終幕「変わらないモノ」
エイブロとニア族長に付いていったその先は、大樹の幹から内部へと入った部屋だ。大樹の中に螺旋階段が遥か頭上まで続いており、彼らはその上へと昇っていく。階段の傍で咲く綺麗な小花と、蔦が絡んだ手すりを辿りながら、追い掛けて一段一段、踏み外さぬように同じく上へ、上へ。
やがて、その螺旋をどのくらい昇ったのだろうかと後ろを振り返るような頃。一つの部屋へと入る二人の姿が見え、同じように部屋の中へ入る。そして、その部屋に踏み入った瞬間、言い様が出来ない不思議な感覚に見舞われて、思わず足を止めた。
部屋の中は、辛うじて部屋と呼べる内観を保っている。複雑に入り組んだ枝が壁となり、階段にもあった小花が仄かに明かりを放つ。先に入っていた二人が立つその床も星が散らばるようにあちこちが輝き、暗いはずの部屋を僅か照らしていた。――分かる、この部屋は普通の部屋ではない。少なくとも"入っていい場所"ではない。赤髪の少年がこちらを振り返り手招いてきたため、止めていた足をなんとか動かして、彼の元に向かう。
「……ここは?」
「テオロギアを保管するために作られた部屋。特別な結界が施してある――さあ、ティリスよ。中央へ」
軽く腕を引かれ、連れられるまま族長の言う中央へと歩み寄る。青白く光る、淡い光の柱の中に本が一冊。浮かび上がるそれは、城で見たテオロギアと装丁は同じだが、大きさや厚さはその倍だ。ついじっと眺めながら、両脇に立つ二人へ問いかける。
「――城で見たテオロギアは、もっと小さかったんですけれど……?」
「……ハイマート王国のテオロギアのことか。あれは人間に贈られたテオロギアだから小さい。贈られる地方や種族によってテオロギアは形を変える。知らぬのか」
贈られる、という表現に首を傾げながら、テオロギアから視線を外すことなくただ見つめる。不思議だ、場所によってこうして違う形で存在する本があるのか。まるで写本のようだと前や横から眺めていると、エイブロから苦笑が漏れた。何よ、と振り向くと、可笑しそうにしていたのでついむっと唇を尖らせてしまった。族長にも軽く喧嘩を売られた気がしたが、それは無視することにしよう。
「手をかざせ、ティリスよ」
「こ、こうです……うわっ?!」
恐る恐る手を差し出すと、ふわり、と。浮かんでいた本が更に上へと浮かび、堰を切ったように頁が捲れ始めた。見えない誰かの手がぱらぱらと捲っているみたいで、驚きの声が腹の底から出た。やがてとある頁でその見えない指先は消えて、代わりにこちらを向くように本の向きが変わる。
読め、というのか。無茶だ。
少しは予想していたものの、やはりハイマートにあったテオロギアと同じように、古語で書かれているようだった。否、古語かもしれない何かの言語、と言ってもいい。とにかく一切分からなかったのだ。多少なら読めるかもしれないと思ったのに。
視線をエイブロ達へと戻すと、また軽く笑われる。次いで視線を向けた先の族長は、目を細めると軽く隣の少年の背を手で押した。
「リヴェーオ」
「はいはい――記すは白きもの、示すは黒きもの。空の支配者は白きをもとめ、また知の民は黒きを求めた。黒きは黒きものによって紡がれたが、白きもまた黒きものに紡がれた」
「え、ええと」
なんだ、それは。何とか喉の奥から出ないように抑えたその言葉は、まさに今の状況には正しい感想だと思った。白と黒の記述は城のテオロギアにもあったが、ここでも出てくるのか。
やがて、答えを導き出せないことに呆れたのか、溜め息をついた族長は口を開く。
「なんじゃ、知らないのか」
「何を」
「黒は虚偽のテオロギア。作成者は彼の王国軍師、クラベス。白は真実のテオロギア、書いているのは――真実の神と呼ばれる者じゃ」
「神……?」
その一単語だけを拾ったのは、たまたまだった。存在するかどうかも分からない、その名称を聞いたことはあるというだけ。
だがそのたまたま口にした言葉を耳にして、実感がほんの少しだけ沸く――書く、神が? いるかどうかも知れない存在が、目の前のテオロギアを書いたというのか。いや、やはり実感は沸かない。肩を竦めた少年ではなく、族長へと問いかけることにした。
「いる、んですか」
「いる、残念なことにな」
余程自分の声音が信じられないと物語っていたのだろうか。族長はこくりと頷いて、諭すように落ち着いた声で話した。
「テオロギアが何故歴史書のようになっているか知っておるか。あれは、神が実際に見てきた場所であったことを記しているからだ。このウーブリエを含むエルフの森も、ハイマート王国も、恐らくアルストメリア・フォブルドンの両国にも。
テオロギアは私たちの言葉で神々を記す書物、という意味を持つ。神は自分の代わりに書物を記せるものを探し、そして分担することによって残していくのだと」
「じゃあ、クラベスは」
「テオロゴイ――テオロギアを書くため神によって選ばれた、運命の子供。我らは彼の者を尊び、虚偽のテオロゴイと呼ぶ」
「虚偽の……」
場違いではあるが、あの雷の研究者もいたらよかっただろうな、とふと思う。彼は確か、古書の研究もしていたはずだ。これほど信じがたいこともないだろう。自分が研究しているその書物が、よくわからない存在に書かれたものだと知ったら。
クラベス、神に選ばれた子。神が自分の代わりに書物を記せるものを探す――その表現に何か引っ掛かるものを感じながら、族長の言葉を待つ。
「虚偽の神がなさることは、我にも分からぬ。ただ一つ言えるとすれば、彼女が行ってきた事は壮大でありながら緻密だということ」
「彼女、って、女性の神様なんですか」
「ああ、虚偽の神シルヴィア。この地域の全てを司る者。真実の神ライティスの対極に存在するもの」
「対極……」
二人もいるのか、神様が。突拍子もない気がしたが、こうも色々起こってしまった後だと信じるしかない。実感も沸かないが。ふと横を見ると、エイブロは少し考えるような素振りを見せる、もしかして聞いたことがあるのだろうか。いや、そもそもエイブロはこの話を知っていたのか、……いや、知らないか。知っていたら先にクラベスの名を聞いて何かしらの反応を見せていたはずだ。
「――っていうことは、"黒きは黒きものによって紡がれたが、白きもまた黒きものに紡がれた"、つまりシルヴィアが、ライティスの分までテオロギアを書いてることになりますよね?」
「ああ、その通りだ、リヴェーオ」
「ライティスは何も言わないんですか」
「……肝心なテオロゴイが、記述出来ないのだ。目覚めるときを待っておられるのだろう」
ため息をついた族長を、つい他人事のように眺める。何か期待をしていたのに諦めたような、でもどこか、まだ希望があるようなその瞳は、なんだろう。
それにしても、目覚めるとはなんだろうか。何か時期があるのか、というか族長はそのテオロゴイのことを知っているのか。
「テオロゴイがいるのに、神様が書かないといけないのね……大変」
「ティリス」
「ん?」
少年が恐る恐るこちらに近寄ってきて、じっくり眺めてくる。その視線が一瞬だけ族長の方へと流れ、またこちらに戻ってきた。その鮮やかな緑が少しだけ暗くなり、花の灯りに隠れる。
そして、その口から放たれた言葉に、時が止まった。
「お前だよ、真実の神のテオロゴイって……」
そう、本当に止まった気がした。
言葉を飲み込めず、理解も出来ないままただ立ち止まっていると、エイブロは軽く頭を振る。いや、何を言っているのだろう、彼は。いや、そもそもやっぱりなんで彼は知っているのだろう。いや、まずなぜ、なぜ私が。
何故、なぜ、私なのだろうか。一度降ってきたその疑問が消える訳もなく、視線があちこちに彷徨う。考えても、分からない、理解が出来ないその内容に、思わず助けを求めるようにエイブロの方へ顔を向けた。答えを教えてほしい、その願いは微妙に逸れた形で彼に届いた。
「なんでここに来れたと思う。お前が真実のテオロゴイだからだよ」
「――ま、待って待って、私、なんにも知らないよ?!」
慌てて少年に言い返すも、頭の中は疑問だらけだ。なぜ、私が。何故私自身がそのことを知らないのか――いや、彼らはからかっているのか。まさか、このタイミングでする必要もメリットもないのに。どうして、何故私がそんな役割を――仮にそうだとして、何も知らないのは何故なのか。
まるで激流が押し寄せるような思考の中、ぼやっと白いモヤがかかり、眼の前が塗りつぶされる感覚。それと同時に、まっすぐ見えていた少年と族長の姿が回転し、冷たいものが腕に触れた。
どこか遠くなる意識のその向こう側で、だから神のなさることは理解不能なのじゃ、と族長の諦めたような声が響いた。
何か、夢を見た気がする。あの少年が出てくる黒い景色ではない、真っ白い世界だった、ような。誰かに手を伸ばされ、自分からも手を伸ばし、すれ違う夢。そうだ、やはり夢だ。けれどもそれが夢だと実感が持てないのは何故だろうか。何故、まだ私は、自分が何者か分かっていないのか。分かっているつもりのことが、何故、「今更」――。
ふと、目の前が鮮やかになる。色とりどりの世界が目の前に戻ってきて、その中央に人の輪郭を見つける。金色の髪、青と緑が混ざる複雑で優しい色の瞳――自分の瞳と少し似て非なる瞳。その輪郭が自身の兄のものであることに気付き、急いで意識を宙から引き戻した。
「にぃさ……!」
「ティリス、大丈夫か」
「テオロギアの情報量が多かったからな。単純に頭が疲れたんだろ」
彼の傍らに赤髪の少年を見つけ、頭をそっと撫でられる。急に何を、と言いかけた口は、心配そうに見つめる黒髪の少女や、明らかにほっとした兄や研究者を見てつぐむことになった。情報量が多かった、頭が疲れたーーどうやら、私はあの部屋で倒れたらしい。
そういえば部屋も、あの部屋から別の部屋に移っている。ここはどこだろうかと周りを見渡すが、部屋の雰囲気などはハイマート王国にある宿屋の部屋とそう変わりが無い。変わっているところと言えば、装飾品の色合いがハイマート国内でよく使われている暖色系ではなく寒色系であるくらいだ。そうして、ようやく自分の身体がベッドの上にあると気付き、倒れたことを実感する。
エイブロはベッドの傍に置かれた小さなテーブルで、何かを書きながら状況を説明してくれた。倒れてから数時間経過していること。テオロギアの内容はかいつまんで皆に伝えてくれたこと。無理に思い出す必要なく、とりあえず安静にしてほしいこと。ノウゼンがハイマートのテオロギアと合わせ、その内容を解読すること。――自分が、テオロゴイという分からないものだということも。
「そっか……ありがとう、エイブロ、皆」
「どういたしまして」
「こちらこそ。ティリスが目を覚ましてよかったわ……」
「エイブロがお前だけ連れて行くから、こっちは心配だったよ」
安心したような雰囲気が全員から漂ってきて、こちらも安心した。迷惑をかけてしまったのだから、しっかりと休んで動けるようにならなければなるまい。
覚悟を決めて息をついていると、研究者の青年はふむとこちらを眺めていることに気付く。何でしょう、と問いかけると、何もないとばかりに首を振られてしまった。今日はなんだかよく視線が合ってもあしらわれている、何故だ。そう言えば疑問もかなり残ったままだし、今日はそういう日なのだろうか。
「とにかく次のテオロギアだな。テオロゴイであるクラベスの目的は分からなくても、テオロギアの内容を辿っていけば何か分かるかもしれない」
「次の……竜族が持つ、テオロギア、ですか?」
ハイマート王国のテオロギアで示された、その内容。そして今回のテオロギアでも出た「空の支配者」――それは、間違いなく竜族なのだという。こんなに他種族と関わる機会が訪れようとは思っていなかったため、今更のように緊張する話だ。
いつ頃出発するか、何を揃えて行くか。そんな話をしていたその時、部屋の扉に軽いノック音が響いた。少年が扉を開けに行くと、そこには淡い水色の衣装を身にまとう老人――ニア族長がそこにいた。
「族長」
「――前の時は、お前を見送ってやることが出来なかったからな」
「止めて下さいよ、仮にも一族長である貴方が。俺はリヴェーオですけど、今はエイブロです」
椅子に座り直した少年は、にんまりと笑んで族長の言葉に応える。知の民・エルフでありながら、人間が住まうハイマート王国にやって来たエイブロ。まだ彼がエルフの里から出てきた理由は聞けていないが、少なくとも――後悔していないことは、明確だ。
「また戻ってきます。貴方達が知ることが出来なかったものと大事な人を携えて、必ずまたここへ。ここは、俺の故郷ですから」