今では一日の間に見ないことだってある。そう言っていたのは確か彼の白鳥の長だっただろうか、それとも銀狐の子どもだっただろうか、どちらが言っていたかは記憶の中で曖昧だ。けれども聞いたことははっきり覚えている、そしてその時こうも思った――私たちが襲われたのは偶然だったのかと。
 手に持つ槍を返して、背後から襲おうとした魔物を勢い良く突く、力が足りなくても相手をけん制することは出来る。その直後に今度は左から異様な気配、伸ばされる腕を槍の柄を使って流し、相手の懐めがけて右足を回し蹴り。漸く余裕ができたと思ったら真正面に落ちてきた猿のような魔物、大きく槍を振り回して距離を取りながら、自分の兄と背中を合わせて息をつく。
 全く余裕が無い、休む暇がいつも以上にない。フォブルドンのピオ―ヴェレ村水門で戦った時に感じた焦りがまた身を襲う。こんなに私たちは酷かったのか、戦いにあれだけ慣れているのにも関わらず、こんな時には役に立たないのか。

 降って湧いてくるような魔物たちを見据えながら、槍をまた構えて飛び出す。その数、数十はいるだろうか。兄が振るう剣も、赤髪の少年が投げる短剣も、銀髪の青年が放つ矢も、敵を確実に一体ずつ倒しているはずなのに。膨れ上がるその数に漏らした息は明らかに疲労が溜まっていて、どうしようもなく気分が暗くなりそうだ。

「もう……全然違うじゃない!」
「多すぎだ。このままだと前と同じことになる。エイブロ、魔法を使えるか」

思わず言ってしまった文句に青年は珍しく同意し、矢を番えながら前方へ少し出る。本来ならば後衛であるノウゼンさんが前に出る、なんてことは今までにもなかったことだ。しかしそうやって前に出て指示してもらわなければいけないほど、私たちは大変な状況にあった。声が聞き取りづらい、魔物たちが立てる音や剣と爪が当たる音、強靭な肌に槍や短剣が弾かれる音――とにかく色んな物が雑多に混ざったこの小さな戦場では、頼りの彼の声が近くでないと聞こえない。
 少年は手に持っていた銀色の短剣で牽制をしながら後退し、息を深く長くついた。

「……使えます。炎と風ですけど」
「それでいい。囲まれたら守りに入ってもらうかもしれん。多少の無茶になるが、詠唱中の時間稼ぎを頼む」
「了解です。……ただし、俺も使えるかどうかわかりませんよ」

 一つ、大きな問題が私たちを襲っていた。ノウゼンさんもエイブロも渋い顔をしているのはそのせいだ。もちろん彼らだけに関わる問題ではなく、私も関わる問題――魔法が使いづらいし、発動しにくい。
 普通、魔法は空気中に浮かぶ魔素を呼び寄せて発動する。魔素の密度や魔素の属性によっては、一定の量が集まりにくくて使いづらいこともあるだろう、そう魔法の先生からは聞いたことがある。まさに今、その状況だった。魔法が発動しても威力が殆ど無い、或いは発動すら出来ず、集まった魔素は光の輝きすら見せない。唯一ノウゼンさんだけはいつも通りの威力らしいが、雷魔法はこの場では使いにくいのだという。
 魔法の詠唱を始める機会を全員で伺いつつ戦っていると、一際大きな咆哮が耳を震わせ、森に響き渡った。灰色の巨体から白い霧を出しながら闊歩するそいつ、今まで見たことはないが、この場のボスなのだろう。全員の視線がそちらへと合わせたかのように向く、こいつは確実に倒さなければならない。そう、心に決めた時だった。

「【水獄】」

 たった1つの言葉。それなのに私たちの周りから何かが大量に流れていく感覚がして、槍を構えたまま耐えると、次の瞬間には先ほどの巨大な魔物は青色の光に囲まれて視線を彷徨わせていた。

「【黒の翼】」

 更に重なる言葉は今度こそちゃんと聞き取れた。魔法の言葉は青色の檻にいくつもの黒い羽を突き刺して、魔物から悲鳴をひねり出す。そのまま息絶える音、それと同時に私たちの前へ人影が踊り出る――美しい黒髪を1つに束ねて垂らす、騎士服の女性。その服の色は紫、振り返ったその瞳の色は宝石のように鮮やかな青紫。
 その面影が誰かに似ている気がして、視線を完全に女性へと向けきった瞬間、鋭い声が飛んでくる。

「ぼさっとするな!まだ敵はいるぞ!」
「は、はい!」

 反射的に動く手足に少しだけ安堵しながら、目の前にいた敵へと走り寄った。やはり先程倒された魔物がボスの役割をしていたのだろうか、残った魔物たちにはあまり覇気が残っておらず、力が入りきらない私でも何とか倒すことができる。銀髪の青年がいつも通り後衛へと引きながら、弓を番えて指示を出してくれた。

「ティリス、ガディーヴィ、右だ!」

 兄さんと二人、同時に頷いて一緒に地を蹴る。右側から飛び出してきた集団を兄さんは真正面から、私は待ち構えて真横から襲う。案の定二手からの攻撃に驚いた魔物たちは、行き場を失い逃走し始めた。――これこそ、彼の思惑通り。
 赤髪の少年が短剣を投げて魔物たちを牽制した後、至極穏やかな声が振りかかる。すでにこの状況を予想していたのだろう、呪文の詠唱は終わっているようだ。

「――【暗紫の剣】」

 魔物たちの頭上から紫色の光が稲妻のように落ちる、一つ一つが魔物を貫いて、悲鳴をいくつも、何度もあげた。次の瞬間にその場に立っていたものはおらず、私たちは何とか状況を切り抜けるだけではなく、魔物を一匹残らず掃討することが出来たのだった。


 周りを見渡した直後、地面に剣を突き刺してその場で兄は膝を折った。駆け寄ろうとしたが手で来なくていい、と合図されて仕方なく近くの木に寄りかかり、深呼吸を繰り返す――乱れた息は急速に酸素を取り戻したかのよう。足が辛い、まるで木の棒だ、どう考えても今回は動きすぎた。頭へ今頃になって痺れが走り、小さく呻きながら槍を支えにずるずると樹の根本に座る。よく見ればエイブロも地面に腰を下ろし、ノウゼンさんも木へ凭れかかっていて、息を整えているところだった。
 地を踏みしめる音が近づいてきて、振り返れば先ほどの女性が剣をしまいながら歩み寄ってくる。黒髪を整え、その瞳をこちらへ向けて小さく笑った――先程の怒声に似たあの雰囲気とはまるで別人だ。慌てて頭を下げて、お礼を言う。

「――あ、あの、ありがとうございました」
「構わない、どうせ遠征の帰りだ。……それに、我が国にいる以上は旅人も守るべき者。お前たちに怪我がなくて良かった」

女性に疲れた様子は見えない、彼女は鞘にしまいきった剣の位置を戻した後、胸元に光る金の紐の装飾を揺らしながらこの場から立ち去ろうとした。その姿に声をかけるのは銀髪の青年だ。

「もしや、アルストメリア王国の女王でしょうか」

思わず顔を上げて女性を凝視する、まさか。彼の言葉になんでもないように頷いて黒髪の女性は――この国の最高権力者は首を傾げた。立ち止まり、鐘のように澄んだ声が言葉を肯定する。

「あぁ、その通り。私はアルストメリア王国女王、ノエル・イル・アルストメリアだが」
「――ご無礼を」
「お前たちにはお前たちの王がいるだろう。私に頭など上げる必要はない……私の正体を知らなかったのなら尚更」
「それは……そうですが、」

 頭を下げるノウゼンさんに女王・ノエルはそう言い、もう一度私たちの元へと歩いて来られた。周りを見渡しながら小さくまた微笑みかけて、首をまた傾げて。

「ところで、どうしてこの森に?街はもっと向こう側だが」
「いえ、アルストメリア王国を治める姫様に、お話を伺うため参りました」
「なるほど。ギルド・インペグノだったのか」

 突然出た名前に今度こそ絶句した。何故、そう問おうとした声さえ喉から出ずにただ全員で彼女を見詰めるだけ―― 一人の少年を除いて。エイブロは立ち上がってノエル王女の真正面に向き直った。

「――ご存じで?」
「遠征先で我が国と隣国・フォブルドンを訪ねに来た、彼の故郷の国からの旅人たちがいると聞いていた。もちろん、お前たちがしてくれたことも。――ピオーヴェレ村を救ってくれてありがとう。他国ではあるが、国を代表して礼を言わせてもらう」
「え……あ、」

晴れた夜を思わせる鮮やかな黒髪が彼女の肩から垂れる、その頭ごと。フォブルドンの領土であるのにアルストメリアの姫が、しかも旅人で何の権威も力もない私たちに向かって。よく考えて見れば私は座ったままの状態であることに気付き、悲鳴をあげる腰に鞭を打って、木に背を預けながらも何とか立ち上がって声を出した。

「あ、あの、頭を上げてください。あれは成り行きですし、それに、目の前で誰かが困っているのにほっておくなんて私には出来ません、ただそれだけなんです。結局私たちの力だけでは……」
「そうか、だが私はこうも聞いたぞ――ギルドにいた勇敢な魔法使いの娘が、最後の最後に大活躍した、と」

 何の話か分からず首を捻っていると、少年が風の魔法の話だろう、と小さな声で呟いた。一瞬止まった思考、けれどもすぐに思い出して、いやあれはと思わず口を滑ら思想になった。茶狼・ミンデルとの約束を破ってしまうところだった、危ない。
 どうやらこの人にはミンデルさんの話は伝わっていないようで、心のなかでほっと安心しながら、それでも私の話がそんなふうに伝わっているのがなんとも言えない。私はそんなにすごい人じゃないですよ、と言いたいぐらいだ。あの時、ミンデルさんがいなければ私は何も出来ず、もしかしたらあの村ごと水に沈んでいた運命だった。
 けれども目の前にいる彼女にはきっと、いや絶対に言えない。黒鷹・オルゼが何のために身体を張ってくれたかわからなくなる。

「それにいくら口で言えたとしても、現実において実行できるものは少ない。その点、お前は噂以上に素直な者のようだ。……さ、私に話を聞きたいのだろう?一緒に城へ帰ろうか」
「え、いいんですか」
「今さら素性を確かめる必要もない。これでも人を見る目には自信がある」
「え、え……ええ?」

 キャロルさんの時と同じようにトントン拍子で進む話、素っ頓狂な声がとうとう出てしまって慌てて口を押さえる――しかし時すでに遅く、振り返ったノエル姫はくすくすと笑いを溢した。恥ずかしい、顔から火が出そうだ。剣を杖代わりにして立ち上がる兄の背中へと急いで隠れて、顔の火照りがせめて弱くなるまで隠れた。
 けれどもその言葉を聞いて、少年は一層顔を険しくした。

「……見張りでもつけていましたか」
「それはひどいな。嘘を言っているかどうかなど、人を見れば分かる。特にそこのお嬢さんは素直なようだからな」
「貴女たちはいつだって――」
「エイブロ?」

 訝しむ兄さんの声にエイブロは首を振り、忘れてください、その一言だけを言って城の方角へと歩き出す。その後を追う青年の目はやはり細められていて、ああまたかとため息をついた。なにか知っているのだ、彼は。けれどもその内容が言われることはなく、二人の後を優雅に歩く黒髪の女性の後を兄と二人で追った。
 その姿を、何故かあの可愛らしい金髪の少女と重ねあわせたのは、自分でも分からなかった。


 案外、ハイマート王国がきっちりしすぎていたのかと思い直した。それとも、こちらの住人が皆おおらかなのか、迷うところだが両方の可能性もあるか――というよくわからない思考が頭の中を駆け巡る。それくらいにはこの状況が受け入れていいものなのか、一人で悩んでいた。

「お帰りなさい、ノエル姫」
「ただいま、ローリエ。私の留守中に変わったことは」
「後ろの訪問客以外は特に」
「それは何より」
「送った使者にはちゃんと会えましたか」
「いつ来たんだ」
「三日前ですが」
「会っていないし聞いていないな」
「あら、迷子が増えましたか」
「ふふ、そのようだな」

 城門に着くなり女王はこんな会話を女性とし始めて、私たちは面食らっていた。先程よりも少し日が高くなり、お昼を過ぎた頃だろうか。補佐官だという女性を相手に話す女王は、私たちに目で合図して中へと招き入れて歩き始めた。補佐官も女王に付き従い、話からは一向に離れず廊下を歩き続ける。――キャロルさんが案内してくれたのは勝手口のようなところだったのだろうか。
 小さな両開きの扉にたどり着くとノエル姫はくるりと振り返り、補佐官の女性に目を向ける。ほんの一瞬間が開いたような気がしたが、気のせいだろう。

「――すまないが、六人分のお茶の準備を。どうせあいつは戻っているんだろう」
「ええ、分かりました」

 あいつ、とは。補佐官は慣れているのか、女王に確認することもなく廊下の先へと歩いて行ってしまう。彼女たちの間に信頼があることは見た目にも分かり、視線をそらした女王は扉を両手で押して開けた。

「はいるぞ――」
「御姉様、お帰りなさいませ!」
「うわっ?!」

 ノエル姫の口から溢れた声は、普通の声ではなくて、思わずびっくりしたまま固まる。どうやら彼女も驚いたらしい、胸にいきなり飛び込んできたその人影には。腕の中から黒髪が流れる、女王と同じその色と艶――姉妹だろうか。
 だが女王は窘めるように言葉を紡ぐ。

「こら、抱きつくな。客の前だぞ」
「お互い知っているのならいいかと思いまして」
「――え?」

 鈴を転がしたような、可愛らしく綺麗な声。上げられた瞳の色は赤紫の瞳で、姉妹にしては色が違いすぎるが反対をかたどっているような気もする。二つに揺れる長い髪、色は黒色だったが――これが金髪ならば、間違いなく「さっきぶりですね」と言っただろう。
 兄さんが後ろから首を傾げ、それでもその名前を呟いた。兄が言わなければ私が言っていただろうその名を。

「キャロルさん、なのか?」
「はい」

朗らかに笑った彼女を、見間違えはしない。だってその人はほんの十数分前に別れたばかりで、私たちのギルドをここまで説明しながら案内してくれた人なわけで。だからこそだった、私たちが一緒に話していたその人が、この国の。

「じゃあ……あ、いや、では――貴女がアルストメリアの」
「はい。第二王女、キャロル・イル・アルストメリアです。ノエルは私の双子の姉になるんですよ。ねぇ、御姉様?」

 まさか双子だったとは、しかも二人王女がいるとは全く予想外だった。いや、太陽の光を思い浮かばせるほどの金色だったキャロルさんの髪が、何故ここでは黒色なのかも気になるが。
 ふと、横へと視線を反らすと、少年が何だか考え事をしていた。それはすぐに思い至ったらしく、ぼそりと一言だけ彼は呟いた。

「……"双翼の戦乙女"」

 その単語に王女二人は顔を勢い良く振り返らせる。驚きと警戒、少年が言った言葉は何か彼女たちの心に引っかかったらしい。その表情は引き締められていて、少なくとも好印象の言葉ではなかったようだ。剣の柄に手を添えていないだけマシだと思わなければいけないだろうか。
 だが、そんな状況であっても彼は構わず言葉を続ける。

「あれは、ノエル姫が双剣をつかうからではなく、キャロル姫と共に闘うから呼ばれるようになったのですね。ノエル姫が一つの剣しか持っていなかったので気になっていたのですが」
「……もー。情報屋さんには敵いませんね」

 聞いたことのない言葉だったが、どうやら戦場での彼女らの呼び名らしい。戦乙女、何だか仰々しい名前なのだが、彼女たちはそんなに戦上手なのだろうか。けれどもそれはつまり、先の戦争に参加していた可能性が十分にあるということだ――私たちの国、ハイマート王国が惨敗した、あの戦争に。
現在、三国――正確には二国と一国だが――は休戦状態にあるが、いつかそれは崩れてしまうだろう。きっとハイマートとアルストメリアとの戦いは絶対に避けられない。もちろん、キャロル姫やノエル姫とも戦うことになるのだろう。私たちと戦う機会はないだろうが、それでもきっと戦うのは、私たちが知っている人物である可能性が高い。もしも、もしも私たちも戦争に駆り出されてしまうとしたら、今眼の前にいる女性たちとは、戦場で相まみえることになるのだ。
 そんなことを考えているとはさすがに口には出せず、ふわりと紫色のドレスを身にまとったキャロルさんの笑顔に戸惑ってしまうだけ。

「では、本題に入りましょうか。ギルド・インペグノの方々?」

 ほんの一瞬、ゾクリと背筋が震える。そこにいた女性は私たちが知っているキャロルさんではない。ただ胸元に手を当て、目を細めただけ。それなのに彼女の雰囲気は変わり、町娘などではなく一国を治める女王としてそこにいたのである。


 応接室らしき部屋へと案内された私たち四人は、勧められたソファに並んで座っていた。ローリエと呼ばれていた女性が紅茶を運び、姫たち自らカップへと注いでくれて、思わず腰を上げたもののすぐに手で制されて戸惑う。白を基調とした部屋、壁には小花の模様が描かれていて、二人からはランタナの花だと聞いた。
こうして見ていると、女王というよりも少し位の高い人というだけにしか見えず、どういう言葉遣いをしていいかもわからない。唯一私たちの中でれっきとした地位がある青年も、出された紅茶を飲んでは言葉をつぐんだままだ。彼が口を開いたのは彼女たちから質問――何故ここに来たかを問われてからだった。そして、いつも通り、そして先程森で話しあった内容を彼は慣れたように答えたのだ。
 二人の王女は話が終わると、静かにその口を開く。思案する表情は険しくて、互いに視線を合わしながら息をついた。

「魔物の変動ですか……確かに最近は減ってきています。国民が襲われることも減りましたし、大量発生の報告も以前に比べると格段に減っています」
「しかしまあ……よりによってこんな時にあいつの名前を聞くとはな」
「クラベス、さんのことですか」
「ああ。ライラから聞いているかもしれんが、あいつはとにかく色んな事に関わっていてな……けれども、だ」

 私の言葉にノエル姫は頷き、首をかしげながらも答えてくれた。その手には白鳥の長・ライラからの手紙。封を切って中に入った紙を見ながら、紅茶を片手に話を続ける。

「クラベスはアルストメリア、フォブルドン両国の建国者で、同盟軍軍師だ。両国の民で彼を信頼していない者はいないと言い切ってもいいぐらい。……基本的に表舞台には立たないが……。そんなことをするやつだとは思いたくないな」
「――お二人もそのクラベスという方を信頼しているのですか?」

 唐突で直接的な質問、赤髪の少年が髪の間から覗かせる鮮やかな緑の瞳は、揺らがない。その様子をじっと見ていた二人は同時に答えた。

「ええ」
「ああ」

揺るがないのはこちらの方だったか。二人の反応に目を瞬かせたエイブロは何故、と声にはしないものの聞きたそうに彼女たちを見つめていた。
キャロル姫は紅茶のカップを手に取り、やんわりと微笑みながらそれに口付ける。

「クラベスがいなければ、私たちはこの席に座ることを許されなかったでしょう。今のアルストメリアがあるのは、彼のお陰なのです」
「人間からみればただの裏切者かもしれないが、私たちにとっては何者にも変えられない英雄だ」

妹に合わせてかノエル姫も紅茶を飲み始め、二人はふふ、と笑みを溢した。裏切者だが英雄、彼らはここで奴隷解放に携わり、二国を建国し、かつての祖国に反乱を起こしている。それが何を示すかは全く分からないが、この件はやはり一筋縄で行くようなものじゃない。

「だが如何せん勝手に動く傾向がある。私たちが知らないところでな」
「あ……じゃあ、今回のことは別に国を挙げてってことじゃないんですね?」
「絶対に。この場で誓ってもいい」

 真摯な眼差しこれ以上のない安堵を覚える、良かった、彼女たちは関わっていない。胸を撫で下ろしながらほっと息を吐き出して、緊張が解けて、隣にいた兄へ凭れかけてしまいそうだ。今その言葉が聞けて本当に……

「よかった」
「え?」
「国そのものが敵になったとき、戦わなきゃいけないのは嫌です。キャロルさんたちと戦いたくないです――せっかくこんなに良い人ばかりなんですから、仲良くしていたいなって」
「ティリスさん」

 名前を呼ばれて気づく、兄も、エイブロもノウゼンさんも、眼前に座る女王二人も、こちらへと視線を向けていた。何を言っているんだ、私は、しかもこんな場所で。慌てて頭を下げて非礼を詫びた。

「ご、ごめんなさい、私、その……」
「いえ、謝る必要はないですよ。ティリスさん、本当にいい人なんですね」
「――ライラの手紙にまであるぞ。"今まで会ってきた人間の中で、一番まともで一番安心できて、一番心配な人"だそうだ。つべこべ言わずに協力しろということだな。ふふ、これほど彼女が想う人ならば、私も信じてみたい」

 解けかていた緊張は一気に戻ってきて、身体が固まって動けない。まさかあの白鳥が私のことを書いているとは全く予想していなかった、他の人のことも書いているのだろうか。でも他の人の名前を出さない辺り、私の名前だけきっちりと書かれていたのだろうか。
 ふと、ノエル姫の言葉に顔を上げる。信じてみたい、この私を――耳を疑いながら視線を向けていると、彼女は微笑みかけてきた。

「クラベスには私たちから聞いてみよう。もし彼が原因ならば止めるように話し合うし、そうでなければこちらも調査してみる」
「本当ですか!」
「もちろんだ。目の前で困っている者を放っては置けないからな?」

 ニヤリと笑う彼女、その言葉は私がさっき森で言った言葉だ。覚えていてくれて、しかも使ってもらえるとは光栄すぎて、口を開けたままとにかく固まるしかない。けれども、これで本当に安心した。国への報告書にはこう書けるだろう――原因不明、しかしアルストメリア王国が原因究明に手を貸してくれる、と。これで二国の間の関係が少しでも収まってくれるのならば、そこまで考えたところではっと気づく。そういえばこの国の人は、人間を嫌ってはいない。歓迎をしているようにすら思える、一部、ロクサスと呼ばれていた狐などは除外すれば。フォブルドンの村・ピオ―ヴェレではあれほど奇怪な目を向けられていたのにも関わらず。もしや、わざわざ分けられた二国の大きな違いとは、まさか。

「一歩前進?」
「ん、そうだな。これでわざわざフォブルドン共和国へ足を運ぶ必要がなくなった。これ以上は俺たちが手出しできるようなものではない」

 考えこむ私の隣、兄さんとノウゼンさんは前を向いてまま話す。確かにこれ以上は私たちでは無理そうだ。何かあれば彼女たちの方が早く動けるだろうし、きっと進展があれば教えてくれそうな気もする――いや、さすがにそれは傲慢すぎるか。
二人の様子にくすくすと笑うキャロル姫は、紅茶のおかわりを自分のカップへと注いでいく。

「ところで、探している人はどうなったのですか。お一人仲間が、ということでしたが……」
「あ、いえ、まだです……どこにいるのかも見当がつかなくて」
「ん、だれか探しているのか」

 ノエル姫がキャロル姫の話題に興味を示し、手に持っていた手紙を戻しながらテーブルの上へと置く。ユティーナはまだ見つかっていない、右も左も分からない私たちが探すのはあまりにも不利な状況で、どう動けばいいかすら分からない。しかも下手に動けば、またさっきみたいに襲われた時が危ない――結局私たちは色んな人に助けられてばかりなのだ。優しくて強い黒鷹、夢の中に出てくる子どもに類似したあの男の子、目の前にいる花の国の王女――すべて、運だ。運が良かったからたまたま生き残れたのだ。そうでなければ、私たちもユティーナのようにはぐれてしまうか、あるいは命を落とすような状態になっていたかもしれない。
 ノウゼンさんは出された紅茶を飲み干し、ノエル姫の言葉に小さく頷いた。

「同じギルドの仲間を――黒髪の、背が小さめの女の子なのですが」
「ふむ、残念だが見ていないな。旅人は珍しいからわかるはずだ」
「そうですか……」

 少年が明らかに落ち込む態度を見せ、ぎょっとする――それは演技だ。先に宿屋であんな会話をしていなければ私も騙されていただろう。兄も青年もその姿を見て、顔を見合わせた。
 だがそんな事情だとは知らないであろうノエル姫は、青紫の瞳を緩く細めて少年へと笑いかける。

「後でレオノスにも聞いてみよう。もうすぐ帰ってくるはずだ」
「レオノス?……レオノス将軍?」
「ええ、お姉さまと同時期に別の場所へ遠征に行っていたのです。彼の部隊は情報収集に長けているので、知りたい情報は手に入りやすいですよ――本人の性格はともかく」
「こらこら、キャロル。周りだって知っているのだからわざわざ言いふらさなくても」
「だって嫌いです」
「あんなのでもここの将軍だ」
「むー……将軍だから好きになれという規則はないですよね?」
「ないけれども」

 嫌われてでもいるのだろうか、そのレオノス将軍は。客人、しかも他国から来た人間の前で、話題にのって言い合う二人は、私たちを事実上ほったらかしにしていた。
 けれども途中で置き去りにされていた私たちに気づき、二人して黙って咳払いをしている。

「こほん、失礼しました」
「黒髪の、背が小さめの女の子だったな―― 一応名を聞かさせてくれるか?本人に確認する材料にもなる」

 笑いかけたノエル姫にこたえたのは、エイブロだった。だがその声を聞いた瞬間、先ほどの演技は終わったのだと錯覚した。そう思うほど、彼の声は鋭く尖った剣のようで。   
冷たい空気に意図せず彼の顔へと向ける。

「……ユティーナと言います」

 その瞬間,キャロルさんは勢い良く立ち上がった。その顔色はつい数分前には笑みがあふれていたといたのに。それを宥めるように手を引き、吸い寄せるように彼女を掻き抱く。知っている人、なのだろうか。

「どう、されまいしたか。もしかして聞いたことがある、とか……?」
「あ、ああ、失礼。知り合いの名と同じだったのでな」

 ああなんだ、知り合いの名前か。そういえば彼女の口からはこちらに来たことがある、とは聞いていないし、私の勘違いだったようだ。――ただ、彼女たちの驚き方にこちらも驚いている。何かその人とあったのだろう、全く事情を知らない私たちでも分かるそれ。
だが聞く暇もなく、扉が突如開かれた。

「おーい、姫さん方」
「れ、レオノス?」
「お?急にどうした……とと、失礼いたしました」

 そこにいたのは短な黒髪を逆立てた男だった。歳は兄さんやノウゼンさんよりも少し上だろうか、人懐っこそうな笑みを浮かべ、レオノスと呼ばれたその人は腰に手を当てる。マントと服に付けられた装飾は質素ではあるものの、高位を示すようなそれに目が奪われる。どうやらノエル姫やキャロル姫の胸元を飾るそれとは違うものらしいが、なぜだろう、こちらの装飾が気になるのだ。
 その時だった、男の後ろから現れた小さな人影。長い黒髪を垂らし、男の横をすり抜けて部屋へと入ってくるその少女――忘れはしない。その薄紫の瞳も、可愛らしい純白のワンピースも、肘まで覆い隠す黒い手袋も……そして何より、花が咲いた笑顔をいつも浮かべては私達の癒しになってくれた彼女を。

「ユティーナ!!」
「あ、良かった。ぶじに」
「心配したんだよぉ!!」

 言葉が遮るとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。立ち上がって彼女へと駆け寄ると、両の腕を広げて抱きついた。人目なんて気にしない、再会のハグを勝手にしながらその声に聞き入る。澄んだ鈴の音色、しばらく離れていたようにすら感じる。

「ご、ごめんなさい、あと、いたいです……」
「あ、ごめん」

呻き声が腕の中から聞こえ、慌てて彼女から離れればまたあの可愛らしい笑顔――自然とこちらも笑みがあふれる。彼女の笑顔はやはり落ち着く。
 だが次の瞬間、彼女に声をかけるものがいた。一瞬兄さんか青年か少年かと思った、けれどもその声は女性のもので、振り返れば二つになって揺れる黒髪が目を引きつける。

「……ユティーナ」
「生きているとは思わなかったな」
「え?」

 重ねられた言葉の意味に思わず凝視する、生きている?
 ユティーナは私の隣に立つと、今まで見たことがない険しい顔を浮かべ、直後困ったように眉を寄せながら小さく笑いかけた。

「――十年以上経ってもその姿なのね、ノエル」
「そのうちお前も変わらなくなるさ……なるほど、ギルドをだまして私たちに近づこうと――」
「違う!第一ユティーナは忘れてたんだ!!そんなこと思ってなんかいない!!」

 突然でた話題に視線を彷徨わせると少年がいきなり声を荒らげた。言葉の意味がわからない、全く頭に入ってこない、どういうことだ。ユティーナは女王――しかもハイマートから離れたこの花の国の女王と、知り合いなのか。きっと先程彼女の名前を聞いた時知り合いだと言っていたが、まさか本人だとは思っていなかっただろう。
 黒髪の少女は赤髪の少年の前に入れ替わるように立ち、まっすぐ彼女らの瞳を見つめた。

「……エイブロの言う通り、思い出したのはついさっき。騙そうだなんて考えてなんかいないわ」
「信じられると思うか?そんな戯言――」
「事実だ!信じる信じないの問題ではなく、」
「部外者は黙っていろ」
「黙ってられるわけないだろ!」
「あーもうお前らうるさい!!」

 勝手に進んでいく話に入り込む隙を見つけられず立ち尽くしていると、苛立ったように将軍は無理やり話を止めた。

「そこだけで勝手に話を進めるな!」
「御姉様、ユティーナも戸惑っているみたいですし……」
「自分の娘だからって甘やかすな!仮にもこの国の姫ともあろう者が十年以上も」
「まって、待ってください!!」

 今、何と言った。キャロルさんの娘、この国の姫――話題に登っていたのは間違いなくユティーナだったはずだ。
 ユティーナに関するすべての歯車が、噛み合って回り始める。花をよく知っていた彼女、よくわからないと言っていた彼女の出自、全てが。

「……ユティーナが、姫?」
「――知らなかったのか、お前たち」

 ノエル姫がこちらへと視線を向ける、どうやら私達は彼女の正体について知っていたものだと思われていたらしい。
 ふと肩に触れる手が一つ、レオノスと呼ばれていた青年だ、やんわりと人のいい笑みを浮かべて私が座っていたソファを示した。

「とりあえず座らないか?ほら、姫さん方も」

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