第五幕「美しき花の都」
落ちる、落ちる、闇の中に落ちていく。泥々とした沼に足を突っ込んだようにゆっくりと落ちていく。周りは果てしない黒に覆われて、自分が落ちているということ以外何もわからないまま、ただひたすら。いつも白の世界にいて見慣れてしまったのか、ここはとても暗くて寂しい。何も掴めずに一体どこまで落ちるのだろう、もしかしていつまでも落ち続けるだけなのか、だとしたらこの闇に終焉など無いのか――回らない頭で考えたその時、片腕をがっしりと掴む感覚があった。途端に終わりを迎えた降下、覚めていたはずの目を傾けて、掴まれた腕のその先を見上げる。小さいが強く掴む、その手の主を。
暗緑が差す黒い髪、揺れる赤鋼の髪飾りに細められた薄紫の瞳。相変わらず右側の瞳が隠れるように髪を流して、いつかの夢で見た少年がそこにいた。足は宙ぶらりん、支えるのは彼の手――かつて、私の首を絞めようとしたその手だけ。けれども不思議と怖さはなくて、どこかたち観した眼を見詰めつつ乾いた喉から声を何とか絞り出して、意識を彼へと向ける。
「……あなたは」
「災難だったねぇ、ティリス」
まだ幼さの残る少年の声、含みのある言い方と聞き覚えのある声に夢が覚めていくような気がした。覚醒するにつれて白い足場ができて、ぽっかりと開いていた黒い穴は埋められて、そっと足は地面の感覚を掴むように降り立つ。その瞬間腕が離されて、バランスを取れずよろけた私を子供は背中に手を当てて受け止めた。驚いた私に笑いかけて、子どもは体勢を直したのを見計らって背から離れる。
「川の近くで襲われたら身動きできないもの。考えた人は中々いい軍師だ、少なくとも君たちには良い薬になったようだし」
「……何よ、その言い方」
小さく呟いてしまった軽口に子どもは忍び笑っていた。ぽつり、ぽつりと記憶が一つ一つ雫となって垂らされて、白黒だったそれに鮮やかすぎる色を付けては浮かんでくる。
思い出した、私たちは襲われたのだ。ギルド全員が魔物に襲撃され、何者かによって体勢を崩されて、誰一人としてあの場で立っていることが出来なくなってしまった。仲間が倒れていくあの景色を自分でも何があったのか訳がわからない、だがこの夢のお陰だろうか、今ならあの出来事を見つめ直せる気がして子どもへと視線を向けた。
「ねぇ、もしかしてあなた」
「僕はあんな手の込んだことをしない。どっかの森の中で迷わせて体力を尽きさせる。その方が遥かに効率良い」
らしい。この子どもが言うと何だか納得がいって、言いかけた言葉は止めざるを得なかった。私が何も言わなくなったことを確認するとコートの内側から小さな木の杖を出して、子どもは目の前でそっと横に構える。彼は、魔法を使おうとしているのだろうか。ほんの一瞬、大きく魔素が揺らめいて私たちの元へと集まり、何も言わないうちから命令を待ち受けるように漂っていた。
「――"陽光に佇む者よ、汝は太陽の娘、我らを照らす昼の支配者"」
力ある言葉に、紅暗い宝石が散りばめられた杖の先端へとほんのり淡黄色の灯火が点る。子どもが目を閉じて一息で杖を地面に突くと、子供の足元から黒い闇が崩れていった。まるでガラスの破片が剥がれていくよう、飛散した黒のかけらは霧散し、いつの間にか見渡せばいつも通りの白い雪の光景だった。だが不意に暖かさを感じて、それは子どもの使用したのが光魔法だったからかとすぐに思い至る。
コートに短い杖をしまいながら、黒髪の子どもはふっと小さく笑った。何故だろう、以前に比べて子供は優しく感じる。そればかりじゃない、何となく心配とか親切とか、目に見えない何かが増えてきたようにも思える。夢を重ねるごとに変わっていくこの小さな彼が、自分にとって一体何だったのか、少しずつ気になり始めているのだと。
彼はずいと前に寄ってきて、くすりとまた笑みを浮かべた。思わず慌てて後ずさりしていると、子どもは言葉を紡ぐ。
「さて、今回はあまり話すことが出来なさそうだ。君が目を覚ますのを待つ人がいるみたい」
目を覚ます人、と聞いて最初に浮かんだのは優しい自分の兄、その次に花の笑顔を向ける黒髪の少女、赤髪を掻き上げる少年に長い銀髪を翻す青年――誰だろうか。目の前の子どもに視線を向けるも答えてくれる気配はなさそうだ、現に彼は口の端を上げて薄紫の瞳を細くしただけ。
今までの経験上からか、私は素直に子どもの言葉が受けとれず、無意味だと分かりながらもちょっとだけ見栄をはってみた。
「親切なのね。首を絞めようとしていたのに」
「君が僕の名前を呼んでくれるのをずっと待っているだけさ。じゃあね、ティリス……次に会う時、君の目が曇っていないことをせめて祈るよ。君はどうやら、真実がよく見えていないようだからね」
夢が遠退いていく、夢が、覚める。視界が黒く塗りつぶされていくその向こう側で、子どもは初めて私の名前をフルネームで呼んだ。ティリス・クラスペディア、約束を果たして、いつかきみが正しい僕の名前を思い出せますようにと。
――目を開ければ、木の天井が見えた。次に見えたのは、ドーム上に反って強い光がさす天窓、その次は窓の向こうに広がる青く晴れ渡った空。ゆっくりと目線を下にずらしていけば、見覚えのないドアと部屋、部屋の隅には見覚えのある自分の荷物。ここがどこか全く見当はつかないが、少なくとも安全な場所にいるということは分かった。ぼうっとしたままもう一度上を向いてかけられていたシーツを引き寄せる。
その時かたっ、と小さく物音が聞こえて、部屋の入口に視線を向けるとマントを被った人影、後ろには銀色の尾が見えた。小さな人影は気がつくとぱたぱたと走り寄ってくる。
「……おねぇちゃん!」
「え?あ、ピギ?」
大きなマントとフードで分からなかったが、アウディア村で別れた銀狐・ピギだった。手に持っているのは桶とタオル、水音がかすかに聞こえて、桶の中に水が入っているのかと呑気に考えていると小さな彼はそれを窓際のテーブルに置いた。そして、じっとこちら側を覗きこんで顔を綻ばせる。
「良かった、目を覚まして……」
「ピギ、ここは」
「あ、あ、起きちゃダメだよっ」
起き上がろうとするとふらっとよろけてしまう、自分の体のはずなのに自分のものではないように思えるほどだ。慌てて止めに入る狐に視線だけ向けて説明を求める。タオルを桶の水へと浸し、彼はぎゅうとそれを絞った。
「おねえちゃん、まだケガ治ってない、無理しちゃダメ」
「ケガ……」
単語に反応して思わず繰り返した、記憶の中を探れど残念なことに一切そんな記憶はなくて。今思い出せるものは少ない、そういえばどうやって倒れたかも不明だ。不思議とあの変な蟹が襲ってきた川や森、倒れる直前までいた泉など、周りの景色は思い出せるというのに肝心なところは。
いつどこでと聞き返そうとしたそのとき、二回のノックの後に扉が開いた。狐は振り返ってその人影を見詰める。
「ピギ君、起きましたか?」
聞いたことのない鈴の音のように澄んだ声、つられて自然と私の意識がそちら側へと傾く。そこには美しい金髪の女性がいて、柔らかく微笑んでいた。いや、女性というにはまだ若いかもしれない、二つに分けて垂らした髪が彼女を若く見せているのだ。強い花の香りが漂うものの、鼻をつくようなものでもなくどこか安心する、彼女は一体何者なのだろう。
「起きたよ!ほらっ!」
ピギが明るく答えて手を差し向けると、女性はやんわりと微笑んで私たちの方へと歩いてくる。その笑い方は私がよく知る黒髪の少女のそれに少し似ていて、特に何をしたわけでもないのにつられて笑顔になった。
ふと、私に視線を向けて、金髪の女性はぺこりと頭を下げた。二つに分けた長い髪が揺れる、その美しさに思わず目が奪われそうだ。
「初めまして、キャロルと言います」
「あ、ええと、ティリスと言います。初めまして、キャロルさん」
「うふふ、ピギ君、下のお兄さんたちにティリスさんが起きたことを伝えに行ってくれるかな」
元気よく頷いて、ぱたぱたと扉へと走っていく狐の彼を見ながら、心配をかけたのだなとつくづく思う。彼にはアウディアでも心配をかけてしまったようだし、色んな事を白鳥・ライラと共に教えてくれたし、何だかんだ私たちと縁があるようだ。私の視線の先を追いながら、キャロルさんは軽く目を閉じてぽつりと言葉を溢す。何故だろう、その姿はどことなく寂しげで哀しくて、先ほどの笑顔が嘘のように感じるほど。
「ピギ君、あなたのことをずっと見ていたんですよ。お姉ちゃんが目を覚ますまで、ずっと僕がみとくから、って」
「そうだったんですか……」
「体の具合はいかがですか。頭を怪我されていたようでしたけど」
「え、痛くはないですけど」
私がそう答えた瞬間、ひんやりとした彼女の手が伸ばされた。その手が触れたのは私の頭、自分では気づかなかったが包帯を巻かれているらしく、不思議と心地良い感覚に戸惑った。彼女がさすった場所はほんの少し熱を持っているような気がする、ようやくキャロルさんの行動の意図が理解できて、思わず見上げる。先程狐の彼が心配してくれていたのはこの事だったのだろうか。どうですか、もう一度可愛らしい声で問いかけられて答えるしかなかった。
「……やっぱりまだ痛いです」
「あまり無理をなさるものではありませんよ。怪我人は安静に」
ゆっくりと、そこまで言いかけたキャロルさんの言葉を遮るように、下の方からぱたぱたと音が近づいてきた。閉まられず開いたままだった扉に手を添えて、銀狐の子どもは声をかけてくる。息は切らしていない、けれどもこちらを伺う様子に私と金髪の女性は目を向けるしか他になかった。
「キャロル、下のお兄ちゃんたちがおねぇちゃんを呼んでるよ」
「……皆さんが」
少しだけ眉間を寄せて、彼女は手を降ろしながら私を振り返った。ふわりと髪を揺らしながらもベッドから身を離す。明らかに私が通る場所を開けてくれるような行動、判断は任せる、ということなのだろうか。しかし考える時間はほんの一瞬だ、そんなの、皆の様子が知りたい私にとっては動くほうが良いに決まっている。もちろんこの優しそうな女性はそうは思っていないのだろう、けれども自分の体のことだ、動いた責任は自分で取ろう。今度はしっかりと彼女の目に目を合わせ、ちらりと狐の彼に目配せしてから申し出た。
「――ごめんなさい、キャロルさん。下に行かさせてください」
キャロルさんはため息をついて渋々と頷き、まだベッドに身を起こしたままの私へと手を差し出してくれた。さすがに拒むようなことはしないらしい。
――早く皆に会いたい、その無事な姿をこの目で確かめたい。記憶の最後に残っているのは倒れていく彼ら、悪夢と銘打つ事ができそうなほど酷く苦しい光景だ。特に心配なのはあの黒髪の少女、泉に引き込まれて安否すら分からない。私以外のギルドメンバー四人が全員揃っていることを祈り、諦め顔の彼女に申し訳ないと思いながらも、その手を借りてベッドから降りたのだった。
水が入った桶を片付けに行ったキャロルさんと別れ、ピギと共に階下へと降りる。一歩一歩踏み出すたびに心配そうに覗きこむ彼の頭を撫でると、顔を綻ばせては手を握り返してくれた。導かれながら降りたその先は木の香りがここぞとばかりに漂う不思議な空間で、小さな黄色の花をところどころに付けた蔦が壁に何本か伝わっている。ピギに手を引かれて入った場所は食堂、時間感覚が今はまだ取り戻せていないので分からないが、どうやら人が少ない時間帯らしい。宿屋にしては閑散としている気もしたが、自分がどこにいるかも知らないので何も言わない。周りを見渡ぜば丸テーブルにつく見慣れた男性陣をすぐに発見し、近づくと向こうも気がついたようで椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
「ティリス!」
「兄さん、ノウゼンさん、エイブロ」
安堵した表情を見てこちらも安堵する、皆どこにも目立った怪我はなく、私のように包帯を巻いている様子もない。タフな男性たちでよかった、と思う反面、私は何もできなかったことが凄く悔しい。以前から男の中に入って活動してくる機会は多かったのだが、こういう時は本当に自分が男だったら何か結果が、と思ってしまう。
けれども彼らはそんなことを指摘するような人ではない、赤髪の少年が私の頭――おそらく包帯が巻かれているであろう部分を指さしてくる、その深緑の鮮やかな目を細め、首をほんのちょっとだけ傾かせて。
「それ……怪我は大丈夫か?」
「はい。皆は」
「俺は大丈夫。二人と違って首の後ろ突かれただけだから」
エイブロが答えると残り二人も継ぐように頷いた。どうやら意識を奪われただけで、相手は私たちを殺すことが目的ではなかったらしい。けれどもそれにしてもおかしな話だ、私たちがこの状態になることを望んでいたりでもしたのだろうか、相手の行動目的はさっぱりだ。
ふと、何か物足りない気がして周りをもう一度見渡す、人気の少ない食堂、すぐにその違和感の正体が分かった――黒髪の彼女の姿がない、あの花が咲いたように笑う少女の姿がどこにも。部屋にでもいるのだろうか、先ほどまでの私と同じように。
「ユティーナは、まだ目を覚ましていない……とか?」
「――その事についてなんだけどユティーナは、」
「ああ、ユティーナは行方不明だぞ」
淀むエイブロの言葉に淡々と付け加えられた短な言葉、余りにも簡単に言われてしまい、その意味を飲み込むには時間がかかった。ようやく飲み込めたとき、無意識に言葉の主である銀髪の青年を殴ろうとした。殴らなかったのではなく、兄さんに肩を掴まれて止められて、殴りたくても殴れなかっただけ。
「ティリス」
「行方不明って何ですか!っていうか、ノウゼンさんよくもそんな淡々と言えますね!仲間がいないって言うのに!!」
「まて、落ち着けってティリス」
「もうちょっと取り繕うこと出来ないんですか!人一人がいないんですよ?!――っ、話して兄さん、こいつは一発殴っとかなきゃ気が済まないの!!」
「だから落ち着けって」
落ち着く?落ち着けるわけがない、彼なら「あれは仲間じゃない」とでも言いかねないではないか。だからこの人は嫌い、もっと人を大事にしてくれたっていいじゃないか、他でもない仲間なのに。いつだってそう、彼がどうしてそこまで冷たくできるのか全く理解できない。向こうも私の行動が理解できないと幾度となく言ってきたが、本当にお互い様だ。
けれども飄々としていたノウゼンさんを庇うのは、兄一人ではなかった。真っ先に殴りそうな赤髪の少年は私の前にするりと入ってきて、ため息をつく。
「落ち着けよ、ティリス。ノウゼンさんは悪くない」
「エイブロ……?」
「ユティーナは必ず合流できる、絶対に。約束するよ」
妙な安心感と不安が混ざったが、彼がそう言うのであればならと思う自分がいた。それに何より――刹那、垣間見えた少年の眼差しはまるで覚悟を決めたそれで、頷くより他になかったのだ。振り上げていた拳を下ろすと息をつく兄さんを見て申し訳なくなる、そして一言詫びようと振り向いた時、思わず驚いてしまった。
今のエイブロの言葉はノウゼンさんにとって想定外だったのだろうか。ぱちくりと目を瞬かせる銀髪の青年は、次の瞬間には顔を思い切り顰めていた。
「合流できるだろうと思ってはいたが……随分はっきり言うんだな。まるでそうなるって分かっているような言い方だ」
まだ喧嘩腰のノウゼンさんに沸々と怒りがこみ上がってきたが、エイブロは簡単に片手でいなして、そっぽを向いた。アウディアでの一件もあってか、折角まともな仲になりかけていた二人はもう、味方を見るような目では相手を見ていない。入り込むことすら危うく感じる、何故か。
赤髪の少年は一歩青年へと歩み寄り、身長の高い相手に視線という鋭利な刃物の切っ先を突きつけた。
「何が言いたいかは分からないが、俺はあんたや皆が知らないことを少し知っているだけだ」
「はっ、お前の少しはまったく少しじゃない」
「俺は情報屋だからな。様々な方面のことを知っているし、それを組み合わせて対処もできる。少し知らない情報や知識があるだけで差が出るのは仕方ない」
乾いた笑い声に答えたエイブロは自分の意見が至極真っ当な物だと信じているらしい、彼が言うとやはり納得ができて、そうなのかとしか言いようがないように思えた。こんなことを口に出せばお互いからは文句が同時に飛び出すだろう、やっぱり似ているね、なんて。少年は譲る態度を全く見せず、話を終わらせようとしているのは傍目からでもすぐに分かる。
だが今回は相手が相手、ノウゼンさんは少し、ほんの少しだけ薄く笑い答えた。
「本当にそれだけか?」
「……何だと?」
「ただの情報屋にしては知りすぎているんじゃないか。ライラさんの言う通り、もし過去にこの国へ来たのならそれはよっぽどのことだ。……一体どれ程隠してる?もしかしてユティーナが本当は何者かも知っているんじゃないのか?」
エイブロは、何も答えない。それはノウゼンさんの質問をある意味沈黙という形で肯定していた。彼からもたらされたのは呼吸の音だけで、静かなこの空間ではよく響いていたのだ、誰かが息を呑む音も、握りしめ軋んだ指の関節の音も。
――ユティーナが何者か。考えたことがないとは言わないが、そこまで重要だと考えてはいなかった。闇魔法を使い、歌による魔法を使い、華やかに可愛らしく笑う同年代の少女。何も疑ってはいない、ただ知りたいだけ。彼女は一般人には紛れることが出来ない何かがある。この眼の前にいる研究者や、長く沈黙を保つ情報屋と同じで。
踏み込んだ質問だ、ただ一言彼が言えばよかったのに、エイブロはいつまでも黙ったままだった。そしてそれを破ったのは意外にも。
「おにいちゃんたち、喧嘩、ダメだよ」
私たちの後ろでずっと見守っていたピギが、手を広げて二人の間に割り込んで立つ――小さな体というのにそれは大きく見えて、本当に壁のように立っている。体を張ってとはこういうことを言うのだろう。その瞳は子供らしく愛らしかったものから、強い意志を込めたそれへ。
ギルドメンバーでない彼が頑張ってくれているというのにこのまま何も言わないまま、なんて嫌だ。さっき少年が助けてくれたように、私も思い直して二人へと近づいた。さりげなくついてきてくれる兄の存在に感謝しながら、二人の目を交互に見つめる。
「そうだよ。今はそんなことで争ってる場合じゃない。ユティーナがいつ戻ってもいいように、先に進まなきゃ。エイブロも、ノウゼンさんも」
ピギの肩に手をおいて、そっと後ろへと庇いながら代わりに間に立つ。瞬間背筋がぞっとするほど強烈な視線、ほんの一瞬だったためどちらから送られたかは不明だったが、先に言葉を発したのはエイブロだった。小さく両手を挙げ、争う気がなくなったことを示す。
「……あとで必ず。王都に戻ったら必ずお教えします」
「当てにはできないが……まあいい。約束だぞ」
ふっと顔を背けた青年から怒気が消えていく。同時に少年は小さく微笑みをこちらへと向けてありがとう、その一言を発した。この状況でほっと息をついたのは私と兄さんだけで、まだなんとなくギクシャクとする二人を不安げな目で狐の子は見詰める。仲間としてはとてもまずい状況下ではあるが、どうすることもできないのが現状だ。
ふと、後ろから気配を感じて振り向くと、金髪の女性がそこに立っていた。話が終わるまで待っていてくれたのだろう、気まずそうなキャロルさんの視線に、皆へ視線を促す。私が寝ている間にキャロルさんとは会っていたようで、特に驚く人はいない。ふわりとした金の髪を二つ揺らし、お時間よろしいですか、と彼女は柔らかな笑みを向けた。
「何か目的があってこちらへ来たのですよね。良かったらお聞かせ願えませんか?」
「――私たちは、この国の女王に会いに来ました。こちらに鳥族の長からの紹介状があります」
少年に目配せされたノウゼンさんが簡単に答える、最早慣れたその口調にはなんの違和感もない、むしろそれが当たり前のようにも思えた。だからこそ、少ないが的確な情報に対してどう思ったのだろう、と彼女へと視線を向けて驚いてしまったのだ。キャロルさんは何故か目を輝かせ、ぽんと掌を合わせていた。
「女王に、ですか?じゃあお城ですね!」
「えっ」
「え、どうかなさいましたか」
「あ、いや……」
あまりにトントン拍子で話が進むものだから、声が勝手に喉から漏れだした。いいのか、それで。確かに手紙もあるが疑いもせず、中身も確認しないまま直接城へ向かうということなのだろう。しかも会いに行く相手は一般人ではない、この国を統べる女王で、獣人たちから話を聞いている限りは権力の頂点におられる人。簡単に会っていいような人ではないはずだ。
けれどもそれは"私たちの常識"であって、彼女たちの常識とは違っていた。くすくすと小さな笑いを漏らした女性は、目を細めて言いよどんだ私に視線を向ける。
「ライラさんから聞いているかもしれませんが、姫はとても気さくな方です。フォブルドンのように人間を差別することは決してありません。きっとお会いになってくれますよ。もちろんあなたたちでもね――ピギ君、村へ帰ってライラさんに伝えてくれるかな?私がこの人たちを姫に会わせるってこと」
いきなり話題を振られたピギが一生懸命にこくこくと頷いた。じゃあね、と言い残して走っていく銀狐の後ろ姿を目で追いながら、キャロルさんは食堂の入り口へと向かい歩いて行く。予想していた手続きや思案がすべて消えてしまい、残された私と男三人は、彼女が再び呼びに来るまでただ呆然と突っ立っていた。
宿屋から一歩外に出た私たちを待ち受けていたのは、花だった。アウディアの村のように花畑があるわけではないが、通りに立ち並ぶ家や店それぞれにプランターが置いてあるのだ。それだけではない、道端にある木には花が咲いていたり吊るされていたり、店先にも花が所狭しと敷き詰められて売られていたり、とにかく目につくところ全てに花がある。鮮やかな花とその香りに目が彷徨う、ここはアルストメリア王国王都・フェアリーレン、私たちが目指していた場所らしい。風が吹く度に店前に吊るされたタペストリーと共に揺れる花たち、その中を私たちは歩いていた。
「わぁぁ……すごい、花ばっかり」
「フェアリーレンでは全国民が花を育てています。花の球根や種が余った場合はそれを売りにかけて、お金に変えることも出来るのですよ。――あ、あそこ。あの垂れ幕の染料とかもすべて花から取っているのです」
説明をしながら歩くキャロルさんは人とすれ違う度に一言、二言と挨拶を交わしている。彼女は私たちが森のなかを倒れているところをピギと一緒に発見して、一番近かったこの街まで運び、手当までしてくれたらしい。しかしよくよく考えれば彼女に獣人らしさは見当たらず、この街でいると特別な存在のような気がした。だがここで、人間がどうのこうのと言うと何かあったときが怖いので、とノウゼンさんからは先に口止めされている。
どうやら街の外は森らしく、時折木々から鳥の鳴き声が聞こえ、道ばたには小さなリスが縦横無尽に行き交っている。川から引っ張ってきているのかあちこちに水が流れていて、それは花を育てるための水だと教えてもらった。明らかに花を育てるために合わせられている街の構造に、感嘆が漏れる。
「それにしても……こんなにたくさんの花、よく集めましたね。色んな所にありますけど」
「うふふ、聞いてください。この花たち、実はたった3粒の種から始まったのですよ」
「……え?」
言葉に思わず聞き返すと、金髪の女性はやんわりと笑みを溢した。彼女は記憶を辿るように目を閉じて話し始める。
「この国の自慢の一つなんです。昔国土がまだ豊かとは呼べなかった頃。ある方が3粒の花の種を持ってきてこう言ったのです。「これは咲けばとても美しい2色の花びらを開かせます。花が咲かせることができれば、その土壌は大丈夫な証拠。咲かせるまでに時間はかかりますが、種がたくさんとれるのですぐに増やすことが出来ます。皆で咲かせてみませんか?」と」
「それで……ここまで増やしたと」
「はい。成功するまでに5年かかりましたけどね」
「5、5年」
「花や植物が育ちやすい土とはなにか、どういうところでどういう方法で育てればいいのか。そういった基礎的な知識を知るのに数少ない書物を漁ったり、経験者がいないかどうか探したり。土の改良に皆で耕したり、水を引いてきたり。そうこうしているうちに年月が経ってしまったのです。しかも一回目は失敗して、やり直しとか改善とかしましたからね。正確には2粒の種ということになります」
ライラさんから聞いた話――ナヴィリオ将軍やクラベスと呼ばれる人間たちがいなければ、この土地は荒れ地になっていた、確かそう聞いた気がする。今そうなっていないのは、ちゃんとした体制が整えられて、田畑や土地そのものが改善されたからなのだろう、花が咲くようなものへと。一から始めた彼ら彼女らがここまでこの国を育てたのだ。彼女は歩きながら話を続ける。
「獣人のほとんどがそんなことを気にする余裕がなかった方ばかりだったので、何かを育てる、という概念すらありませんでした。今ではこうして国民として花を育ててくれていますが、以前は花が空想のものやつくりものだと思っていた方が結構いましたよ」
「空想……ですか?」
「ええ。まだ奴隷だった頃、花を間近で見られた方はほんの一握りでした。道に花なんて咲いていませんでしたからね。奴隷商が時々もらう絵画や、花瓶の中の花、それから伝え話。自分たちが過去に見たはずの花ですら、50年、100年とたつ間に幻だったのではと思ってしまう。そうして、私たちの中から花の存在は消えました。……きっと、あの方が花の種を持ってこなければ今も花はないでしょう」
キャロルさんのほんの少し哀しそうな表情を見て、自分の中で波紋が生まれる。せっかく話してもらった花の話としては全く関係ないことだったが、私が持っていた疑問を解決するための答え――なぜ彼女がこの街にいるのか。本人には、聞かない方がいいだろう。変に挙動不審にならないようそうですかとだけ言い、キャロルさんも私の行動は気にならなかったのか、指を前方にさして私たちに笑顔を見せた。
「あそこがアルストメリアの城です。フォブルドンにはバルコニーと塔しかないので、わざわざ城を見に来られる方もいるんですよ」
「え、そうなんですか?」
「はい、フォブルドンに城は」
そこで、キャロルさんの話は途切れた。正確には彼女が口を閉ざして、前にある存在に目を向けたから。様子が変わったキャロルさんと、通りの真ん中に立つ男を交互に見る。男の耳は獣のそれ、後ろからは金色の毛並みを持つ尾、ピギと同じ狐のようだがそれにしても雰囲気が全く違う。腰から提げた長剣も、その身に纏う雰囲気も。
向こうも私たちの存在に気がついたのだろう、こつ、こつと革靴の音を鳴らしながら石畳の坂道を降りてきた。見た目よりも少し高めの声で、けれども警戒するような声で男は口にした。
「キャロルさん」
「……こんにちは、ロクサスさん。お仕事ですか?」
「ええ、見回りです。こちらの方々は?」
「姫様たちにお会いしたいとか。白鳥のライラさんから手紙を預かっているそうです」
「ライラ様の」
ふとそらされた視線に思わずたじろぎそうになる。それは、友好とは決して言えない、冷たい氷の視線。赤髪の少年や銀髪の青年が空気を変えたのを間近で感じながら、ぺこりと小さく頭を下げると、ロクサスと呼ぶ狐の男は会釈だけしてまた視線を金髪の女性へ移した。
「ノエル姫ならそろそろ城へ戻ってこられるかと思います」
「ありがとうございます、ロクサスさん。ええと、また後で」
キャロルさんが礼を口にだして、隣を顔色ひとつ変えずに通り抜けていく。失礼します、残った私たちに頭を下げ、男は横の道へと逸れていく。なにか思うところでもあるのだろうか、先程まで可愛らしい笑顔を見せていた彼女、ちらっと見せた今の顔は苦い顔だ。
街の中に鳴り響く滑らかな鐘の音を背に、見回りというロクサスさんの視線を感じながら私たちはキャロルさんに追いかけた。
「え、いない?」
「はい。ノエル様はまだ遠征からお帰りになられておりません」
アルストメリアの城の入り口に着き、門の戸を叩いたキャロルさんは驚いていた。この国を治めているノエル姫は、キャロルさんが聞いた話では今朝帰る予定だったらしい。けれども 何があったのかまだ帰られてはいないようで、しかもそれに関する報告や連絡もないのだという。一国の女王がそのような状態、というのは心配だ。
黒髪を肩口で揃えた女性は小さく息をつき、胸ポケットから紙とペンを取り出した。
「何かあったかもしれません。使いを出してみましょうか?」
「お願いします。――皆さん、すみません。まだ帰っていないそうで」
「あ、別に全然構わねぇっすよ。なっ」
兄さんがいち早く答え、残りも頷く。元よりすぐに会えるとは思っていなかったのだ、物事が上手く進みすぎていただけかもしれないし、ここで待っても問題はまったくない。少年や青年に目配せしながら、ここで待ってもいいかと提案するか思案した。
ふと、黒髪の女性がこちらにじっと目を向けているのを感じ、キャロルさんも気になったのか尋ねた。
「ローリエさん?」
「こちらの方々は?」
「旅人さんたちです。あ、ライラさんから紹介状をもらっているとか」
そうですか、と淡々と答えるローリエと呼ばれた女性は、もう一度こちらに視線を向けてふいとそらした。どうやら歓迎されているわけではないようだ。さきほどのロクサスさんといい、やはり全員が全員友好的ではないようだ――そちらの方が少し安心してしまうのは、やはり私たちにとってここは祖国ではないからか。どちらにせよ、城門の前でずっと待っていたら凄い目で見られそうだ。
振り返ってエイブロたちにどこで待つかを聞こうとしたとき、がしっと肩を掴まれる感覚が襲う。いきなりの出来事に文句を言う前に、男は銀糸を風に靡かせてにっこりと笑った。
「――キャロルさん。すみません、少しこの後のことを話し合いたいのでまた後で来てもいいでしょうか」
「え?あ、はい。もちろんです」
「行くぞ」
銀髪の長い髪が翻るのを見て、言葉をこぼす前に彼女たちに頭を下げてその姿を慌てて追いかけた。やはりこの男は一発どこかで殴ってもいい気がしてきた。せめて何か合図をくれたってもいいじゃないか。
――アルストメリアの城の横には小さな森がある。私たちが通ってきた森より北に位置しており、フェアリーレンの街と同じように木には小さな花が咲いている。その森の中を進む者が合計四人、そのうち先へと勝手に一人だけで進んでいく男へ声を荒らげた。
「どういうつもりですか!急に何の話もなく!」
銀髪の男は足を止める、振り返ったその顔に浮かんでいる感情は一切感じ取る事ができなくて、送られる視線を受け止めるのが急に怖くなった。それほどに真剣なのか、それとも本当になんとも思っていないだけなのか、私では分からなかった。この人が言うことはいつだって正しいことの方が多かった、だからこそ何とも言いがたい不安がよぎる。
「姫と接触するにあたって、確認するだけだ。口裏は合わせておかなければならないだろ?ハイマート王国からきたこと、ギルドで依頼をうけたこと。依頼の内容は、ハイマート国内で魔物が急に増え始めたから、こちらで何かないか調査すること。それだけだ。それだけしか言わない方がいい。あとはうまく合わせろ」
「うまくって」
「いいか、今まで会って話してきた獣人たちとは違うんだ。その人たちを蔑ろにするつもりはないが格が違いすぎる。言葉に気をつけろ、自分の言葉に責任を持て」
ああやっぱり真剣だった、そう思えば思うほど背筋がぞっとするのは何故だろう。自分の言葉に自信がないわけではないはずなのに――やはり彼の言葉には魔法にも似た力でもあるのだろうか。少し目を閉じて考えようとしたその時、そっと肩へ大きな手が置かれた。兄の手だ、見なくたって分かる。
「そうだな、言ってくれてありがとう。他に何か気をつけることはあるか、ノウゼン」
「ん……あとは依頼主だな、事を大きくしないためにも国からとは言わない方がいい。聞かれたら民間で済ましておくべきかもしれない」
その件についてはすぐに納得ができた。下手をすれば国交問題に繋がりかねないからだ――すでに関係は悪化しているのだし、刺激しないようにしなければならない。兄さんの言葉に感謝をしながら、肩に置かれた手に指先を乗せて、大丈夫と合図する。
ふと、気配を感じて森の奥を見据え、自分の槍が入った袋に手を添える。旅で慣らした感覚が呼び起こされ、いつも通りの体勢を意図せずにとった。それは一緒に旅をしてきた兄さんも、長年情報屋をやってきたというエイブロも、そして先頭に立っていたノウゼンさんも、誰一人慌てることなく手探りで自分の武器を確認し始めた。
「お客さん、みたいですよ」
「結構多いお客さんだな、時間がかかりそうだけど……ティリス、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ダメだったら後ろに回って魔法でするから」
「そうか、んじゃ無理しないように。ティリスが下がるなら俺が前に出るから」
しっかりと頷けば少年は前を見据えてナイフを両手に構えながら、後方へと下がったノウゼンさんに話しかける。こんなところで喧嘩しないでくれ、という私の願いはあっさりと通った。
「ノウゼンさん」
「ん?」
「戦闘の指揮をお願いします。ティリスの怪我のことと回復役がいないことも含めて」
「あぁ、任せろ」
迷わず答えた彼にほんの少しの安堵を覚えて、槍が入った袋の紐を勢い良く引っ張る。袋と紐を手早く回収して皆の前へと躍り出れば、木々の合間から出てくる見慣れた灰色の身体。自分の仲間である黒髪の少女、まだ見ぬ花の国の女王、今まで考えていたことを少し頭のすみへと寄せて。結った赤いリボンが舞う、故郷の国の女性がくれたマントが舞う、左手を槍の柄に添え地面を勢い良く蹴った。