第一幕「ただ、一人」
機嫌が悪かった赤髪の少年を宥め倒し、先に進んだのは夕方になった頃だった。確実に休める場所を上手く確保するべく、皆の足取りは自然と早くなる一方だ。エルフの森、私達にとっては未知数な場所――敵国・アルストメリアのときと同じように、少しくらい警戒するべきだろう。
ただ、そんな警戒を解いてしまうような景色が広がると、いとも簡単に気を緩めてしまった。だって仕方がない、木々の合間から見えるのはあの花畑の合間から見たような、鮮やかなファイアー・オパールの空だったのだから。先行するように進んでいた自分が止まったからだろうか、追いついた仲間も足を止めて、空を振り上げ見る。
「綺麗な空だな……」
「旅をしていて良かったと思う瞬間ですよね、こんな空を見たときって」
黒髪の少女はそう笑って、空を再び見上げていた。彼女の故郷である花の国の空も、こんな色だったから、もしかしたらあの景色を思い出しているのかもしれない。
ふと、ノウゼンが銀髪を揺らしながら遠くの景色を見ようとしていることに気付く。視線の先を辿ればそびえ立つ山――恐らくは最初の目的地、”嵐の山”の異名が着くテンペスタと呼ばれる場所だ。この辺りでは景色を分かつほどの高さを持つ山は少なく、見惚れるように見詰めてしまった。
「あそこがテンペスタ、よね?」
「そう。土妖精、ノームっていう精霊を信仰するエルフたちの住処だ。他にも火属性と雷属性の妖精がいるんだが、表に出てくるのはあいつらだけだと思う」
「詳しいね……あ、もしかしてあの、"唯一交流がある"っていう種族?」
「そう。よく覚えていたな」
やけに身近な存在のように話す少年に、思い当たる節を聞くと見事に当たっていた。人間と交流を持ち、工業品や鉱石を卸しているという土属性のエルフ――通称は確かノーム、だったか。エイブロと初めて会った時に引きずっていた荷物も、彼等から卸したのだと、つい数日前に聞いている。
テンペスタへ一番に行くことは、鉄の森へ入る前に決めていたことだ。理由は勿論"人間と友好的だから――既に彼らと面識のあるエイブロやユティーナから勧められた選択肢である。
ここから見える程の距離であれば、夜までに麓の里へ入ることは可能だろう。急ごうか、そう皆に声をかけようとした時、ちょうど前から一人の女性が歩いてくるのが見えた――。
「ん、おや珍しい。外の客人だ」
外、という単語に心臓がどくりと大きく鼓動を打つ。初めて会うエルフを凝視しかけたところで、呟き声が聞こえた。
「――マローネ」
「えっ、エイブロ、この人知り合いなの?」
目の前に現れた彼女に声をかけた少年は、まるで来ることが分かっていたかのように接していた。村娘だろうか、簡素なエプロンドレスに、軽く編み上げられた髪――けれどもその合間に見えた耳は、自分が知っている耳とはやはり違って、尖っている。
「知り合いっていうか……たまに、街へ鉱石を下ろしてもらっているんだ。ここで採れる石は頑丈で加工がしやすいから、武器とかアクセサリーに使われる」
どうやら商業相手だったらしい、ほっと胸を撫で下ろしていると、彼女はころころと笑ってこちらに手を差し出してきた。握手、で合っているのだろうか。そっとこちらからも出せば軽く握られた。
間近で見ると、その複雑な色の瞳も、その滑らかそうな髪も、そう人間として見られても不自然ではない。むしろ彼女は、先程形容したように村娘として通っていけそうなほど、普通であった。
――何故、こんなにも似ているのに、人間とエルフは喧嘩などしているのやら。ちらりと横切った思考は、すぐに消し去った。
「初めまして。マローネよ」
「ティリスと言います、こちらは兄のガディーヴィ、仲間のノウゼンと、ユティーナです」
「初めまして!」
軽く頭を下げた男達とは違い、黒髪の少女は朗らかな表情だった。いつ見てもほっこりとする笑顔だ――だが、エルフから聞こえたのは、彼女の笑顔についての話題などではなかった。軽く目を瞠ったエルフの女性は、すぐに眉をハの字にへにょりと下げた。
「おや、ちょっと懐かしい面影だねえ」
「懐かしい……?」
まさか出るとは思っていなかった単語に、私だけでなくほとんどの人間が驚いて少女へと振り向いた。懐かしい、ということは彼女を知っているのか。問うことも忘れてエルフを振り返ると、声もなく笑って彼女は答えた。
「かの花国の姫と、よく似ている。キャロル姫も小さい頃はこんな顔をしていらした」
「――あの、母をご存知で」
「知っているも何も――ああ、そうか。娘が生まれたって聞いてたけど、いつまでも赤ん坊な訳ないか」
彼女はそう笑って、こう言葉を付け足した。時間の流れがよくわからなくてね、と。エルフと人間の大きな違いのひとつである、長寿。たった50年しか生きられない自分達の何倍、何十倍もの生の中での十数年など。改めて彼女をエルフであることを認識している間に、エイブロは娘に近寄っていた。
「わざわざこんなところに来たんだ。何が聞きたい?」
「話が早くて助かる。テオロギアについて、だ」
直球な言葉に彼女は一瞬濃緑の目を丸くし、次いで面白げに笑った。訝しむ少年の視線に気付いてからも、可笑しそうにしていた。
「いや、済まない。まさかお前の口からその単語が出るとは思っていなくて」
「……どういう意味だ」
「落ち着いて」
一頻り笑い終えて、彼女は目の端に溜まった涙を拭った。そんなに笑うことなのだろうか、とこちらとしては困惑のみだ。テオロギアを確実に知っている――いや、恐らくただ知っているだけではないだろう。私たちが城で見たようなこと、あるいはそれ以上の情報を――彼女は、軽く咳払いをして語るように言葉を発した。
「テオロギアと言えば旧時代の遺産なんて呼ばれてねえ、そりゃもう色んな国が持っていたシロモノさ。今は多くあった小国も消えたし、テオロギアの存在なんてほとんどの奴が忘れちまっただろう。なんだ、あんなものに用事があるのか」
「――クラベスたちが何故動いているのか、彼らがテオロギアとどうして関わっているかを知りたいんです。もしかしたら彼らが戦う理由があるかもしれない」
「知ってどうする」
「私たちはずっと無知でした。戦争が起きてから、その重大性に気付いたんです。今からでも遅くないのならば、彼らの戦う理由が知りたい、休戦ではなく、戦争を終わらせたい」
冷たい、あの将軍の男性と同じような種類の感情が秘められた視線に、せめて怯まないよう言葉を続ける。知ってどうする、その質問に対しての答えを国を出発する前から悩み、考えていた。
花の国と彫刻の国へ行き、知った事実と感情がある。復讐したい者たち、人間をそれほどまでに憎む者たち――そして真逆の、協力したい想いを持つ者たち。人間とさほど変わらぬ彼らと戦うことは、あまりに心苦しい、そう心苦しいという感情だ。だがそれは自分には大切にしたい感情には間違いない。
だがさすがに、戦争が感情論で動くとは考えにくい。クラベスたちには何か目的があるはずだから、その目的を知りたい。願わくば、その目的をどうにかして戦争から切り離し、戦争を終わらせたい。
「クラベスには、ナヴィリオ将軍には、獣人たちとは別の目的があるような気がするんです。それが、もしかしたらテオロギアに関係しているんじゃないかなって」
「ほぉ……中々いい線だ」
口笛を軽く吹く真似をして、彼女は来た道を戻り出す。言葉の真意を知るべく慌てて追い掛けると、歩きながら女性は一人頷いて話し始めた。
「確かに、エルフがテオロギアを一つ管理しているのは確かだが、私も実物を見たことがない。そうだな……ウーブリエにあるんじゃないかな」
「ウーブリエ……」
「光属性の妖精が住む集落のことさ。ここから更に北上した森の中にある。夜が明けるまで集落に泊まって、明けたら行くといい」
「えっ、泊めてくれるんですか!」
「まじで!?」
まるで伝染するように言葉が広がって、今まで黙っていた兄が目を輝かせた。なぜそこで反応するんだ、この男は。
「いやー、泊めてもらえなかったらどうむむっ!?」
「ありがとうございます! 有り難く泊まらせて頂きますね!」
「むぐーっ!」
余計なことを言い出す前に兄の口を手で塞ぎ、にこにこと対応することにした。わたわたと暴れる兄については、研究者の青年が本の角で黙らせていたので、任せることにしよう。
「ははっ、泊めるくらいならいくらでも。他のエルフも来ないし、たまにはいいよ」
「助かります」
今晩の宿が確保できた安心からか、周りの森はちっとも怖くない。ゆったりと彼女の後ろを追いかけて、言葉に甘えることにした――赤髪の少年が目を細めたことに気付けないまま。
「やぁ」
これが夢なら、この声が子供の声なら、そう思って勢いよく上半身を捻って飛び起きる。案の定跳ねるように後退した彼は、驚きの色を隠せないようだった。
クラベス、かの国の軍師である少年。その姿と声が少し懐かしく感じるのは、最後に見た夢が短かったからだろうか。じっとその顔を見ていると、不意に彼は苦笑した。
「そこまで嫌そうな顔しなくてもいいだろう?」
「……嫌だもの」
「大事なときに限って邪魔してくるから?」
「そう。大事じゃないときに限って出てくるっていうのもあるけど」
どうやら嫌そうな顔、とやらをしてしまったらしい。思うことがないわけではないので軽く答え、いつの間にか握っていた槍を手放した。夢だからだろうか、すぐに氷みたいに割れて消えていく槍を横目に、彼へ近付いていく。
少年は大きな氷の塊に腰掛け、ぷらぷらと足を揺らしていた。退屈、なのだろうか。こんな夢を仕掛けて会いに来るとは。
「会おうと思わないときに来るから、あんまり好きじゃない」
「ふふっ、すなおー。そんなこといわれたらもっと邪魔したくなるね」
「くら」
「あはは、冗談だよ」
この意地悪、と一言文句として言ってやろうか、そんな言葉が頭を過るもすぐさま訂正した彼の言葉に遮られた。
「そうだな、お詫びに良い話を一つ。――エルフは、自分達の保身のためにあんなところで生きている、と言ってもいい。周りなんてどうでもいいタイプの種族だ」
「……なんか、自分がふられたみたいな言い方ね」
「おや、大当たり。僕、思い切りふられたことあるよ」
にんまりと笑うわりに、あまり嬉しそうではない彼。恐らくその言葉に間違いはないのだろう、慰めるか煽るか考えた後、先程の仕返しとして煽る言葉をわざと選んだ。少しくらい仕返しになるといいが。
「へぇ?アルストメリアとフォブルドンじゃ人気があるのに、エルフにはなかったんだ」
「みたいだね。あそこは頭が固くて苦労したよ」
だが煽り文句は効かず、仕返しは空振りに終わってしまう。一人勝手に落胆していると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「……恐らく、君も同じ目に会うだろうね。迷い子には気を付けて」
「迷い子?」
「君たちが目指しているのはエルフの領域の中でも更に奥深い森、忘れ路の森と呼ばれる場所だ。昔からあそこにいる子供は迷い子として侵入者を迷わせるらしい。僕も迷わされた側でね」
忘れ路の森、聞いたことのない単語だ。寝る前にエルフの女性・マローネからある程度情報を仕入れたが、そんな単語は聞いていない。聞き忘れがないようにしたつもりだし、何よりそんな物騒な話、いくらなんでも耳に残るはずだ。
「魔法の類……?」
「いや、多分本当にいるんだろうなあ。エルフはかなり制約が厳しいからね、親が同族に殺されて子供だけが残ることも珍しく無いらしいよ」
思わず近付きかけた足を止めて、彼を見上げる。彼から親、という単語を聞くと、中々不思議な感じがする。それにしても同族での争いか、エルフもそんなことをするんだなぁと妙に思ってしまった。
「何か哀しいね」
「それだけ知の民も必死なのさ、下界に関わらないようにってね」
「下界?」
「知の民は非日常を望んだ者たちということさ。人間や獣人たちがいる場所を、彼らは下界と呼ぶ。外の世界と関わりたくない者が、エルフには多いんだ」