そのままではとにかく申し訳なかったので、せめてと料理をさせてもらうことにした。ライラさんからもらった色とりどりの野菜を大きめに切り分け、エイブロ特製の乾燥したハーブと共に軽く炒める。村長の家というだけあって家の各所……特に台所は広く、大人数でわいわいと料理が出来る。横を向けばすでにユティーナが用意したスープが出来上がっていて、小さな鍋から不思議な魚の匂いを感じながらも違う鍋へと炒めた野菜を移す。後ろを振り返れば窯からエイブロが取っ手を引き出していて、彼の得意料理というミートパイが香ばしい香りを辺りに撒き散らす。こんがりとした生地、もくもくと立ち上がる白い湯気、出来立ての料理特有の要素が食欲をそそる。料理場に三人並んでもまだまだスペースには余裕があり、たくさんの食材を空いた場所に並べては料理を何にするか手を動かしながらも口々に意見した。新しい料理が出来る度にノウゼンさんと兄さんは用意した皿にどんどん盛り付け、気づけばライラさんの家の食卓はご馳走の山だ。銀の髪を上に束ねてノウゼンさんは一息つき、何品目か分からないつまみを皿に盛り付けていた。
「料理に関しては困ることがないな、このメンバー。……食い意地が張っているわけではないと思いたいが」
「旅慣れしてるしなー、食えるときに食っとかねぇと、っと。ライラさん!この器使っていいすか?」
兄さんがあちこちに動き回って何かしていると思ったら、エイブロが作っているサラダをのせる器を探していたようだ。呼ばれたライラさんがテーブルについたまま小さく頷くのを確認し、兄さんはエイブロの元へ透き通る青いガラスの器を抱えてエイブロへと近寄る。手元の鍋からクツクツと聞こえて、鍋のふたを開けてみればいい匂いがして嬉しくなった。煮込みシチューを作ったつもりだが、さて、エイブロのやつよりは味は劣るかもしれないが、いい味に仕上がっただろつか。残りを煮込みに任せて、調理を終えた私も兄さんたちの手伝いに入った。すでに置かれていたミートパイの香りが食卓の近くに寄る度に鼻をついて、思わず出そうなよだれを我慢する。スープ皿をユティーナの元へ運んで渡せば、魚のほぐし身が入ったスープとなって返ってくる。ユティーナが作ったスープは透き通る白いもので、色鮮やかな食卓の中ではある意味異彩を放っていた。魚好きのユティーナが作った料理、どんな味か期待してみよう。旅の間に食事には困らない、ノウゼンさんとは言っていたが、出来れば旅が終わってからでもまた作ってほしいと本気で思う。そんなことを考えているうちに料理は全て出来ていて、最後にシチューをよそって配り、皆でいただきますという合図で一斉にスプーンやフォークを皿へと伸ばした。
「ん~っ♪おいしい~♪なにこれ最高!」
「慌てて食べなくてもたくさんあるから、ゆっくり食べてくれよ」
「そういうエイブロこそ、ユティーナのスープ一気に飲み過ぎでしょ!」
「おいしいんだもん」
「……お前、「だもん」とか言う性格だったか……?」
「ノウゼンさんには言ったことがないだけですー」
「あははっ、面白い奴等だ。食卓がここまで賑やかなのは久しぶりだな」
私たちの絶え間ない会話にライラさんは笑い、パイの取り皿を取った。パイを近くにいた兄さんが切り分けてライラさんに渡すと、ライラさんは兄さんの目を見て話しかけた。
「では、そろそろ話してもらっていいか?お前たちの現状について」
「あ、はい。ええと……ノウゼン」
ライラさんから視線を向けられ、兄さんは事前に打合せしていた通りノウゼンさんに説明を求める。当の本人は一度頷いて、ナイフを置いたライラさんの方へと顔を向けた。不意に先生たちに言われたことを思い出す。言ってはいけないこと、してはいけないこと、私たちは出来る限りお互いの言動に注意を払う必要がある。自分たちがいる場所はハイマート王国ではない、そのことを心に刻み付けて。ノウゼンさんは私たちと視線を一度合わせたあと、ゆっくりと話始める。
「私たちはハイマート国内に突如増え始めた魔物について調査するよう、民間ギルドとして依頼を受けました。その中、ハイマート国内の変化が魔物の出現以外に見られないため、フォブルドン共和国並びにアルストメリア王国内でなにかあったのでは、という結論に至りました」
「ふむ…」
「ですが、話を聞くところによるとフォブルドン共和国内では旅人、特に人間の旅人の風当たりが強いとのこと。そこで、アルストメリアの方から先に調査することになったのです。ただ、ちょうどこちらの遠征と被ってしまったようで…ピオーヴェレの村から南下することにしました」
ノウゼンさんの報告するような言葉に、ライラさんは相槌をうちながら食事をとる。こういう場面においては、説明が上手いノウゼンさんがうってつけである。余計なことを一切言わないノウゼンさんの言葉はちゃんと伝わったらしい、ライラさんはある程度理解してくれたようで、小さく微笑んだ。
「なるほど。元々ピオーヴェレへいく予定は無かったのか。災難だったな、お前たち」
「いえ……おかけでオルゼさんやワーズ村長さん、グートさんやヘディンさんと出会えましたから。確かに色々とありましたが、行って良かったなと思います」
「なんと、あの二人やワーズとも会ったのか。お互いに思わぬ拾い物となるといいな」
ライラさんは忍び笑いを漏らして、まだピオーヴェレ村にいる彼らとの記憶を共有する。もしかしなくても、アルストメリアとフォブルドンの境目はほとんどないのでは。気にはなったが、かといって話を遮るわけにもいかなくて黙っておくことにした……というか何回目だっけ、このモヤモヤした気持ちになったのは。大体、こっちに来てからというもの、分からないことだらけなのが悪い。私の淀んだ心まではさすがに見えなかったらしい、ライラさんは指を顎に当てて数秒考えて、全員を見渡す。
「うむ、大体のことは分かった。お前たちから見てどう思う?今の、フォブルドン・アルストメリアの現状は」
部屋の隅っこで座って食べていたピギがぴくっ、と小さく反応したのが衣擦れの音と視界の端動いたことで分かった。何かしら昔と変わった部分が、二国にはあるらしい。もっとも一昨日来たばかりの私たちにわかるはずもなく、ライラさんの質問には誰も答えようとしなかった。だが、そんなことはライラさんの想定内だったのだろう。だろうなと呟いてから、彼女は質問を続ける。白い羽根が小さく揺れ動いて、まるで空に遊ばせているように見えた。
「では、そちらの赤髪の少年はいかがかな?」
皆の視線がエイブロの方へと自然に目がいく。何故エイブロへと話題を振ったのか分からなかったが、彼はその質問が来ることを知っていたように答えた。
「…魔物の数が少なくなりましたね」
「え?」
今、なんて。いや、なぜ。ほぼ全員がフォークを止めてエイブロを見つめていた。フォークを動かしていたのは当の本人だけで、場は沈黙をあっさりと迎える。何故、なぜ彼がそう答えるのだろうか。少しの間おいてからそれを破ったのは、青い瞳で見透かしたようにエイブロを見るライラさんだった。
「ふっ…やはり君は以前こちらに来たことがあるようだな。珍しいお客だとは思っていたが、君はあまりにも普通ではなかった。その答えを出せるのは、戦争以前の二国を知っている者だけだ」
「……そうなのか?」
兄さんが弱々しくエイブロへ聞いたが、エイブロは何も答えない。赤い髪に緑の目は隠れてしまい、誰が見ても話すのを拒んでいるように見えただろう。ライラさんは首を縦にも横にも振ろうとしないエイブロを見限って、自分の手元の食事を再開していた。
「エイ」
「エイブロ、後で話は聞かさせてもらうぞ」
ユティーナの言葉を遮ってノウゼンさんが話を後回しにすると、エイブロはゆっくりと黙って頷いた。後、後っていつなんだろう。本当に話を聞かさせてくれるのだろうか、彼は。仲間を信じたい思いが崩れていくような気がして、直後隣にいた兄さんに肩を叩かれる。視線を向ければライラさんの方へと視線をそらすように促され、今はどういう場かを思い出した。信じる、しかない。ライラさんはもう一度視線が集まったことを確認してから、話を再開する。
「彼の言うとおり魔物は少なくなった。昔は日に何度も出現していたのに、今では一日の間に一度も見ない、なんてことがよくあるぐらいだ。お前たちの言う変化があったのかもしれない。だが、私たちにはそれが分からないんだ。すまない」
私たちが襲われたのは偶然だったということなのか。それにしても、住んでいる獣人たちでも分からない状況、というところが気になる。ライラさんの言う通りなら以前と今の間で何か大きな変化があって、ハイマートでは魔物が増え、アルストメリアやフォブルドンでは魔物が減った。目を伏せたライラさんからは、なんとも言えないほどの残念感が溢れている。しかし、そこに追い討ちをかけるようにノウゼンさんは尋ねた。
「失礼を承知で、質問してもよろしいですか」
「構わん。何だ?」
再び顔をあげたライラさんへ、ノウゼンさんは間髪入れずに言った。
「獣人の方は魔物を操れるのでしょうか?」
「なっ」
「っノウゼン!」
エイブロが驚いてノウゼンさんへと顔を向け、兄さんがノウゼンさんの腕を掴む。ノウゼンさんらしい質問と言えばそれまでだが、だからと言って失礼を承知で、と先に断っているにしても、この質問はまずい。ライラさんもやはりそんなことを聞かれるとは思っていなかったようで、目を瞬いて答えを詰まらせた。だが、代わりに答えたものがいた。
「無理だよ。僕たちは魔物を操れないよ、銀髪のおにいちゃん」
「ピギ」
「操れないから、ああやって外に出る度に襲われちゃうの。そんなことが出来るのなら、誰かがとっくにやってる」
ピギは器を自分の脇へ置き、銀色の毛におおわれた耳を垂れさせて膝を抱え込んだ。忘れもしない、つい先ほど彼はその魔物に襲われた。必死に逃げなければと思うほどの恐怖、ピギのような幼い子にはどのような光景が映っていただろうか。ノウゼンさんはすまない、と呟いた。ピギは首を横にふって、ライラさんへと話し出した。
「ライラ、この村で魔物が少なくなったのは2年前だよ。その前まで、もっともっといた」
「2年前か……2年前、といえば……ちょうどナヴィリオ将軍がこちらを何度も訪問するようになってからか?」
「ナヴィリオ将軍」
ナヴィリオ将軍と言えばオルゼさんに教えてもらった、フォブルドンの……人間の将軍だ。今のところ、こちらに住んでいる唯一の人間という認識で私たちの間でも通っている。そのナヴィリオ将軍がこちらを何度も訪問する、という所がすごく気になる。
「そのナヴィリオ将軍に、何か心当たりが?」
「ナヴィリオ将軍がこちらを訪ねる際に、必ず寄る所がある。クラベス、と呼ばれる者の所だ。あいつならもしかしたら、魔物に多少関わっているかもしれん」
「クラベス…その人は、どこに行けば会えますか?」
「わからん」
ユティーナの質問をライラさんはすっぱり切ってしまった。あんまりにも簡易に言われたので、しばらくの間誰一人として話そうとしなかった。クラベス、初めて聞く名前のような……そうでもないような。よくありそうな名前……といったらそれまでで、名前だけではどうにもどういう人物かは想像できない。その人は獣人なのだろうか、もしくはナヴィリオ将軍と同じ人間なのか。私たちの様子が一向に変わらないでいると、ライラさんはコップに水を注ぎ、あぁと思い出したように笑った。
「姫ならば所在を知っているかもしれん。手紙を書いてやるから、会いに行ってみるといい」
「ええ!?えと、それは」
「姫にだ」
「ええ?!」
思わず口をついた言葉は他の何人かと重なった。そんなに簡単で良いのだろうか。姫様と会うのにはこう…もっと手順を踏まなければならない感じがしていたのだが。私たちの国では少なくとも簡単には会えない、せいぜいバルコニーに顔を出されたときくらいのものだ。それを旅人の、一庶民ですらない私たちが。いくらなんでも……と考えたが、ライラさんの言葉は冗談じゃないらしい。私たちが驚いたことに驚いているようにも見えて、感覚的に違っているのかと妙に納得した。
「姫は気さくな方だ。きっと会ってくれる、心配するな」
「いえ、あの……心配はあまりしていないと言いますか、むしろいいのですか?」
「あぁ。別に問題は無いだろうし……ただ、クラベスに会えるかどうかは姫次第だ。なんせ、私たちでも最近は会えない」
そういうと、ライラさんは手元のサラダを食べきってミートパイへと手を伸ばす。クラベス、というものは国の重要人物、らしいライラさんたちで会えないのなら、私たちも会えない可能性が高いように思えるのだが、会えなくてもそれこそ問題ない。パイからまだ立ち上る白い湯気に、ライラさんは意地悪く笑って見せた。
「一つだけ忠告しておこう。クラベスに会うことで得るものは大きい。しかしその反面、お前たちは後悔するかもしれない」
「何を」
「クラベスに会ったことを。あるいは、存在を知ってしまったことを。あれはそういう者だ」
伏せかけた悲しげな青の瞳の中に、別の小さな波紋が生まれていく気がした。ライラさんの表情は昔を懐かしむ年長者の面向きだ。兄さんとユティーナがいち早くそれに気づいて、言葉をかけようと戸惑っている。私も何か言った方がいいのか、と思うものの何を言えばいいかさっぱり分からないのも事実で。結局、ノウゼンさんが最初に言葉を絞り出した。
「…あなたのなかで、クラベスとはどういう方なのです?話を聞く限り、あなたとその方は」
ずっと顔を下げていたエイブロが、ライラさんへと目を合わせる。視界の端ではピギもライラさんへと目を向けているのが見えて、この子も興味がある質問なのだと分かる。幸い、ここには他の獣人はいない。彼女の本心が聞けるかもしれない、そう思った。ライラさんはかぶりついたパイを飲み込んで答える。
「私の中で、か。難しい質問をする。そうだな…人間で初めて信頼できたもの、かな」
「人間で、初めて…」
「クラベスは私達の救世主、そう呼んでも差し支えはない。この国とフォブルドン、両国に住むほとんどの者がそう思っているだろう」
質問したエイブロが即座に黙り込む。救世主、という言葉はすでにオルゼさんから聞いた。確か昔話ー奴隷の時の話の時だったはずだ。ノウゼンさんもその話に行き着いたらしい、話を継ぐように言葉にした。
「救世主というと、もしやあの奴隷解放の」
「あぁ、そうだ。クラベスはナヴィリオ将軍と共に我らを救った英雄…いや、あれは英雄という柄ではないか。とんでもない策略家だな」
ふっとピギが笑った。ピギもその人物を知っているのか、こくこくと頷く頭に思わず首を横に傾けてしまった。その様子を見ていたライラさんも笑い、椅子からピギに問う。
「なあ、ピギ。あれはどちらかと言えば策略家だよな」
「うんうん、僕もそう思う。あの人はね」
忍び笑いを同時に漏らした二人に私たちは戸惑う。思った以上にそのクラベスという人は、獣人たちの間でもかなり有名な人物らしい。けれどライラさんの言い方だとその人は悪者のようで。あぁ、訳が分からない。
「だが、私たちに居場所を、感情を与えてくれたのは事実だ。おそらく今のお前たちから見れば、あいつは悪の元凶にでも見えるだろうな。彼がいなければとっくに私たちは滅び、建国もされず、戦争なんぞ起こしてないだろう。ここの土地も全て荒れ地だったかもしれない」
「そ、そこまですごい人ですか」
それだけのことに二人の人間が関わっていることもすごいが、事の大きさもすごすぎる。特に荒れ地だったかもしれない、というところについては、この村の花畑を見たこともあって一番信じられない。滅んでいたとか、建国されなかったとか、今がしっかりとあるだけに現実味のない話のようにすら思える。しかし、ピギがだよねーと呟いたことによって簡単に肯定されてしまい、私たちは言葉を失った。本当、なのか。ライラさんは戸惑い固まった私たちを豪快に笑って、話を続けた。
「すごいだろう、話だけ聞いていれば。実際にあいつらはすごい。姫だってすごいが、あいつらとは比べ物にならない。もちろん、裏ではとんでもないことをしているんじゃないかと疑う者も多いのも事実だがな」
コップに満たされた水をぐいっと飲みきって、ライラさんはまた意地悪そうな笑みを浮かべた。策略家、とライラさんは呼んだ。あまり好印象を持てるような人では無さそうだ。だがそれでも彼女たちはこうしてアルストメリアに、フォブルドンにちゃんと住んで暮らしている。そして、ハイマート王国と戦争を行った過去だってある。ライラさんは用意していた果物に手を伸ばし、食事の終わりへと一人入っていく。
「それでも皆、彼にいつまでもついていく。それだけの魅力が彼にはある。……お前たちがそれに飲み込まれないように祈っているよ」
晩御飯を食べ終えて、私たちは案内された5つの部屋へと荷物を置きに行く。族長の家は訪問者を泊める役割もあるらしく、宿屋のように階段は連なっていた。木の香りが際立って漂う中、二階の廊下の曲がり角でノウゼンさんがエイブロへと声をかける。
「エイブロ、さっきの話の続きだが」
「俺の過去については落ち着いてから、ハイマートに帰ってから話したいと思います。今ここで出きるような話ではないので……お休みなさい、また明日」
「あ、エイブロ……待って、エイブロ!」
部屋をどこにするかも決めていないのに、エイブロは近くの部屋へ入って行ってしまった。ユティーナは何か言いたいことがあるのだろう、慌てて追いかけて同じ部屋へと入っていく。ノウゼンさんは大きくため息をつき、腰へ面倒くさそうに手を当てた。階段を上りきって、横にならんだ私たちの顔を見てもう一度ため息をつくあたり、この人の性格の悪さはどこにいても変わらないと本気で思う。
「ほら見ろティリス。あいつ、やっぱりなにかある」
「そんな言い方……!!」
「少なくとも、向こうの味方では無さそうだがな。とりあえずは大丈夫というところか」
無意識に自分の服の裾を握り、背を向けたノウゼンさんへ訴える。
「ノウゼンさんは、疑わずにはいられないんですか。信じてあげるって考え方はないのですか!!」
だが、軽く顔を後ろへ振り返えらせてノウゼンさんは吐き捨てるように言った。
「信じてやれるだけの材料がない。安心しろ、旅が終わるまではきっちりギルドメンバーとして扱うから」
「全然安心できない……大体ノウゼンさんはいつだって人をちゃんと信じたことなんてないくせに、いっつもそういう風に言う」
「よく分かっているじゃないか。そのついでに言ってやる。俺は、お前に安心してもらう必要は無いとも思っている」
ノウゼンさんはそう言い切って、一番奥の部屋へと歩いて行った。バタンッと勢いよく閉められた扉の音に、今日何度目になるのか分からないため息をついて、近くの壁に寄り掛かる。エイブロのことを疑いたくなる気持ちは分からなくもない、だが彼はちゃんとピオーヴェレの村でも動いてくれたし、ギルドメンバーを思う気持ちだって垣間見せてくれた。それにノウゼンさんの疑いぐせは今に始まったことではない、最初ギルドを作るときにあっさりと意見を返した理由を、私は知っている。あの後、珍しく意見を変えましたよねと尋ねると、ノウゼンさんはこう言ったのだ。
(「同じギルドにいる方が、あいつの本性を見れるだろ?少なくともあいつは知らなくてもいい俺の素性を知ってるんだから、疑っておかないとな」)
今となっては、あの場面で彼の顔面を殴らなかった自分を悔やむ。
「これだからノウゼンさんは……」
「まーまー、エイブロもノウゼンも考えてるっちゃ考えてるって。信じて待とうぜ」
唯一私以外に残った兄さんが能天気に言った。今となっては、あの場面でこの男がノウゼンさんを連れてきたことも悔やまれる。
「あのね、どう考えても仲が悪い上にこんなことになっちゃたら、普通は心配になるでしょ。しかも私たちは旅の途中」
「戦いのときに何かあったら、ってことか?」
「それもあるけど…何かあってはぐれた時に、ちゃんとお互いが動かなきゃ命の危険がある。あの二人は、それが全然分かってない。何かあってからじゃ遅いのに」
「んー…ま、エイブロもいつか話してくれるって言ってるし、ノウゼンも一応旅の終わりまではギルドメンバーとして扱うって言ってるし、基本的に大丈夫じゃね?」
それはそうなのだが。今回ばかりは、兄さんの意見が飲み込めない。早く寝ようぜ―、という兄さんの言葉に背中を押され、何とも言えない不安の渦に巻き込まれながらも二人、ノウゼンさんとは反対の端の部屋へと足を進めた。
そしてその夜、私はどうしても話しておきたい人物と会うことにした。エイブロの過去も気になる、ユティーナのことも気になる。ノウゼンさんのあのよく気づくきっかけや疑い性も気になるし、兄さんのあの能天気さも気になる。だがそれ以上に、私には聞いておかなければいけない相手がいるのだ。自分一人しかいない部屋の中、闇夜が更に深まる窓を一度確認してからふかふかの布団を引き寄せ、ぎゅっと目を閉じる。暗い部屋でそんなことをすれば当然視界は真っ暗……のはず。だが集中してほんの数秒。
「やぁ、来ると思ってたよ」
そいつとその景色は私のまぶたの裏、暗闇に色を取り付けた。
「……やぁ、じゃないわよ」
「あはは、ずいぶん嫌われたなぁ。ただの挨拶じゃないか、ティリス」
子供はそう言って、早速足を私の方へ踏み出した。今度は逃げない、自分の背中を駆け抜ける恐怖を消して動きそうな足を踏みとどまらせる。表情も相手に悟られないよう、小さく深呼吸を繰り返して無表情を保つ努力をしてみる。子供に慣れてきたこともあってうまく出来たらしい。
「……今日は逃げないの?いつもなら表情を変えたり、後ろに下がったりするくせに」
「逃げてばっかりじゃ、前に進めないもの」
「なんだつまらない。君の変化がないのなら、こんなもの無意味だ」
足を止めた子供はふてくされ、背を向けた。子供の小さな背中は、やはりアウディアの村近くでで見たものと同じもの。ーあの時この子供は確かに存在していて、私の知る魔法と酷似したものを使って魔物を倒した。私が使うものより遥かに威力は高かったが、同じ名前の同じような魔法だったのがとにかく印象的だった。こうして、夢の中だけの人物だと思っていた者を現実に見てしまったこともあって、この世界でも子供の存在感はより強まる。なけなしの勇気を振り絞り、試しに質問をしてみることにする。
「アウディアの村の前にいたよね」
「あぁ、やっぱり。あれは君だったんだね。魔物に襲われていたからつい手が出ちゃったけど」
振り返ったその顔は、いつもの笑顔だった。だがそれよりも、やっぱりという言葉に内心驚いた。こちらこそやっぱりだったのだが、この子供があの場所にいたのは、私をわざわざ狙ってやってきた訳ではなかったようだ。
「なんであんなところに」
「ただの散歩」
「なんで?」
「別に何だっていいじゃない。僕はあそこから見るアウディアの景色が綺麗で好きなんだ」
はぐらかされたように感じて、あることに気づく。そういえばこんな感覚は初めてだ。ほんのつい数日前のこと、子供が私の首を絞めるような行動をして、初めて私の行動を見ているような言葉を使って、私の反応を楽しんで。夢を見始めたのはずっと昔なのに、変わらない日々がこの感覚を夢では掴ませてくれなかったのかもしれない。
「……初めて」
「ん?」
「初めてあなたとこんな風に話したわ。いつもあなたが話しかけてくるばっかりだったの、覚えてる?最近になってようやくのことだけど」
私の言葉に、子供は笑顔を消した。いや、笑顔を消したというより、子供は待ち望んでいた物を見つけたように目を輝かせたのだ。これも初めてだった、子供が子供らしい感情を見せたのは。黒と白だけのこの世界では、まるで彼だけが生きているものらしく見える。見詰める私の視線に何を思ったのだろうか、子供は眼尻を下げて穏やかに笑う。
「……今日は夜が長い。折角だ、答えれる質問には答えてあげるよ。もっと違う質問があってここに来たんじゃないのかい?」