序幕 降り止まない雨の夜に
これが、一番古い記憶なのだろうか。
強い雨に打たれ、息を切らしながらも先へ先へと走る兄の背中。背後からは地面の上を何かが這いずる音。滑って掴みにくいだろうに、決して離さないと言わんばかり、赤くなるほど強く握られた自分の腕。雨の雫、枯れた葉、泥濘んだ地面――青でも赤でもない、黒い何かに覆われた空。
兄の姿と周りを見ていたら、何か硬いものに足を引っ掛けたのかつまずいて、視界が反転した。悲鳴に近い叫びが、自分の危険を教えてくれる。振り返れば歪な異形の腕とまだ小さな兄の腕。覚悟できない死の恐怖に、腕で庇うことも忘れて二つを映す。その二つの異なる腕が自分に覆い被さったところで、その景色は突如終わりを告げた。
より低い声が、自分の名前をはっきりと呼ぶ。その緊迫したような音量と、焦りと、何より身体を揺さぶられる感覚に、はっと瞼を開いた。眩しい、明るい――ようやく光に慣れた目が映したのは、くすんだ金色の髪と、泣き出しそうな程淡く揺らぐ瞳だ。朝海の色に近いくすんだその色は、確かにこちらを見て安心していた。
「兄さん?」
「よかった……まじで、よかった」
明らかな息の付き方に疑問を覚えながら、ゆっくりとベッドから起きる。どうやら自分は寝ていたようだ。だがいつから寝ていたのかがはっきりと思い出せない――確か、エルフの村を出たのは覚えている気がする。一旦鉄の森に入った気もする。だがその後は――一人で記憶を探っていると、自分の枕元の方からことりと音が聞こえて意識が逸れた。サイドテーブルに桶が置かれたのだ。その桶を置く少し細めの手の先を、腕を辿ってその端麗な顔を見詰める。
「ノウゼンさん……私、どのくらい寝てました?」
「丸二日だ。その日のうちに宿をとってやれば良かったんだが、雨で色々と動けなくなってな」
事はどうやら、鉄の森に入った直後に起こったらしい。倒れた私を運び、彼らは鉄の森からわざわざ牧場の町・リベルテへ行ってくれたのだという。きっと戦闘もあったはずだ、かなり心配と迷惑をかけた気がする。
即効性の回復手段を持たないギルドは、その場しのぎの回復魔法しか使えない。今回のように誰かが倒れた場合――特に、回復魔法の役割を果たす光属性を扱う者が倒れる場合――どんな戦闘であってもパーティー壊滅の危機にさらされる。膝を軽く抱え、申し訳なさに肩が沈んだ。
「とりあえず、今日はもう少し休め。明日、お前の体調を見て行動の内容を決めよう」
息をついた青年は、銀糸のように美しい髪を揺らして、部屋の扉から音を立てず出ていく。青年の背中をじっと目で追っていると、不意に兄が桶に手を伸ばした。大きく逞しい手が、夢で見たそれと重なる。
――あのとき。何故魔物に追われていたのか。あれはどこなのか。そもそもあのときには、親もいなかったのか。疑問だらけで頭がこんがらがりそうだ。懐かしいような、苦しいような、よく分からない感情がごちゃ混ぜになって押し寄せる感覚――真っ先に悲鳴をあげたのは、頭だった。頭痛に呻いて反射的に屈むと、兄が慌てて支えてくれる。
見上げた先の表情が、夢に出てきたあの幼い兄のものと変わらない。なおのこと悪夢を思い出させる、なんて言ったら、彼は傷ついてしまうので言わないが、それにしてもよく似ていた。視線を逸すことで対処するしかない。
頭痛はまだ治まりそうにない。絶対に一番古いと確信できる記憶が、何故あの瞬間なのかも気になるところだが、それよりまずは。
「ティリス」
「――兄さん、私たち、お母さんとお父さんっていつからいないんだっけ」
心配して名を呼ぶ彼に、一つの問いかけを投げる。質問の意図を理解していないように首を傾げる兄は、重ねた年の割に少し幼くも見えた。
「あの雨の日には、もう、いなかったんだね。私、何だかずっと忘れてた気がする」
親。育てた親ではなく、自分たちを産んだ両親の話。本当なら身の安全を守ってくれるはずの――親を知らないので、その役割は怪しいところだが――存在するはずの人たち。仲間には確かにその存在がいた形跡があるのだ。
ギルドの癒しにして、歌姫であるユティーナ。彼女の母は花の国のキャロル姫、父親はいなくても子が出来るという種族なのだという。その元を離れた時のことは思い出せないらしいが、彼女の腕の温もりや笑顔は忘れられないと話していた。彼女には、確かな母親の存在がそこにある、そして生きている。
ギルドの情報屋であり、つい先日知の民エルフと判明したエイブロ。彼の父母は、エルフから離反した後、死んでしまったという。だからエルフの中でも胡散臭いあの男の元に弟子入りするしか術がなかったとか。だが一緒に生きていた時間が少なくともあり、彼は細部まで記憶していた。その厳しさも優しさも、受け継いだ全てを失くしてはいなかった。
ギルドの軍師的な立ち位置で、研究者のノウゼン。彼の父は十年程前に亡くなったのだということは、随分前に聞いた気がする。母親は時折家に帰っているとか、時折国中を飛び回っているとか。何にせよ、自分のことを一番話さない人だが、一番父母を尊敬しているように見えるのは彼だ。
だが自分や兄は、どうなんだろう。私達の父母は、どこにもいない。いたのかも分からない。思い出せるのは、育ててくれた黒髪の、青年のことだけ。愛してくれたのも、ハイマートの学校に入れるよう取り計らってくれたのも、生きる術を教えてくれたのも。
「ティリス、」
「可笑しいよね。一番古いの記憶の中に、お母さんもお父さんもいなかったなんて。私、七歳だったはずのに」
「……ティリス」
「ねぇ。私たち、何があったの」
自分が七歳ならば、兄は十歳のはずだ。もう少し古い記憶――自分が知らない、昔があったっておかしくないはず。だが、得られた答えは、いっそ不思議なものだった。
「俺にも、分からない。俺だって、いや、俺なんか十歳だぞ、最初の記憶が」
ここまで来れば意図的、だろう。夢の中に出てくる少年がいるくらいだ、記憶のある点から先を忘れさせる、なんてことももしかしたら出来るのかもしれない。神という訳の分からない存在を知ってしまった以上、不思議なことが起きても不思議ではないか。ため息をもう一度吐けば、少しだけ頭痛が和らいだ気がした。
「最初の記憶は」
「雨の日に魔物が追いかけてきていて、お前の腕を引っ張ってた」
「……だよねえ」
予想通りすぎる答えに、頬が緩んでいく。いつしか、悪夢であったことも忘れて、笑える日が来るはずだ――そう信じて、甘やかしてよと兄に軽くハグをした。
酒場に降りると、兄以外の仲間が何やら紙を広げながら話し合いをしているところだった。真っ先にこちらに気付いた黒髪の少女が、慌てて駆け寄ってくる。心配をかなりかけてしまったようだ――まだ心配をかけそうな状態ではあるのは確かだし。軽く手で彼女を制してから、迷いなく話し合いのテーブルへと向かう。
「ティリス、体調が戻らないのなら、あまり」
「ちょっとは大丈夫になったよ。――それよりも早く竜の谷を見つけなくちゃ、クラベスがなにか仕掛けてくる前に」
気を遣って声をかけてくれたのは、赤髪の少年だ。先日エルフであることを話したからか、どこか表情に柔らかさが加わった彼は、こちらの言葉を聞いて紙の一枚を渡してくれた。手にあまり馴染まない羊皮紙に、兄の服の袖を引きながら目を通す。
紙に書かれているのは、次の目的地である”竜の谷”についてだ。国王が見せてくれたテオロギアに書かれていた一文――”白きは黒きを求めて彷徨い、黒きはまた白きを求めて彷徨い続ける。知の民は白きによって綴られたが、空の支配者もまた白きによって紡がれた。しかし黒きはそれを認めない”――この文の内、知の民エルフの里に置かれたテオロギアは、解読を終えた。そのため、もう一つに掲げられている空の支配者竜族が持つと思われるテオロギアが目的だ。エイブロからの情報で、竜族の住む谷の場所を特定している最中のようだ。
「……やっぱり、うまく情報って出ないよね」
「長老も鉄の森のどこかに入り口があるっていうことだけしか教えてくれなかったしな」
「多分、結界で見えないようにしているんだろう」
研究者の青年が紙を軽く叩いて、こちらに視線を寄越してきた。結界で続いている道が塞がれている案件は、ついこの間出会ったばかりだ。そして、魔法による結界の解き方を知ったのも、つい最近。
「何でこっちを見る」
「結界についてなら、エイブロに任せるのが一番だと思ってな。そういった魔法の気配を感知できたりしないのか?」
「間近まで行けば少しは分かるけど……鉄の森で歩き回るのは、ちょっと得策じゃない」
うーむと悩む皆の傍、兄が一人で、紙とにらめっこを始めている。以前森の地図は見せてもらったので、その記憶と照らし合わせているのだろうか。だがそれもすぐに終わり、うーむと彼まで悩み始めた。こうなると埒が明かない、紙をテーブルに置いて、簡略化された森の図の中心に指を指す。
「ここっていうことはわかってるし、行ってみようよ。行ったらわかるかも知んないし」
「……お前の性格、こういうとき楽だな」
「え、なんですか、ノウゼンさん?」