序幕「血塗られた森の、その奥へ」
「ここからエルフの森」
赤髪の少年が発した言葉につられ、ゆっくり顔を上げた先はまた森。今まで歩いていたところとは微かに雰囲気が違い、ここには清涼な空気があるようだ。しかし疲弊した身体はそれを潤いとして受け取ってはくれないらしく、まだ胸の動きは忙しく上下したまま。今すぐにでも止まりそうな足を動かして、私たちは違う空間へと踏み出す。
知の民・エルフが持っていると思われるテオロギアを読み解くこと、そして正体不明の少年軍師・クラベスについて調べること。二つの仕事を国から依頼され、ギルド五人で王都を出発してから早一日が過ぎようとしている。出来る限り早い帰還を目指していることもあり、休憩は夜以外あまり取っていない。旅慣れているとはいえ、さすがに身体は堪えたようだ。体力的に厳しそうな黒髪の少女や、ずっと見張ってもらっている銀髪の青年などは、眉を顰めながらもまた一歩重たい足を引きずっている。
「空気が全然違うね」
「エルフは血の匂いが苦手だからな。とにかく清潔を好む、争いも浄化のためなら平気で行う連中さ」
「平和主義じゃないんだ、意外……」
エイブロが不意に発言した内容に、つい首を傾げる。言われた内容と思っていたイメージとがかけ離れていたからだ。
エルフのことは、大概”ふとした時に流れてくる噂話のような存在”だと思っている。そもそも人間と交流を持つエルフは少ないらしく、どんな姿形なのか、何故交流がないのかすら知らない。だから今回の旅は未知なる者に会えるという意味では楽しみである、勿論遊びに来ているわけではないので、決して口にはしないが。だからこそ、そんな情報をもらって驚きだったのだ。
鉄の森からエルフの森へと入り、ようやく文字通り一息つく。さっきまでいた鉄の森で息を吸おうものなら、あの錆びた鉄の匂い――血の匂いが肺を満たしてしまうだろう。その場で立ち止まろうとする兄の腕を引いて、もう少し安全そうな場所を探す。エイブロによると、この先の森にはいくつか休めそうな場所が設けられているらしい、様々な魔素が満ち、気分も安らぐような場所が。ならば、ここで休んでも休んだ気にならなさそうだから、魔物に襲われる前に、せめてその地点まで行ってから休もうか。
「もう少し進んだ方がよくないかな。襲われてそっちの森に逃げるの、嫌だし」
「あー、そうだなぁ」
渋々歩きだす兄の背中を叩きながら、ふと後ろを振り返る。文句は言わずとも、疲弊している仲間たちの顔には苦味があって、休憩を取るタイミングを間違えたことを痛感する。馬車は乗り継ぎの連続で休めず、鉄の森手前で休んだせいでまともな睡眠は取れていない。しくじった、これは早く休める場所を見つけなければ。
「怠いなら帰ったら良いじゃねぇか」
ふと響く声、兄の言葉に対してかそんな返事が返ってきた。そこまで言わなくても――言い返そうとして、足が止まる。そんな低い声の持ち主はこのギルドにいない。ましてや、ギルドで依頼を受け、誰一人として欠けてはまずい状況でそう言う人間なんて。
「誰だっ!」
「――人に名前を訊ねるときには、自分から名乗れって教わらなかったのかい、坊っちゃん」
声を荒げた少年の先の木から、赤いロングベストを羽織る男がいきなり降りてくる。降りたときに普通なら聞こえるはずの音はなく、こちらを見据える視線はにこやかだが、どこか寒気のする鋭さがある。つい癖で槍を構えながら後衛のユティーナを庇うように前へ立ち、もう一度視線で相手の姿を捉えてみた。敵意は今のところなさそうだ。一体誰なのだろう――そう考える間もなく、男の前髪が掻き上げられた瞬間、記憶の中のその人と合致することに気付いて声を上げた。
「あっ」
「よぉ金髪の嬢ちゃん、運命的な再会?」
こいつと知り合いなのか、そう訝しむ声が後ろから聞こえる。それもそのはず、耳が尖って牙が出ている知り合いなど、普通はいないと皆知っているから。記憶を手繰り寄せ、一緒にいた白鳥から聞いた言葉や、目の前にいる男から聞いた情報をまとめてみる。
「ええと……狼族の、族長さん」
「初めまして、ギュンツっていうんだ、宜しくな」
気軽に話しかけてくる黒髪の男は、やはりあの花の村で白鳥の長・ライラと一緒にいた男だ。あの時は内緒な、と言われていたが、もう普通に話しても良いのだろうか。皆はその説明と紹介を聞いてもまだ警戒を解こうとはせず、先頭立って敵意を向けている少年の目は更に細められている。ギュンツは余裕な表情でこちらへ歩み寄って、小さく微笑んだ。
「なんで妖精の森に獣人がいる、エルフと獣人は不干渉の立場だろ」
「つれないなぁ、俺はただおつかいで来ただけだぜ?」
どうせろくでもないことなんだろ、少年はそう言って眉を潜める。苦笑する狼は肩を竦め、特に問題ないと思うんだけどなあと独り言を呟く。それっきり、二人は話さなくなり、辺りは静寂に包まれた。おつかいとやらの内容が気になるところだが、この様子だと教えてくれるわけではないだろう。仲間の方を横目に様子を確認すれば、疲弊する中それぞれの行動はまちまちだ。
狼の飄々とした態度が気に入らなかったのか、赤髪の少年は苛々としているのがよくわかる。黒髪の少女が狼と少年をしきりに見比べている――声をかけるか迷っているのがいい証拠だ。年上二人はどうするか迷っているのか、まったくその場から動かない――敵意は、やはり相手からは感じられなくて、槍を一旦降ろした。まさに、そのとき。
新たな赤いロングベストが翻って、視界が僅かな間塞がってしまう。あまりの瞬間的な出来事に驚いて息を詰めていると、赤が落ちたその直ぐ傍で、少年は何者かに地面へと押さえつけられていた。小柄な、それこそ少年とそう体格の変わらない子供は、赤いベストを捲り上げてくすくすと笑った。慌てて槍を構え直し、彼等に近づく。
「エイブロっ!」
「動かないで、じゃないと君の仲間の腕が折れるよ」
白い髪の子供は、小さく笑って彼の身体をさらに深く押さえ込む。子供は小柄な身体であるにも関わらず、エイブロが動けそうな気配は一切ない。仕方なく槍をゆっくり下ろした。兄の剣も、ノウゼンの弓も、ユティーナの杖も、掲げられず手の中にきちんと収まったまま。
やがて、分も立たない内に、赤い影が更に二つ追加される。一つは淡い茶色の、ふわふわとした髪を持つ女性だ。細い目は怜悧な印象が強く残りそうで、彼女は音も立てずにギュンツの傍へと近寄った。
「ギュンツ様、お待たせしました」
「おー早かったな。ご苦労、ウルム。首尾はどうだ、ミンデル」
「ええ、なんとか」
声を掛けられたもう一人の男性には、見覚えがあった。いや、見覚えがあるとか、ないとか、そんな楽なものではないだろう。あの雨降りの村で洪水のような水を止めた立役者、黒鷹オルゼがその身体で、誇りを持って止めてくれた狼族の青年。彼はこちらを少しだけ見てから、少女とも少年ともとれる白髪の子供に声をかける。
「――チカ様、どうかその少年をお離しくださいませ。争う必要は今、ありません」
「ミンデルの頼みじゃあ聞けないなぁ」
「チカ、族長命令だ。離してやれ」
「はーい」
いとも簡単に離した子供の下から、エイブロはすぐさま飛び退くように後退した。彼のところへ少女が駆け寄るも、それに気付いていないようだ。
「おい、さっきの質問に答えてねえぞ」
敵意、というよりは殺気に近いだろう。少年の睨みに対して狼たちは一度視線を少年に集中させる――その、柔和な雰囲気やら怜悧な雰囲気が、一瞬憐れみのような色合いを纏った気がした。
だが、それもすぐに霧散して彼等は溜息をついた。
「本当にお前らとは何も関係のないことさ――それとも、エルフと狼が仲良くしていちゃいけないのか?」
「エルフが獣人と組んだなんて話は聞かねえな」
火花が両者の間に走ったような気がする、二人はお互いを見つめたまま、また黙り込んでしまう。短剣を取り出した少年はやる気満々で、今度は自分たちの方から溜息が漏れたような気がした。喧嘩っ早いのは前から思っていたが、ここで武器を出しても勝ち目はあまりなさそうだ。
「――ねえ、さっきから黙っていれば口うるさいねえ、君」
その合間を裂くように、先程少年を押さえ込んでいた子供が二人の間に割って入る。止める気配は感じられない――どことなく研究者の青年に似たような雰囲気のある言葉に、敏感に反応したのはエイブロだった。
「なに?」
「そんなに気になるなら見に行っておいでよ、妖精の里。狼と仲いいんですかーって――ああごめん、人間って絶交中なんだっけ。行っても追い返されちゃうよねー?」
「チカ、煽るな」
明らかなそれに、少年がついに動いてしまう。止めようとした声も、手も、全てを振り払うように目の前の子供へ突撃する。ダメだ、諌めようとしたノウゼンの声も当然届かず、それが音として聞こえたときには既にエイブロの首に子供の手がかかっていた。
よく見れば子供は武器を持っていない、だが、少年の喉元に添えられた親指一本だけで、力があることが容易に感じ取れる。そのまま彼の喉元を突いて――そんなことだって可能にしそうな。
「僕が此の場で一番強いってこと、しっかり身体で教えてあげようか。君みたいな未熟な子に」
「阿呆か」
「いてっ」
「ウルム、白狼様がお疲れのようだ。先に運んで差し上げろ」
子供がようやく子供らしい声を上げたのは、ギュンツがその頭を叩いたからだ、あまりに急な展開、ポカンと見つめていたら、いつの間にか少年は解放され、彼等はこちらと距離をとっていた。わかりました、模範的な受け答えをした女性の狼は、子供をやんわりと抱き上げる。
「じゃあなあ、インペグノ――ミンデル、頼む」
「"空中に漂う蒼き乙女の欠片よ"」
その言葉で引き寄せられたのは、青い色の魔素だ。警戒して思わず後退りするも、森の中で淡く灯った水魔法の光は彼等の姿を覆い隠して十数秒、中身と共に空へ消えていってしまった。