第二幕「迷い子の涙」
「エイブロの調子、昨日からおかしくないか」
「ノウゼンさんもそう思いますか」
森に入ってすぐ、腕を引いてきた青年と並んで歩き――数秒。違和感の認識が合っていたことと訝しげな顔付きに、ついこちらも真剣になってしまった。話題の的は赤髪の少年、私達にとっては昨晩からの悩みの種だ。
三日連続の森の進行は、それほど経験のない私たちでも難しくない。旅慣れしたギルドメンバーが踏みしめるのは草と地面で、泥濘でもないし灼熱の大地でもないのだ、普段であれば途中休憩を挟むだけで問題はなくなるはず。だが、ただ一人先を歩く赤髪の少年の疲労は、いつになく強く感じる。こっそり回復魔法紛いのものをかけていたが、そもそもかけられたことにすら気付いていない有り様だ。自分の力不足か少年の有り得ない鈍さを疑う他ない。
「何だろ、一人でいる時というか、俺達の前では無理をしている感じがするな」
「もしかして、あのチカっていう子に言われたこと、実はめちゃくちゃ気にしていたりだとか……?」
「あいつにそんな繊細な心があったら、とっくに落ち込んでいるだろう」
「昨日落ち込んでましたけど」
あの白狼娘に言われて、多少は落ち込んでいたのは見かけた。そこは見てやれよ、と口から出そうになったが、そうではない。ただ落ち込むだけであんなに疲労していたら、そもそも旅に出てきていないだろう。一緒になってうーんと首を捻るも、当該者ではない自分達では答えなど出ないまま時が過ぎた。
マローネの家から、どのくらい離れてしまったのだろうか。迷い路の森、というだけあって、既に全員の方向感覚は狂っているらしい。エイブロですら方向が合ってるか分からない、なんて言い出すので、半ば諦めていた。
木々の合間から空を見上げれば、赤みを帯びた雲がゆったりと流れている。そろそろ夕方といった頃合いか。魔物やら危険なものへの警戒の意味合いもあることだし、そろそろ休むべきだろう。
「かなり奥の方まで来たね。一旦ここらで休憩しよう」
「だな。魔物が出ないのは良いけど、なんか不気味なところだよなー」
目配せをした兄が、率先して荷物を置き、休めそうな木を探す。ユティーナやノウゼンが同じように探しに行くのをいいことに、残った少年へそっと耳打ちする。
「……ねえ、エイブロ」
「何」
「何か、調子おかしくない?」
「なんで?」
見栄張りしにくそうな状況を作ってみたものの、手応えはまったくない。本人はけろりと言っているが、その顔色はこの暗い森の中ではより一層影が差して見えるようだ。さすがに何か言うべきだろうか。
「――済まない、エイブロ。昨日貰った地図のことで相談があるんだが」
しかし、タイミングよく声をかけてきた研究者の一言に、少年の意識は完全に逸れてしまう。後でお小言でも二人に言ってやろう、そう決めた瞬間だった。
「わかりまし――」
「っえいぶろ!」
前に進んだはずのエイブロの身体が、うつ伏せに地面へ倒れていく。まさか躓いたか、思わず手を伸ばすも、あまりに急な出来事へそう都合よく対処できるわけもなく。
どさり、と、嫌な音がした。
「エイブロっ!?」
「お、おい!しっかりしろ!」
慌てて駆け寄れば、向こう側から音を聞きつけて兄と少女が走り寄ってくる。銀髪がひらりと傍にやってきて、その糸を地面へ垂らした。
抱えあげたエイブロの身体は、いっそ冷たい水のように冷えて白くなっていた。息は辛うじて続いているようだが、全体的に呼吸は荒く、まともな状況でないことは火を見るより明らかだ。――いつも彼らしくない。
少年の身体を青年に任せ、立ち上がって周りを見る。誰もいない、当たり前か。夕方の気配は、何事もなく夜へと変わってしまうだろう。ある意味安堵した息をつき、近くの木まで寄せようとした。
「――水晶病」
「な、んですか、それ」
ふとノウゼンが漏らした単語に、全員が彼を注視した。なんだそれは、と本人以外の皆の目が語る中、彼はいつも魔法で使う本を取り出し始める。まさか何か解決策が、そんな期待を込めて彼を見ていると、当の本人は困ったように笑った。
「魔力を分け与えるだけだ。大丈夫、信じろ」
「いえ、あの……お願いします」
驚いて何も言えなくなった私の代わりに、ユティーナがそっと微笑んで答えてくれた。研究者の青年が笑ったことに関しては、何も見なかったことにしよう。魔力を与える、その言葉の意味もよく分からないまま、私達は彼の行動を見守るしかなかった。
それから数時間も経たず、日が落ちた。何事もなく暗くなった森には、小さな光魔法の明かり以外の明るさはない。手元のか細い光を抱きながら、右隣で眠る少年を見てみた。
ノウゼンの治療の甲斐があったのか、彼の暗い顔色はある程度元の色味に近付いたようだった。燃えるような赤い髪、いつもならその合間から覗く緑は、まだ開かれていない。呼吸の音は普段よりもか細く、無音に似ていた。
その向こう側に眠る黒髪の少女は、日頃の疲れもあったのかこちらは寝息をたてている。年長組は周りの警戒のためだといって、この場にはいない。久しぶりの一人に、寂しさを軽く覚えながら手を伸ばして、彼女の髪を撫でてあげた。
ふと。傍から物音、身動ぎして服が擦れた音がして、はっと頭をあげる。少年が目を覚ましたのか。
「あっ、エイブロ」
「っ!!」
「ま、待って、エイブロ。私だよ」
声をかけた瞬間臨戦態勢へなった彼へ、声を潜めながら宥めにかかる。暗闇だから見にくいのだろう、槍などは後ろにしまい、ゆっくりと息を吐いた。すると
「――ティリス……皆は?」
「ノウゼンさんと兄さんが周りを見に行ってる。ユティーナは、ほら」
「寝てるのか」
自分の身体に凭れる重みへ気付き、少年は軽く呆れたように息をつく。そっとその髪を撫でる様子は、完全に兄と妹だ。こうしていると、彼らが恋人と言われても疑いようがない。ぐ、っと腕を伸ばした少年は、大きく欠伸をもらしていた。
「どのくらい倒れてた。結構時間経ってるだろ」
「んー、数時間くらいかな。でも体調悪かったのならしょうがないって」
「……体調管理はばっちりなんだけどな」
「え?」
呟かれた言葉に反応出来ず、思わず聞き返してしまった。だが本人も自然と出た言葉なのだろうか、返事に答えが乗ることはなかった。
「ううん、なんでもない。あーあ、ノウゼンさんに一つ借りができたな」
「え?何でノウゼンさんってわかったの?」
更に不思議なことを言う、だがそちらは治療のことだと分かった。だが治療の間、彼のことはずっと見ていたが、気付いた様子はなかったように思える。なぜ知っているのだろうか。青年も寝ているから楽だとか言っていた覚えがあるのだが、もしかして起きていたか。
「ノウゼンさんが確かに治療してたけど」
「だって俺の中に雷の魔素は元々――」
「やはりな」
いきなり顔を上げた少年は、私ではなく森の奥へ視線の先を向けた。こちらが何か言う前に、新たな声の主はゆっくりと近付いてきて、月光の下で銀の糸を揺らす。その手には魔術の本、先程彼に治療する際使用した、ノウゼン専用の雷魔法の本だ。
「ノウゼンさん…周りを見に行ってるって、さっき」
「だましたことなら謝る。どうしても確かめたかったんでな」
「確かめるって何を」
少年の前で立ち止まった彼は、後ろから付いてきていた兄を手招いている。何を確かめるというのだ、治療のことか、それとも。いくつも頭の中を駆け巡る疑問を投げ掛けようと、立ち上がると同時。
「ユティーナ。狸寝入りはもういいぞ」
そんな青年の呼び掛けに、少女の瞼は僅かに震えて開いた。今度こそ少年は驚いて、隣を凝視していた。
「ユティーナ」
「……ごめん、ティリス、エイブロ。普通の人はね、自分の中に入り込んだ魔素の属性までは分からないんだよ。分からないから、人間は魔法を使うことに長く抵抗を覚えていたの」
「ティリスなら知っているはずだ。学校の教科書の最初にあっただろう、自分の魔法の属性が分かるのは、ごく一部の賢者、そして別種族」
それは"当たり前"だろうと言おうとしたところで、ようやく青年の言いたいことが分かる。思わず少年の方を振り返れば、彼は俯いて表情が見えなかった。――青年の言葉を、否定しなかった。
「お前は、エルフだな」
「はやいなぁ……あー、早いよほんと」
「え、え、ちょっと待って。エイブロがエルフ?」
一切の否定を持たなかった少年は、そうだとは断言はせず、だが飲み込んで笑った。拍子抜けしたのは全員同じだったらしい。固まったままの研究者を見てしまって、場の雰囲気に合わず面白いと思ってしまった。
「――こほん。水晶病は魔力の欠落による疾患だ。欠落した部分さえ回復してしまえば何の支障もない。……そういう風に体が作られているんだ、エルフは。その回数が故に」
「詳しいですね」
「俺は知り合いにエルフがいる。水晶病のことも知っているさ、エルフにしか罹らないと聞いている」
やけに説明したがる彼は、先程の間を埋めるように早口だ。くすくすと笑っていると、案の定睨まれて更に可笑しくなる。いや、違う、今はエイブロのことを聞きたいのだ。自分を何とか落ち着かせて、立ち上がって話を聞くことにした。一人、状況が分かっていないらしい兄の隣に並びに行く。
木々の合間から覗く夜空は、先程よりも僅かばかり色を深くした。真っ暗になっては見え辛いだろう、そんな一言から増やした光魔法の灯りが更に輝かしく見えたのは、きっと周りの闇が濃くなったからだろう。
まだ体調が万全ではないらしいエイブロに、簡易の寝床を作って休めるよう全員で囲んでから十数分。ようやっと横になった彼の口から出たのは礼の言葉と質問だった。
「いつからですか?俺がエルフかもしれないと」
「鉄の森を皆で初めて通ったときだ。お前のあの反応は、敏感すぎた。獣よりすごいぞ」
そんな直球な彼の質問に答えたのは、本の補修をする研究者だ。どうやら、他人の魔素を補填するなど、彼も行なったことがない経験だったらしい。念のため魔術書の確認を行なっているようだった。
彼の答えに微笑んだ少年は、渡された小さな枕を腕に抱く。俺はガディーヴィさんですか、なんて冗談を言うから、ついどっと笑ってしまった。そう言えば兄も驚異的な視力の持ち主だった。
「ほとんど最初からお見通しだったわけか。さすがは、だな?」
「……ごめん、頭がついてかない」
「大丈夫、俺もだから」
「あのね、兄さんみたいに一切分かってないわけじゃないのよ、私」
なんだと、なによ、と子供の喧嘩をしながら、場が和らいだ雰囲気に包まれていくのを自覚する。良かった、暗い雰囲気ばっかりだとこの先を進むのが辛いだけだ。
「で、俺は何か教えればいいのか」
「はい、水晶病って何」
「水晶に近付くと魔力を持っていかれる病気」
「魔力を与える、と回復するの?」
「うん」
「……エイブロがエルフの里にいないのは?」
「追放されたから」
「え、なんで追放されたの」
「規則を破ったから」
ああ、この感覚は、深く語りたくないというか踏み込ませないものだ。矢継ぎ早に質問をしてから、中々質問が思い浮かばず間が空いてしまう。
「俺がエルフなのは確かだけど、そんな立派な役職でもないし、追放されてるし、あんまり期待しないほうが良いぜ。知ってることも多分少ない。有利に働くか、不利に働くかさえわかりはしない。もし有利に働くとしたら――里に異変が起こってる証拠だからな」
夜が更けていくその瞬間に、"彼"が零した言葉が脳裏を過る。知の民は非日常を望んだ者、そんな言葉を。目指すのは迷い路の森の更に奥、光の集落、ウーブリエ――エイブロの故郷の里だ。