第三幕「花間の村と鳥の長」


「ふぁぁ……疲れました……」
「でも良かったよ、村が助かって」

 歩きながらのんびりと話しているのは、集団の先頭にいるユティーナと兄さんだ。あんまり慣れないことをしていたせいか、ユティーナは時々よろよろと足をふらつかせているのが後ろから見えた。全く知らなかった魔法の干渉を行った上に村中を走り回ったのだ、そうなっても仕方がない。一方兄さんは特に疲れた様子もなく……いつも通り戦っただけなので、本人からしてみればこれこそいつも通りの旅なのかもしれない。雲間が晴れてようやく昼間らしい光が指すようになった森、たった今自分たちが歩いてきた道を立ち止まって振り返る。ー休憩地でのオルゼさんの言葉にミンデルさんはこう答えた、上には報告しないからさっさと行け、と。そして、村の獣人達は全員エイブロとオルゼさん、村長さんの演技に気づいていたらしいということを教えてくれた。ミンデルさんは見事その作戦につられて村に残ったが、思い返して私たちを追ったのだとか。オルゼさんの願いは通り、フォブルドンの首都スクルトゥーラに連行される予定だった私たちは、こうしてアルストメリアの領地へと難なく入ることができた。
(「俺だって、お前たちのような良い人間を連れて行きたい訳じゃない。だから、お前たちと俺は会っていないことにしよう。次に会ったときが「初めまして」だ。いいな?」)
 ミンデルさんはそう言いきって、オルゼさんと共にわざわざ国境近くまで私たちを見送ってくれたのだったーオルゼさんやワーズ村長、グートさんやヘディンさん、そしてミンデルさん。どの人も色々な考えや行動、貫きたい思いがそれぞれにあるだけで、内面はとてもいい人ばかりだ。同じ人間、同じ獣人だったなら良い仲間になれただろう。それだけではない、獣人が人間を嫌うにはそれなりの理由があって、決して不条理なことをしてはいないように思える。旅立つ前まではろくでもないと思っていたのに、まったくそんなことはない。彼らは本当に、何も悪くないフロンティール村を焼いてしまうような、そんな人たちなのだろうか?そんなことを考えながらギルドの後ろから皆を見つめていると、ノウゼンさんが私と同じようになにやら考え込んでいるのが見えた。

「どうしたんですか、ノウゼンさん?」
「いや、フォブルドンとアルストメリアの違いってなんだろうな、と」
「え?王国か共和国かの、制度の違いじゃないんですか?」

 長い間ハイマート王国に住んでいて慣れすぎたせいか、「共和国」という制度がどういうものかは知らない。想像もつかないが、王がいない国ということなのだろうか。あとは……あとは、王国とほとんど変わらないのではないかと思う。しかし、ノウゼンさんの疑問は体制のことについてでは無かったらしく、それもそうだがと話を引き継いだ。

「住民はどちらも獣人。本当にただ国の体制の違いだけで別れることができるのか?」
「……言われてみればそうですね」

 オルゼさんから聞いた話だと、フォブルドンもアルストメリアも、最初はハイマート王国の領地だったらしい。ハイマートに対抗するために二国は立ち上がった、と彼は言っていた。だが元々ここら辺全てがハイマート王国の領地だっただけなら、わざわざ二国に分ける必要もない。何かしらの違いがあって、その違いを保つために二つの国が用意された……ということなんだろう。確かに、オルゼさんの話を聞いた現時点でもその違いはよくわからない。今のところアルストメリアの獣人といえば、真っ先にオルゼさんが思い浮かぶ。彼自体が特徴的な性格を持っていることを除けば、他の獣人と違うところはほとんどない。ミンデルさんやワーズ村長はフォブルドンの獣人のはずだが、私たちが会った人がいい人ばかりだったためにオルゼさんとの違いはよく分からない。

「エイブロは何か知っているか?」

 ノウゼンさんは少し前を行くエイブロに話を振る。情報屋というだけあって、彼の知っている情報の幅は広く大きい。それに期待して、ノウゼンさんはエイブロへと話しかけたようだ。先頭にいたユティーナと兄さんが話題に振り返り、呼び掛けられたエイブロと共に足を止める。だが期待は期待で終わったらしい、全員の足音が消えた沈黙の後エイブロはかしげていた首をさらに傾けて、

「調べたことはあったんですけど、全然分からなくて……今も分からず仕舞いです」

 記憶をたどるように目を閉じ小さくぼやいた。少しばかり沈黙を場に迎えて、聞こえるのは微かな風の音と木々と木の葉が揺れる音だけ。雲に遮られて気づかなかったが、もういつの間にやら夕方が近いのだろうか、木の葉の間から僅かに差す光は紅色と薄橙の色を含んでいる。エイブロが知らないことも、やっぱり多少はあるのだろう。珍しく歯切れの悪いエイブロの返答に、ノウゼンさんは少し驚いたような顔をして言葉を紡いだ。エイブロが答えを知らなかったことに驚いているのかと思ったが、そうではなかったと気づいたのは二人の会話を黙って聞いていてからだ。

「それは」
「規制されていました。多分ですけど」
「やはり。調べて出てこないって方がおかしい」
「俺もそう思いました。何人か調べた人はいると聞いたことがありますが、いい結果が返ってきた試しはなかったです」

 エイブロとのやり取りにノウゼンさんは一度大きく頷いて、指を自らの口元の下側へ当てた。ノウゼンさんらしく考えるには長めの時間を要して、ようやく口を開く。

「知られたくないから規制する。情報のやりとりではよくある話だな」
「……あれ?でも、それってなんかあるっていうことだよな?なかったら何にもしなくていいんだし」
「そういうことだ」

 二人の会話に入った兄さんの言葉に、エイブロとノウゼンさんが同時に頷き返す。兄さんにしては勘が鋭い。規制しなければいけないような事実がなければ、本来規制なんて邪魔なものはいらない。逆に、規制しているということは知られたくないことがあることに繋がっている可能性が高いというわけだ。歩き出したノウゼンさんに合わせて、皆も歩を進め始める。どうやら、今回の旅で私たちが見聞きできるものには限りがあるらしい。たかだか一回で全てを知れるわけがないのだか、調査で来ている以上できる限り私たちは情報を集めなければならない。情報規制していることが魔物発生と関わっていないことを願うばかりだが……むしろ真っ先に規制されていそうな内容であることに、今更ながらため息をついた。

「この旅でわかればいいが……まぁ無理だろうな」
「ていうか、今から行く村の方に聞いてみるのは?オルゼさんが言っていた鳥族の族長さん、いい人みたいだし」

 エイブロの呟きに質問をぶつけてみたがすぐに首を振られてしまった。言い返そうとしたがこちらを見る細い目に思わず言葉がつまり、一瞬だけ殺気に似た何かが見えた気がした。だがそれは本当にただ一瞬のことで、顔を背けたエイブロからはその気配が消える。何だろう、オルゼさんにつっかかったりワーズ村長に怒鳴ったり、彼は獣人に特別な感情を抱いているようにしか見えない。確かに彼はフロンティール村を焼かれたことに、憎しみを持ち合わせているかもしれない。けれどそれ以外の何か……もっともっと根底に何かありそうな気がする。

「獣人と人間、おんなじ扱いするかどうか分からないだろ」
「エイブロ……?」

 ギルドを作る際も似たようなことで揉めた。あの時は信じることができない、という理由だったはずだが、疑うことが彼の常なのだろうか。皆からの視線を全て無視するようにエイブロは進んでいった。その言葉に耳を塞いでいたいと言いたげである。そして、エイブロの様子をじっと見ていたのは私達だけじゃなかった。相変わらず疑っている人間がまだ、ここにはもう一人いる。ノウゼンさんはエイブロに続くように、鋭い目付きを保ったまま私達と歩き出した。その時、ユティーナだけが泣きそうな顔をしていたことに気づいたのは、私だけだったかもしれない。


 オルゼさんから聞いた地図にない道を辿って、朱色が空を染め始めた夕方の頃だった。森はまだまだ目の前にも続き、振り返っても同じ光景が見えるだけである。これといって目印のようなものが見えないということが、かえって私たちの不安を煽っている。どれくらい歩いたのだろうか、エイブロは自分達の現在地を地図で確認しながら方向を確かめていた。

「んー……もうちょっとしたらアウディアっていう村が見えてくるはずだ。着くのは夕方終わりだろう。今日村に泊めてもらえれば、明日にはフェアリーレンへ行ける」
「やっと目的地か……遠回りしちゃったね」

 元々鉄の森ではアルストメリア王国の王都・フェアリーレンを目的地としていた。フォブルドン共和国を後にすることで、なるべく捕まるリスクを回避しようというエイブロからの提案あってのことだ。だが、鉄の森の先で軍と鉢合わせしそうになったことが、結局遠回りの原因になったのだ。思えばあそこでアルストメリア王国にそのままはいれば、オルゼさんやワーズ村長、グートさんやヘディンさん、それにミンデルさんたちにも会うことはなかっただろう。そういえば、今朝からだいぶ動いているせいか足が少ししびれてきた。魔法をそんなに使っていない代わりに、前線で兄さんたちに混じり槍を振り回していたからだと思う。だが、これといって歩けない訳でもないため、休憩は申請しない。どうせもう少しすればそのアウディアという村につけるのだ、ここで休むよりも村で休んだ方が絶対良いに決まっている。
 先頭にいたエイブロの腕を引き、ノウゼンさんは前へ目を見張らす。兄さんがいつもと違うノウゼンさんの行動に何か感じ取ったらしく、周りを見渡す。警戒した私たちの前で樹木がさざめき、吹き抜けたそよ風が冷たくなった気がした、その時だった。

「たすけてっ!!」
「な、何!?」

 耳をつんざく悲鳴が、森の奥から私たちの方へと走り抜けた。言葉にエイブロが短剣をベルトバッグから取りだし、声が聞こえた方を警戒した。ノウゼンさんとユティーナはそれぞれの武器に手を添え、いつでも魔法の詠唱が出来るよう備えているようだ。兄さんが剣の柄を握って、周りをもう一度見渡している。戦闘によく慣れたメンバーが今から起きる出来事の予想をたて、それが一致していることをお互いが理解していた。もちろんそれはただの予想であって、右側からガサッという音と共に草むらから何かが滑り落ちてくることは、さすがに誰も予想できていなかった。青いフードを被ったその小さな人影は服の周りに付いた木の葉や枝を払おうとせず、驚いた私たちの間を抜けて近くにいたユティーナに飛び付いた。

「え、こ、子ども?」
「たすけてっ、追われてるの!!」

 子供はユティーナのマントにすがり付いて 、一向に離れようとしない。突然の出来事にメンバー全員が顔を見渡したが、直後、私たちが元々予想していた出来事が襲来した。子供に遅れて、灰色の巨体が木々の合間をぬってやってくる。地面から浮いた体、人型であるはずなのに人ではないその姿、幾度となく戦った悪魔だ。

「この子、狙われているんですか!?」
「分からん、ただあいつだけは今、確実に倒さなければいけないということだ!」

 ノウゼンさんが私の言葉に焦った声で返事する。それもそのはず、魔物の攻撃の矛先は明らかに子供を含めた私たちへと向かっていた。ここで倒さなければ、向こうが諦めない限り私たちを追いかけてくるような気もする。特に、ユティーナに掴まっている子供を追いかけていたこともあって、今逃げても追いかけられる可能性は充分ある。

「ユティーナ、エイブロ!その子をお願い!!」

 後ろにいたユティーナとエイブロに子どもをそのまま預け、旋回し魔物の後ろ側を陣取る。見たところ一匹だけのようだし、ちゃんと周りを囲んで魔法で攻めれば確実に倒せる。木々が邪魔で思いきって槍を振ることはできないため、私は魔法に徹するしかない。その時、ガッと何かに足を引っかけて急に体制を崩す。下を見れば木の根っこが盛り上がった部分にブーツが引っ掛かっていて、慌ててブーツを引っ込めて体勢を立て直し、頭を上げる。前にいる悪魔は、良かった、気づいていないようだ。次から気を付けなければ、と朝にも同じようなことを考えたことを思い出して自嘲した。そして、その考えが馬鹿だったと気づいたのはすぐ後だ。

「ティリス!後ろにもう一匹いる!!」
「あぶねぇ!!」

 兄さんとエイブロの悲鳴じみた声に槍を持ったまま後ろを振り返る。自分に落ちた影、それは相手が自分よりも背が高く巨体であることの、何よりの証拠。灰色のその体は、今さっき自分の目の前にいた悪魔と全く同じで。認識がうまく追い付かない、今私は、新たな魔物とたった数歩の距離なのか。
(「なんでも次があると思わない方がいい」)
 そう教えてくれたのは誰だったか、そう注意してくれたのは誰だったか。鋭くとがった爪が襲いかかってくるのを、腕でかばうこともせずにその誰かの言葉を思い出した。悲鳴が反響する、遠くに聞こえる。そして、視界は鮮やかな黄色の光で染められた。

「ー輝かしき者、聖者の魂よ。聖なる灯火を掲げ汝は進み行く。その手を愚者へ差しのべたまえ―【光の刃】」
「え…?」

 短い魔法の詠唱、そして、自分のもう一つの属性と同じ魔法属性のもの。空から落ちるように数十本の小さな光が悪魔の体へつき刺さり、地面へとぬい付けた。悪魔の体は黄色の光がおびただしく纏い、みるみるうちに崩れていく。倒された悪魔は虚ろな目に何かを写し、目が見つめ続けるその存在に私も気がついて後ろを振り返る。木々の間、そこにいたのは濃緑のコートを着た子ども。ほんの僅かな時間その子供を見ただけで、首にないはずの痛みを感じた。見間違えるはずがない、見間違えるものか。いつから見たかも分からないほどの夢、その夢に毎回決まったように出ては意味不明な会話をする子供。私がずっと夜毎に悩まされてきた存在なのだ。しかし、子供はいつものようにふっと笑って、森の中へ優雅に歩いていった。立とうとした足は崩れて、その場に訳もわからず座り込んだことだけ私には分かった。恐怖したのは悪魔が来たときだったのに、今ではあの夢の子供の方がよっぽど恐怖の対象だと思うようになった。

「エイブロ、兄さん…」

 二人分の声と足音に、自分がどれほど安堵したか分からない。それでも一つ、私は仲間がいて本当に良かったと思う。

「良かった…無事だった…」

二人の手の暖かさは、知らず知らず冷えきった私の手を包んでくれた。


「ティリスさん!」

 兄さんとエイブロに付き添われて元の場所に戻れば、ユティーナが子供を抱えて走ってくる。後ろからはノウゼンさんも早足で近づいてきていて、私の顔を見ると二人は同時にほっと一息ついた。心配、させてしまったらしい。一生の中で一番命の危険があったかもしれない、となんとなく思い、皆のお陰で自分がちゃんと生きていることが実感できた気がする。

「大丈夫そうだな……ヤバイと思ったぞ、今回は」
「心配掛けてごめんなさい。君も大丈夫?」

 息をついたノウゼンさんに頭を下げ、ユティーナに抱かれる子供にも目線を合わせて質問する。フードを被っていたのでさっきは分からなかったが、よく見ればワーズ村長と同じ、ふわふわとした獣の耳があった。どうやら狐の子供らしく、幼さゆえの可愛らしい笑顔で応えてくれた。

「うん。助けてくれてありがとう、人間のおねぇちゃん達。おねえちゃん、大丈夫だった?」

 頭を撫でるとその子は目を細めて気持ち良さそうに顔を綻ばせた。視界の端で何か動いた気がして目線を下ろせば、子供の尻尾と思われるかたまりが私とユティーナの間で揺れている。私が手を離すと、子供はユティーナから身軽そうにとん、と降りて地に足をつけた。かなり身長も小さいし、獣人の中でも幼い方なのだろう。ふと、ノウゼンさんが私をじっと見ていることに気づき、故意に目を合わせて言葉を待ってみた。

「……それにしても、あの状態でよく魔法が詠唱できたな」
「え、いえあれは…」
「追い詰められていたにしてはいい威力だった。光魔法はこの中ではお前しか使えないからな。期待している」

 どうやらものすごい勘違いをされている、ということは分かった。森の奥にいた本当の魔法発動の主であるあの子供は、他のメンバーには見えていなかったらしい。あの魔法は初級魔法の一種で、私も回数こそ少ないが使ったことがある。そういえば【光の刃】は上から降ってくる魔法のため、他の魔法のように指向性が横ではない。だからノウゼンさんは、私が発動したのだと勘違いしているのかもしれない。

「ええと」
「あの場面でよく魔法詠唱できたよな、すげぇ。俺には無理だわ」

 兄さんの言葉はエイブロとユティーナの首を縦に振らせて、余計にもどかしい。しかし今ここで説明するには少し勇気が足りないことと、そんな悩む暇がほとんど与えられなかったこともあって、私の話題は止まった。兄さんたちの視線が一人に注がれていて、無意識に私も目をその人に向けていたからだ。いつの間にか近寄ったエイブロはしゃがんで、狐の子供へにっこりと笑いかける。

「アウディアの子か?」
「うん!アウディアに用事?」
「まあ、そんな感じかな。案内してもらえたりする?」
「いいよ!」

 無邪気に笑った子供を見て、ため息をつきそうになった。小さな子供って、どうしてこうも疑うことを知らないんだろう。子供の笑顔とは対照的なエイブロの邪悪な笑みを、狐の子供以外はしっかりと見ていた。

 既にアウディアの近くまで来ていたのだろうか、アウディアにはそんなに時間をかけることなくたどり着くことができた。もっと遠くまで森が続いているように思えたのに、実際の距離はほとんど無かったらしい。疲れもたまって感覚が鈍ってきているのかもしれない。開けた木々の合間で、狐の子供は急に足を止めて振り返った。

「おねえちゃんたち、ここがアウディアだよ!」

 村の紹介を、全員が聞くのも忘れてその場に立ち尽くした。ここまでの道のりは長く足は痺れてたが、そうでなくてもここで立ち止まっただろう。ー村の家屋の周り、田畑の周り、もはや村だと思われるその部分全て。それらが全てが、色鮮やかな花に満たされていた。緩やかな風に舞う花びらが、花嵐と呼ぶにふさわしいほど美しく村の景色を彩る。坂道を降りていけばハイマートでは見たことがないほど広い花畑がある。
その中を子供は小走りで駆け抜けて、私たちもゆっくりと周りを見渡しながら進むことになった。赤色、黄色、白色、桃色、橙色、青色、思い付きそうな色の花は大体揃っている。特に目立つのは唯一寒色系である青い花で、ユティーナに聞くとそれはオクシペタルムという花らしい。前を向けば子供がいつの間にか花束をこしらえていて、大きく空いた距離に慌てて追いかけると、花畑の向こう側から誰かの声がした。

「お帰り、ピギ。少し遅かったじゃないか」

 とても優しい女性の声だ。まるで布地のように滑らかなその声は、風に乗って純粋な白い羽と共に私たちを導く。
「あ、ライラ!!」
 私たちの前を走っていた狐の子供が、声の方へと方向を変えて走る。花畑の中の入り組んだ道を抜けていけば、その人はノウゼンさんと同じ銀の髪をかぜに揺らし、花畑の間で立っていた。舞った花びらの中で、ライラと呼ばれた女性は強い存在感を放つ。短いマントに袖のないゆったりとした服。腕のほとんどを覆い隠す黒い手袋に、動きやすそうな簡易のズボンと革のブーツ。そして何より、オルゼさんの黒い羽根とは対照的な、朝を思わせるほどの純白の羽根。伸ばしていた羽根をたたんで、ライラさんは狐の子供・ピギをその腕の中へと抱いた。ただ、視線だけは私たちへ向けたまま。

「…そちらの人間は何の用かな?見たことの無い顔ぶれだが」
「ま、待ってライラ!この人たちは僕を助けてくれたの!!」

 ピギがライラさんの顔を見て、慌てて話を遮る。いきなり口を挟んできたことに驚いたのだろうか、ライラさんは腕の中に抱いたピギの様子を訝しみ尋ねる。

「助けられた?」
「魔物が来てね、僕怖くて逃げて、そうしたらこのおねぇちゃん達が、なんかすごくて、」
「もういい、話は何となくわかった」

 ピギの捲し立てるような説明に、ライラさんは途中で言葉を挟んで打ち切った。今ので分かるのかと考えたが、思ったより良い方向で解釈してくれたようだ。ライラさんの視線からは疑いの色がなくなり、彼女はほんの少しだがまなじりを下げる。

「人間、お前たちの代表は誰だ?」

 すかさずエイブロとノウゼンさんが兄さんの背中を押し、兄さんも慣れたように答える。ライラさんは一度頷くと、抱いていたピギを下ろして、右手を左胸に添えて小さくお辞儀する。丁寧な挨拶に緊張が背中を走り抜けた気がした。エイブロや先生たち、フィルバートさんも使っていたこの挨拶は、今では使う人が少ない正式な貴族・騎士たちの挨拶だ。

「アウディア村長、そして鳥族の長のライラという」
「ギルド・インペグノのギルド長、ガディーヴィと言います。後ろは、同じギルドのメンバーになります」

 鳥族の長、ときいて思わずライラさんを二度見した。オルゼさんが言っていた族長さん、とはこの人みたいだが……私が族長と聞いて想像していた人よりも若かった。なるほど、確かにまともに見えるが。兄さんもならって挨拶しおわると、ライラさんは表情を何故か固まらせた。
「インペグノ…君たちが?」
「え?はい」

 兄さんが短く返事すると、ライラさんは近づいてきて兄さんの手を握った。その表情はみるみるうちに喜色を帯びていき、次第には満面の笑みへと変化した。突然の出来事に私たちはもちろん、傍にいたピギも驚きを見せた。いったい何が、誰かがそう問うよりも早くライラさんは言葉にする。

「ギルド・インペグノとは君たちのことか!話は聞いている、たまたま寄ったピオーヴェレの村を救ってくれたそうじゃないか!」

 ブンブンと音が聞こえてくるほど手を振るライラさんに、兄さんは戸惑いながら何とか笑いを保っている。つい今朝の出来事であるにも関わらず、ライラさんがその話を知っているとは。

「何故」
「フォブルドンにもオルゼというものなど鳥族はいる。彼等が飛んできて、事のあらましを説明してくれたのだ。『アルストメリアに来たがっているインペグノというギルドがいて、その人たちが村を助けてくれた』とな」
「…オルゼさん」

 先程別れたばかりだと言うのに、その名前がなんだか懐かしく感じる。彼に出会わなければ、ワーズ村長さんたちには一生誤解され続けていたのかもしれない。いや、彼には獣人の過去も教えてもらったし、一緒に共闘して魔物を倒したりして獣人との繋がりの一つとなってくれた。それだけじゃない、たくさん教えてもらって、たくさん助けてもらって、何かともらってばっかりだった気すらする。そして黒髪の青年はただ自分の信念を貫き、尊敬する人に牙を向けた。

「オルゼに会ったのか。しばらくあっていないが……元気そうだったか?」
「は、はい。魔物退治を一緒にしてくださって」
「変わらないな、アイツは。そうか…つまり、君たちには二回も助けてもらったということか。礼を言わさせてくれ。ピギを、ピオーヴェレの村を救ってくれてありがとう」

 ほとんど成り行きだったからお礼を言われるほどのことではないと、私は言おうとした。その直後だった。目の前にいたライラさんが、深く頭を下げたのは。ピギもそれにならって頭を下げるのを見て、思わず口を挟んでしまう。

「あ、頭を上げてください!私たちはただ、見捨てることができなかっただけです」
「そう言い切れることは素晴らしいと思う。お前たちが人間で私たちが獣人であるのに…」
「そんなこと、関係ありません!」

 思わずそう叫ぶと、今度はライラさんが口を開いたままこちらをみた。何かおかしなことを言ってしまったのだろうか、助けを求めるつもりで周りを見れば、メンバーも同じように私を見つめていた。

「え、え。なに?」
「いや……本心からなら別にいい。ティリスはそういうやつだったなと」
「ど、どういう意味よエイブロ」

 目をそらしたエイブロに言い返すと、ライラさんからふふっと笑う声が聞こえた。何に皆が反応したかは分からないが、悪い言葉を言ってしまったのでは無さそうなのであとで聞くことにする。ライラさんは口元に指を当てて、笑顔を消し考えるそぶりを見せる。すぐにその指は外されて、また笑顔が上げた顔に戻っていた。

「…気に入った。今日はここに泊っていくといい。ついででいい、話を聞かさせてくれ。何かお前たちの力になれることがあったらぜひ協力したい」

 にっと笑うライラさんは、何かに気づいたように一瞬驚いた顔をして、私たちの傍を通りすぎていく。そして、集団の最後尾にいた赤色の髪の横で足を止めた。その目は今までの表情からは考えられないほど鋭く、まるで彼が考えていることを見抜いているようだ。

「赤髪の少年。心配せずとも寝込みを襲うような連中はこの村にいない」
「…どうだか」
 エイブロの小さな呟きは、ライラさんの目を閉じさせるだけに終わった。深い緑の瞳がそらされていくにつれて、エイブロの表情は静かに黒を帯びていく。ライラさんは黙ったままなエイブロの肩にそっと手を当て、前を向いたまま話す。

「獣人はな、単純な生き物なんだ。助けられた後に警戒する、なんて器用なまねはできないんだよ。ーピギ!」
「はーい!」
「私の家にこの人たちを案内しておくれ。私は食料を調達してくる」

 元気よく答えたピギに頷いてライラさんは地面を強く蹴った。ふわりと持ち上がった体は、人間と違って降りてはこない。夕焼けの強い赤の光が差して、ライラさんの表情は地上からまったく伺えない……が、きっと笑顔なのだろう。

「あ、私たちも…」
「君たちは構わない。客人をもてなすことくらいしか出来ないからな、私たちは」

 ライラさんはそういうと、羽根を大きく広げて飛び立ってしまった。白い羽が空に舞って、花びらと混じっていつしか消えていく。もう夕暮れに近いのに、行って大丈夫なのだろうかと思ったのだが。じゃあいこう!あっちだよ、おねぇちゃんたち!妙に暗い雰囲気の中では、ピギの笑顔が無性に輝いて見えた。

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