第四幕「喪失」
その夢の最初がいつだったか、私は覚えていない。最初がどんな夢だったかさえ、正確にはほとんど覚えていない。とにかく子供が出てくること、景色が暗いこと、私達ーー私と子ども以外には誰もいないこと。毎回名前を呼ばれて、相手の名前がわからなくて、またねと言われて。それだけが毎回変わらない。それだけしか、私は覚えていなかった。
けれどここ最近……このたった数日の間で、この不可思議な夢は大きな変化を見せている。透き通った水に色を落としたように、夢そのものが変化していく。私の言葉を待ってくれている目の前の子どもの、その瞳の色を知ったあの日から私の夢は一つの知識の場となっている。今まで夢の時間をこんなにも長く感じたことはなく、それは夢の時間すら変わってきている証拠にもなっていた。夢は、いつからこんなにもはっきりしているものだったのだろうか。その答えを知る主はきっと、目の前にいる子どもだとは分かっていた。それなのに……そう、聞きたいことは山ほどあったのに、思い浮かんだものはつい昨日のことだった。
「……ピオーヴェレのこと、教えて」
口から出した声が思った以上に小さくて、言い直そうとしたその時。子どもの手がひらりと私の方へ突き出されていて、言わなくて良いという合図に見える。瞬きの向こう、子どもは瞳をまっすぐ私へと向けた。まるでこの世界の支配者と言わんばかりの立ち振舞いと気配。それに圧倒されているのは間違いなく私で、子どもはわざとらしく笑ってみせた。
「今回のピオーヴェレの件には何にも関わってない」
まともな答えを今日は返してくれる、と考えていたのだが思い直すしか無いらしい。引っ掛かる疑問をぶつける準備が心の中でまとまっていく。何にも関わっていない、なんてことはないはずだ。子どもは予言した、あの日に何か起きると。ああなったのはそのせいだとは言わないが、少なくとも何らかの形で関わっていた可能性だってある。そして関わっていたとしたら。
「じゃあどうして何か起きると分かったの。皆と村が水に沈んじゃうところだったのよ!」
「絶対にないね」
「なっ」
「君たちが関わろうが関わらなかろうが、あの村は沈まなかった。今回関わると決めたのは君たちの方だよ」
あなたならもしかして出来事そのものを阻止できたのではないか、そう考えるのは卑怯だろうか。沈まなかった、という事実と子どもの答えが混ざりあって、私らしくない想像が膨らんでいく。言葉を紡がなくなった子どもはコートを翻して、空を見上げる。つられて上に目をそらしても、黒い空に灰色の雲、それ以外に天上には何もない。子どもは何を見つめていたのだろうか、気がつけば視線は私へと注がれていて、答えを待っている。なんとかひねり出した言葉は、ぼやくようなものになってしまった。
「……手だてがあったっていうの?」
「あったよ。もっとも、それを君に教える気はないけど」
そう言った子供はふいと顔を背けて、それ以上の話を態度で断った。まるで打てば打った瞬間のみ鳴る小さな金の鈴、自分から言うつもりはないらしい。これでは、きっと真相にはたどり着けないまま終わってしまうだろう。私の仲間のようにもっと、ズバズバと言う勇気やいきなり心臓を突くような質問がなければ、この子どもから大事なことを聞くことはできない。そして、何より初めて質問に答えてくれたこともあって、今のうちに聞きたいことが沢山あった。本人が答える様子もないし、この話題は諦めざるをえない。
「わかった、じゃあこの話は終わり。次は」
「誰が複数の質問に答えると言った?話がオシマイなら、質問もオシマイ」
今度はコートではなく踵を翻して、子どもは小さな背を向けた。不意にでた「オシマイ」という単語の意味を理解した頃には、子どもは自分から離れてどんどん遠くへと歩いていた。追いかけて、気づけば叫んでいた。
「あ、あなただって一つだけなんて言わなかったじゃない!」
「言ってないけど、それがどうかしたの」
からかわれている、のだろうか。それとも子どもは最初からこうなることが分かっていて、質問に答えてくれただけなのか。どちらにせよ腹が立ったわけで、まだ止まらない子どもの歩みに合わせず白い地面を走る。いつの間にこんなにも空いていたのだろうか、近くて遠いこの距離がもどかしい。中々追い付けなくて、地面に足を縺れさせる度に痛みが走る気がして、夢なのか現実なのか全く分からない。そんなことをしている間に子どもは遠くへ、遠くへ。とにかくどこまでも続く世界を、子どもと私は近づいたり離れたりしながら進んでいた。手を伸ばしてようやく背中を掴める距離になると、少年は唐突に振り返る。
「あぁ、そうだ。この間君が呼んでくれた名前、覚えてる?」
踏み出した足を、白の地面に釘付けされたように立ち止めた。自分でも何をしたのか、何が起きているのか理解できていない。手を、足を、頭を、子どもの質問がただひたすらに身体全体を駆け巡る。答えは分かりきっていた。答えは一つだった。それなのに、息を呑んで何か答えなければと思ったのに、覚えていないとぱっと言えなくて固まる。予想していたのか、そんな私の様子を見て子どもは意地悪く笑った。
「やっぱり覚えてないんだね。偶然、ってやつかな?……んー、まだまだ時間はかかりそうだね。じゃあまた今度」
早口で言い切ると、子どもとその周りが緩やかに黒へと染まっていく。景色の変化にようやく足が動いて、夢の終わりが近づいていると頭の端で理解できたような気がした。もっと時間が欲しかった、と自分でも珍しく思っている。夢の終わりを残念と思うのは初めてで、でもいつかまた会えると信じている自分がいて。また今度、という言葉が胸に残っていて少し安心する。その時、不意に掴まれた腕に驚いたのも束の間、子どもの方へと引っ張られて体勢を崩す。痺れた足に痛みがまた伝わって、文句を言ってしまう。
「あ、ちょっ、何」
正確には「何をするの」と言いたかった。だが異様に近づいた顔に、思わず口と瞼を閉じてしまって続けることができなかったのだ。それこそ本当に何をするの、と言っても良いのではないかというほど。何故そんなことを子どもがしたのかは全く分からなかったが、
「お仲間を大事にね、ティリス。君は僕と一緒で不幸を招くから」
耳元で囁かれた声は意外にも優しかった。思わず開いた目の先には赤紫の目があっても、不思議と怖いとは思わない。そして、言葉の意味と意図を、聞くことは叶わない。直後柔らかく突き飛ばされた身体が宙に浮き、視界の端で子どもの姿がゆらり、闇に飲まれていくのをこの目で見た。薄れた意識で手を伸ばして、無意識の海に身体が浸かっていく。そして次に目を瞬いたそこは、まだ夜明けの空が見える天窓、そして私の身体は木製のベッドの上だった。
まだ暗く足元が見えづらい階段をそっと降り、部屋に誰もいないことを確認する。そして、暗がりに慣れ始めた目を凝らし、家の外へとつながる扉に手をかける。――あの夢を見るたび、私の朝は大抵早いものとなっている。夢に起こされているような感覚でもあり、それに素直に従って二度寝しないように心がけている。初めのうちは嫌な夢を振り払うために起きて朝を楽しんでいたのだが、回数を重ねるとそれはちょっとした趣味のようになった。ハイマートとは違い、少し暖かな気候にあるこの村の夜明け。一体どんなものだろうかと胸を踊らせ、扉の取っ手をゆっくり捻る。
扉がぎしりと開いて、暗がりに白とも黒ともつかぬ光が部屋へと差し込む。足を進めて一歩外に出れば、部屋にいないことを確認したはずの家主がそこにいた。扉が閉まる音に振り返ったその人に、足を止めずにまだ早い朝の挨拶をする。
「ライラさん、おはようござ……います?」
ようやく見慣れた白い羽のその向こう、黒い人影を見つけて言葉がどもる。一瞬あの黒鷹かと思ったが、彼の夜を映した羽は見当たらない。何より、暗所で光る瞳の色が同じ黒なのに違うような気がする。白い羽を遊ばせるように羽ばたかせ、ライラさんは私の言葉にそのまま答えた。
「おはよう」
「珍しい、人間じゃねぇか」
人影はライラさんの羽から顔を覗かせ、視線を私へと合わせた。夜明け前の暗がりではその人影を判別することは出来ないが、初めて会う人であることは間違いない。私たちのことを人間とそのまま言う言い方はこちらで当たり前なのか、その人はあまり珍しくも思ってなさげに呟く。夜明け前の光がさらに差し込み、逆光によって人影を濃い闇へと変化していった。得たいの知れないもののようで、少し違和感と怖さを感じて足を引きかける。
「そんなに珍しくもないがな」
唐突にライラさんはそういうと、手に持っていたランタンへ魔法だろうか、赤い小さな火を点した。人影は闇から炎の灯りに浮かび上がって、突然現れた光に目を細めた。黒い髪、尖った耳に大きさの違う耳飾り、獣人特有らしい縦長の瞳孔。そして見た覚えのある赤い、赤い袖無しの長いコート。ふわりとコートを揺らして私へと近づき、人影は徐に手を差し出した。
「俺んところと一緒にするなよ。……はじめましてお嬢ちゃん。ギュンツだ」
「ギルド・インペグノ、ティリスと言います。はじめまして!」
差し出された手に遅れて手を重ねれば、向こうからぎゅっ、と握られる。赤のコートを確認したが、やはりピオーヴェレで見たミンデルさんと同じものだ。私の目を探るように見て、ギュンツさんはにっと笑った。
「ミンデルが会えなかったというギルドか。まさかこんなところで俺が先に会うとはな」
一瞬、どきりとした心を何とか押さえつける。狼の一人であるミンデルさんとは知り合い、らしい……同じようなコートを着ているのだから当然か。だがギュンツさんの「会えなかった」という言葉にふと思い出す。ミンデルさんが、フォブルドン共和国とアルストメリア王国の境界線で言ってくれた言葉を。今ここでしくじればフォローしてくれる人は、仲間は誰もいない。余計なことを言わないように、極めて冷静に、ゆっくりと話す。
「ミンデルさん……ですか?」
「お前達と入れ違いにピオーヴェレの村に行った、狼の一人さ。……その反応を見るに、会っていないのは本当みたいだな」
「ミンデルが嘘をつくはずがないだろう、とさっきから言っているじゃないか」
「お前が知らないだけであいつはたまに嘘をつくぞ?しかも感情に揺れやすい、優しすぎる」
「それがお前の望んだ部下だろう」
「何だ、今日はやけにさすじゃないか。お前もそこの人間に感情を揺らしたか?」
何とか乗り切った、とギュンツさんの手が離れてからようやく思った。まだ続いているギュンツさんとライラさんが交互に話す言葉は、慣れ親しんだ者同士の会話に違いはない。話している内容はかなり厳しいものだが、それでも楽しそうだと感じる。しかも何故だろうか、二人の言葉には耳を傾けたくなるような、牽かれる何かがある。
言い争いをひとしきり済ませてから、ギュンツさんはコートをわざとらしく翻す。そして、フードを下ろして口元をきゅっと上げた。
「さて、夜も明けかけだし……帰るか。あんまり疑っちまうと俺の評価が下がりそうだ」
「もう下がっている」
「ミンデルに会ってないのならそれでいいさ」
言わないからさっさと行け、というミンデルさんの言葉が懐かしい。あれは、フォブルドンの国に対しては報告しないということ、そして同時に私たちを庇ってくれているという何よりの証拠だった。今はもうアルストメリア王国内の領地に入っているため問題ではないものの、彼のことは気になる。もしばれたら、私たちはともかくとして、ミンデルさんはどうなってしまうのだろうか。少なくともやるべきことをしなかったのだから……そこまで考えたところで、ライラさんの手がそっと私の肩へ置かれた。
「ギュンツ、この子のことだが」
「はいはい。心配しなくても手を出したりしないし、もちろん報告もしない。そんなことをしたら俺が姫さんに怒られるからな」
元から答えを用意していたのだろう、ギュンツさんはフードの中の目を再び私へと向ける。私と目があった直後、そらした目に愁いと諦めが見えて不思議な瞳の色になっていた。聞いても答えてくれなさそうなところは、まるであの夢の子どものようだ。黙ってギュンツさんの目を見つめていると、急にくっくっ、とギュンツさんは笑いコートのポケットに手を突っ込み踵を返した。
「面白い嬢ちゃんだ。そういうこった。じゃあな、また会おうぜティリスちゃん」
「え、あ、はい」
何が面白かったのか、とはさすがに聞くことはできなかった。赤いコートを宙に舞わせながら、ギュンツさんは光へと背を向けて私たちから離れる。軽やかな足取りで暗い森へと消えていくギュンツさん、その後ろ姿を見ながらライラさんは呟いた。
「ちなみに、今見たことは誰にも言うなよ」
「へ?」
「あれでも、狼族の族長様だ」
「ぞ、族長っ?!さっきの人ですか!?」
「声がでかい」
口元を指で押さえられながら小声で指摘されて、思わずうぐっと詰まってしまう。どうやらミンデルさんの上司……いや、上司という呼び方で良いのか分からないが、仕えている人だったらしい。何となく二人の言葉に牽かれた理由がわかるような気がする。いやそれよりも……そんな狼の族長が、夜明け前にわざわざ別の村の村長をしている、鳥の族長を訪ねる。それは傍目から見れば。私の巡る思案をライラさんは簡単に取り違えた。
「珍しいか?鳥と狼が話しているのは」
「い、いえ。その……ミンデルさんとオルゼさんも話していましたし、仲が良いのかと。それに」
「なんだ」
黒い髪のギュンツさん、白銀の髪のライラさん。並べばやはり対照的で美しく、今が夜明けではなく昼間に二人を見たなら皆こう言うのではないだろうか。
「お似合いだなぁ、と」
突如振り返ったライラさんの表情に驚き、調子に乗りすぎたと自分ですぐさま後悔した。黒に赤が良く映えるギュンツさんと白銀に青が良く似合うライラさん、それぞれ単体だけでも綺麗で格好良くて、美しいとは思う。夜明けで見るのは勿体無いと思うくらいには。だが、さすがに本人が嫌がっているのが目に見えて分かったので、慌てて弁明する。
「え、いやほら!ライラさん白ですし、さっきの人黒じゃないですか!なんかこう」
「あれと恋沙汰にはなりたくないのだが。それならオルゼの方がいい」
「オルゼさん、ですか?」
突然出た名前を反芻させれば、こくりとライラさんは頷いた。先程のギュンツさんと同じ黒をもつ彼を思い出して、そう言えばあの黒も綺麗だと思う。もしかして、と続けようとした私は、直後見たライラさんの表情を見て言葉を紡がなかった。ライラさんは楽しそうな笑顔で、でも空を見上げた瞳は強く愁いを帯びて目を離してくれない。
「あいつとは、300年来の付き合いがある。私たちが奴隷として捕まった時ですらその場で一緒にいたんだ。これこそ運命、とかいうやつだろう?」
ライラさんの答えに、質問に戸惑う。その疑問に答えてあげたかったし、実際には答えることができる状態ではあった。でも、はいともいいえとも言えず、自らの首をいずこかへ振ることすらできなかった。そうさせたのは、そんな運命を作ってしまったのは。黙りこんだ私の意思を、今度は取り違えずにライラさんは察したらしい。
「……すまない、どうにも忘れてしまうんだ。こうして村を訪れる旅人も人間だということを。お前たちを責めているつもりは」
ライラさんの言葉を、手を差し出すことで止めた。それ以上聞けば、私一人で聞いてはいけない言葉を聞いてしまいそうで怖かった。だから、話を遮ってしまったことにすみません、と小さく謝ってから言葉を継ぎ足す。
「機会があれば、沢山お話を聞かさせてください。前のことも、これからのことも。私は、全部受け止めれます。聞いたから、どうこうはできないんですけど、もっと皆さんのことが聞きたいです」
「ティリス……」
「今はゆっくりできないので、お話はあまり伺えません。だから次でいいです。次を作りましょう。約束です」
勝手にこんなこと、と言われれば、きっと何とも言い返せない。けれど私は沢山のことを知っていて、こちらに来てからも様々なことを見聞きした。フォブルドン共和国とアルストメリア王国、この二国が敵国であることに間違いはないのかもしれない。だけど、その国の人が全員私たちを恨んでいる訳じゃない。恨んでいる人はいる、私たちよりも前に生きていた人間に沢山のものを、大切な人を奪われた人もいる。だけど、だけどそれでも。私たちよりも単純で、複雑な絆だと分かった。分かったのなら分かったなりに答えてあげたい、例え他の誰かに反対されたとしても。
お先です、と呟いてライラさんの横を通りすぎ、暗い家の中へと入る。後ろから昇る太陽の光に、確かな暖かさを自分の肌と舞った羽から感じながら。
あまり長居はできない、と最初に言ったのはノウゼンさんだった。調査が目的であり、次の目的地がはっきりした以上ここにはいられない、らしい。実を言えば昨夜のライラさんの話が聞けたことで、調査の目的は半分達することができたのだ。あとはアルストメリアの姫に会い、クラベスという人間に会って話を聞いて終わり。もちろんナヴィリオ将軍に話を聞ければもっといいのだろうが、肝心なナヴィリオ将軍はフォブルドンの人間だということが判明している。あまり危険な橋は渡らないほうがいいと、今朝皆の意見が一致した。ギスギスした雰囲気でも話はまとまっていくのだから、こんなところで団結力を見せなくてもと思ったことは内緒だ。
「もういくのか」
「はい。……その、なるべく早く帰る方がいいと」
目を擦るピギを横に控えて、ライラさんはそう言った。ライラさんも私たちの意見には同意を示してくれたが、やはり急に旅立つとなれば寂しがってくれるらしい。泊めてもらった好意にはとても感謝しなければならないのだが、時間がたくさんあるわけでもない。それに、私たちは人間。対して、いくら人間を受け入れてくれるとしてもここは獣人の国。その事情はライラさんだって分かってくれていて、無理に引き留めようとはしなかった。
「……確かに、こちらでいるには厳しいところもあるからな。また寄ってくれ。いつでもいい」
「約束は必ず果たします。それまでどうか、お元気で」
ライラさんが差し出した手を何度も握って、いつか叶うと信じている再会の約束を誓う。見送りはいいので、と言い残して5人揃って村の入り口を目指し、なおも着いて来ようとしたピギを止めるライラさんへ、深く頭を下げたのだった。
そして、村の入り口から出てすぐに川沿いへと出た頃だった。朝にしては暖かすぎないだろうかと思い、羽織ったマントを脱ぐか脱がないか悩んでいたちょうどそんなとき。エイブロが橋をすぐに見つけ、向こう岸へと一人渡った後に声をかけてくる。
「この川を渡って、森を抜けたらすぐにフェアリーレンだ」
「なんとか今日中に着きたいねー」
「森で迷わなければ夕方には着くさ」
私の声に律儀に答え、エイブロは手招きして橋を渡るように案内した。ユティーナ、私、兄さんと渡り、最後にノウゼンさんが渡りきるとエイブロは一人頷いて、そのまま川沿いに歩き始める。川を見るとピオーヴェレの村の川を思い出して、同時にオルゼさんやミンデルたちを連想した。またあの場所にも寄りたいし、ライラさんと約束したからアウディアの村にも寄りたい。こんなことを言ったら銀髪と赤髪に怒られてしまうだろうな、そう思って今の考えは胸の中にしまいこんだ。たまたま振り返った先にいた兄さんが珍しく考え込んでいて、私の視線に気づいた兄さんはそのまま口にした。
「そういえば、気になったんだけどさ、そのナヴィリオ将軍とかって人間なんだろ?今生きてたら滅茶苦茶長生きなんじゃね?」
言われた瞬間何のことだと言い返そうとしたが、何とか思い出して留まる。ナヴィリオ将軍とクラベス、オルゼさんとライラさん、二羽の鳥が教えてくれた二つの国の歴史と今の状態。そしてその上に……いや、下に支えるように存在する「人間」の将軍。考えがまとまる前にエイブロが言ってくれた。
「……確かに、奴隷が解放されたのが80年前かそこらなんですよね。当時20才前後だとしても、今は100才近いことに」
「おじいちゃんとかっていうどころじゃなくね?生きてるのか、その人」
「生きてる……のでしょうね。話を聞いている限り。獣人の話ばっかり聞いていたので、同じ感覚になっていました」
「俺も」
エイブロと兄さんが話し、ユティーナは話にこくこくと頷いている。私も言われるまで気づかなかったが、確かにナヴィリオ達は生き過ぎていた。人間の寿命は多分50歳かそこらで、長くて60、70というところだ。オルゼさんから聞いた話だと獣人の寿命は百歳を超えてしまうらしいが、それが関係あるのだろうか。引き延ばしにしていた話題の一つについて、話題提供をした本人に聞いてみることにする。前をどんどん進んでいく赤髪の少年に小走りで追い付き、少し後ろを陣取らせてもらう。
「あ、あのさ。エイブロが言ってた獣人の成り立ちについてなんだけど」
「ん」
「人間になりたくてなったって、そのままの意味?」
「もちろん。どうした、急に」
「獣人の年齢がすごく高いのと、そのナヴィリオ将軍達がまだ生きてるのって何か関係あるのかなって」
するとすぐに頭を横に振り、エイブロは足を止めて私を振り返った。ほんの一瞬だけ視線をそらしてから私へ視線を合わせ、話を再開する。川でぽちゃん、と魚が跳ねたような音がした。
「ないんじゃないか?獣人が誕生したのは何百年以上も前のことだし、何らかの影響を受けるとは思えないけど」
「そっか……じゃあ、単純に長生き?」
「それにしては長すぎないか」
いつのまにか近寄っていた銀髪の長髪が会話に突っ込んだ。さすがのノウゼンさんも気になったのだろうか、エイブロの答えを待つように視線を向けて、足を同じくその場に止めた。私たちが止まったことでユティーナも止まり、兄さんも足を止めかけて後ろを振り返る。
「……ん?」
「どうした、ガディーヴィ」
隣にいたノウゼンさんがいち早く兄さんの声に後ろを振り返る。静かな川の流れと先程渡った橋、回りを囲む森。特に何もない自然の中で兄さんはその場に立ち止まり、目を閉じる。
「音、しねぇか」
「音ですか?」
「なんか……弾けるみたいな。ティリス、ノウゼン、」
ユティーナが耳を澄ますような動作をしたが、何も聞こえなかったのだろう兄さんへと聞き返している。兄さんは私たちの方へ話を振り、耳をとんとんと掌で叩いている。目を閉じて耳に集中するも、特別変な音は何も聞こえてこないので少し焦った。あえて聞こえるものを挙げるなら川のせせらぎ、木の葉の擦れ合う音、皆の潜めた息のかすかな気配のみ。
「特に何も聞こえないけど」
「気のせいじゃないのか?」
「んー……エイブロは?」
私とノウゼンさんの答えに納得できないらしい、兄さんは集団の先頭にエイブロにも話を振った。エイブロは頭を傾げて、目を閉じて音を聞き始めた。そして驚くこと、エイブロの反応は他とは違って兄さんに頷いて、目を閉じたまま答える。
「――聞こえる、ような……?」
「ほら」
ほら、と言われても。周囲に何もないこの場所で音源になりそうなものは少なく、兄さんが言うような弾ける音が聞こえてきそうな場所も音源もない。強いて言えば川くらいで、あとは私たちしかこの場にはいないのだ。本当に聞こえないんだってば、私がそう言おうと耳に添えた手を離した瞬間だった。かすかな水音に前を向いた私たちよりも早く、後ろをずっと見ていた兄さんが気づいて声をあげた。
「ユティーナ、後ろだっ!!」
「え――」
「ユティーナ!!」
咄嗟に動けないユティーナの前に体を滑り込ませて、袋から出さないまま槍を横倒しして突き上げる。突如襲ってきたそれが槍へと降り下ろされると、槍の側面から嫌な音を響いた。ほんの少し浮き上がっては再度降り下ろそうとする相手のその力を、打撃を受ける際に槍を傾けることで上手く横に流して攻撃をそれさせる。そうして、黒髪の少女を後ろ手に庇いながらも赤い体へ足を繰り出し、その巨体を川の方へと蹴り倒した。
「てぃ、ティリスさん」
「大丈夫?!」
「はいっ!」
彼女への怪我は幸いにもないようだ。蹴った足の裏や関節に痛みを感じながら、つい先程倒した魔物をじっと見る。赤い甲羅に赤いハサミ、気持ち悪いくらいに生えてる足。カニ……何だろうか、それにしてはでかすぎやしないだろうか。川辺の魔物だとは思うのだが、あまりに見たことが無さすぎて実感が沸かない。銀髪の青年と少女が同時に呪文を唱え、私たちの前に2メートルほどの壁が出現する。雷属性と土属性、紫色の光と茶色の光が混ざりあいながらその向こうの景色を映した。透明な壁はただ相手と自分達を遮るだけではなく、相手の行動を把握できる。それは単に、先程のカニが起き上がる場合を考えてのことだったのだろう。だが、それでも恐怖を覚えたのは、壁の向こうで川からカニやら水生の魔物がどんどんと上陸してくるところを目撃してしまったからだろう。その数は、ただ前を見ただけでも優に30は超えた。
「お、多すぎだろ!!」
「こいつら、強いです!さっきのハサミの奴に来られたら、兄さんくらいしかまともに戦えないかもしれません!!」
「この量には勝てない!!切り抜けることだけを考えろ!」
「って言っても、こんなところでどうしろって言うんだ!!」
「とりあえず森の中に逃げるしかありません!こっちです!」
押し問答を繰り返したあと、森の先を見据えたエイブロの後を追うように全員が駆け出す。痺れる腕や足を引きずりながらも川から離れ、とにかく先頭を走るエイブロを見失わないために目を凝らす。攻撃の決定打になりそうなものがわからない以上無謀なことはできない。二人の魔法使いが作った壁はある程度持ってくれるだろう、その間に逃げるしかないと。だが、その期待はすぐに、いとも簡単に崩れさった。今つい先程通った地面を、吹いてもいない風と共に抉る何かをはっきりと見て、後ろを振り返る。
「え?!魔法!!」
「はぁっ?!馬鹿な、魔物が魔法を使えるわけがない!」
「現に使ってるじゃないですか!氷魔法と水魔法!!」
壁に張り付き、頭を覗かせた魔物の口近くには藍色の光が大きく漏れ出している。また、壁に大量の空色の光、ミンデルさんが使っていた泡の水魔法がおびただしく飛来する。足元を掬われそうになりながら、まだ見えない森の出口へとにかくただひたすらに走るだけしか出来なかった。エイブロが振り返り、森にさす光の先へ指をさした。
「走れ、今なら振りきれる!!あそこが森の出口だ!」
エイブロがさした先には、森の外へと通じるのであろう道と何かの看板。森の外にさえ出てしまえば、もしかしたら誰かに救いを求めることができるかもしれない。今の私たちでは何にもできないことを悔やみ、同時に誰かが犠牲になることを避けたいと思う。氷魔法と水魔法の攻撃をすれすれでかわしながら、そしてエイブロがさしてくれた出口へと走りながら、槍を逆手に持ち呪文を唱える。色んなことを同時にやっているためか、今の状況を変えられる魔法など思い付くわけもなく、慣れて親しんだ基礎魔法を練り上げた。
「【風の刃】!!」
「【雷の矢】!」
「【土の牙】!!」
同じことをしていたのだろう、本を構えたノウゼンさんと杖を掲げたユティーナと一緒に魔法を発動する。さすがに三属性の魔法が連発で来たことには驚いただろうか、魔物たちの攻撃の手がほんの少し緩んだ。吐く息がそろそろ苦しい、感覚が無くなりかけた足が止まりそう、腕が痺れて言うことが聞かない。特に体力が少なそうなユティーナはさらにしんどそうで、何度も兄さんに手を引っ張られてはすみません、すみませんと謝っている。しかし、川沿いからかなり離れてきたのでそろそろ大丈夫だろうか、魔物の攻撃も少なくなってきたし。そう、思った。甘い考えを簡単に消し去ることができていたのなら、そんなことは起こらなかったのかもしれない。とにかく急いだのが、安心したのが、前後ばかり警戒したのが私たちの大きな間違いだったのだ。一つ分の足音が突如消えて、私が、兄さんが、ノウゼンさんが、エイブロが振り返り。
「ユティーナ?!」
完全に足を止めた、止めざるを得なかった泣きそうな黒髪の少女へ駆け寄る。ユティーナの腕に延びて絡まったのは、何重にも張り巡らされた蔓。緑色のそれはすぐ脇にあった泉の端へと引っ掛かって伸びていて、引きずり込むための物だと頭のどこかで悠長に考えた。ぐっ、と蔓に力がこもったのを見て、自らの手をユティーナの腕へ必死に伸ばす。
「ユティーナ!!」
伸ばした手は、空を切った。
泉に引きずり込まれるように落ちたユティーナと、煌めいた何かを見ながらただ、手を伸ばしたまま。水しぶきがあまりにもゆっくり見えて、慌てて泉の近くへと向かう。しかし、泉の表面には泡が僅かに波に乗ってゆらゆら漂うだけで、その水面の向こう側には暗い青しか見えない。立ち尽くしたエイブロが、不意に泉に飛び込もうとするのを残った全員が止める。
「はなせっ、ユティーナが、ユティーナが……!!」
「お前まで飛び込んでどうするんだ!!
「そんな、ユティーナ……っ!!」
「くそっ!!どうにか」
そんな毒づく兄さんの後ろに、大きな黒い影。誰よりも早く兄さんは後ろを振り向き様に剣を降ったが、それをかわして影は兄さんを地に落とす。土埃が舞い上がり、木の枝が折れる音、そして自分の兄が横たわる姿。何が起こっているのか分からなかった。ただ、ユティーナが引きずり込まれたあと、兄さんが倒れて、
「ガディーヴィっ……」
兄さんに寄ろうとしたノウゼンさんも何故か地面に倒れていて。なんで、なんでこんな。エイブロが倒れこむ二人の前に立って、短剣を取り出して構えても。
「ノウゼンさん!ガディーヴィさ――」
周りの人間が、仲間が倒れていく。気づけば私一人で、こんなの、悪い夢だと誰か。誰か……ただ一人残った私を見逃してくれるわけもなく、姿さえ捉えられない影は私の首筋を叩く。あまりにも強い力に体がバランスを保てず地面に手をつく。なんとか支えれたらと思うも痺れた腕に力は入らず、地面に落ちた。意識も失いかけ、永遠かもしれない眠りへと目が閉じていくその最中。確かに私は、赤い炎を見た気がした。