第一幕 燦々と輝く竜の谷
ハイマート王国の東端、太陽の光もろくに入らず、一部の許可ある人間しか入れない森のことを、人は鉄の森と呼ぶ。その奥部にて、赤髪の少年は深く息をついた。匂いが耐えられないということで張られた半透明の結界内で、彼は一人静かに目を閉じている。息を誰に指示されることなく詰めていると、ふと、集中した彼が何事かを呟いて地面に軽く手を乗せた――
「おおぅ……」
ふわり、と浮くような、足元が揺らぐような。そんな体験したことのない感覚に戸惑っていると、兄が自分の腕を引いて一歩下がる。強制的に離れたその地面は輪郭を揺らめかせ、やがて何もない空間が下方へ生まれた。
エイブロの情報によると、村の長老が教えてくれた”鉄の森に「竜の谷」への入り口がある”ということと、森の地図を照らし合わせた結果、いくつかの場所に谷への入り口があるのではないかということであった。そこで、出来るだけ探し回るのは控え、ユティーナが使える結界魔法の効果時間も含めて相談し、二箇所に絞り込んだ。そして、その相談の結果、見事一つ目で当たりを引いたらしい。
出来上がった、あるいは隠されていたというべきか、谷底深くには暗闇が広がっている。しかしそれが本当に暗い闇だと思うものは、このメンバーの中にはいなかったようだ。全員に視線を配られ、すかさず用意していた光魔法を使えば、相殺して魔法の闇は消えていく。闇魔法――ギルドメンバーのユティーナが使うそれは、旅と彼女の知識共有によって、それほど珍しくもないものとなっていた。まだまだ故郷では存在も知られぬものだが、少なくともギルド内は当たり前の魔法だ。
木々の隙間からほんの少しだけ漏れる太陽の光が、谷の崖を導くように照らしてくれる。道筋のようなそれに沿って、兄は剣を背負い直し、崖の縁に手を掛けた。
「兄さん、大丈夫そう?」
「おう。降りる時、風魔法は念の為使ってたほうがいいかも」
どうやら崖の何ヵ所かに、足場に出来る箇所があるようだ。勢いよく降り立った兄は、足元と周りの安全を確認し、こちらに合図を出す。紐もなし、魔法もなしに足場を降りる彼の身体能力に、ほぼ全員が息をついた。これだけは十数年一緒に過ごしていた身としても、かなり不思議だ。
「相変わらず獣だな……紐なしに降りるか」
「まあ兄さんだからね。エイブロと私でサポートするよ、ノウゼンさんとユティーナは待ってて」
研究者の言葉に苦笑して、エイブロが用意してくれていた紐を取り出す。太く硬めの紐を木の幹に結びつけ、降りる準備をさっと終わらせた――この辺りも、一年以上続く旅で習ったものだ――そして、少年と同時に次の足場へと降り立つ。研究者や黒髪の少女が同じ紐を使って降りるところを支えつつ、次の足場へと紐の先を移動させた。
四、五回程、別の足場へと降り立った頃だろうか。ようやく見えた谷底に兄は既に足をつけていた。途中目印代わりにエイブロのナイフが足場に刺さっており、その通りに降りれば安全だ、と兄は笑う。
「私はそのまま降りれそうね」
「槍、途中で引っ掛けて折るなよ」
サポートに慣れた少年に二人を任せ、槍袋を背中の紐から外す。風魔法の呪文を唱えてから、崖の先から勢いをつけて飛び降りた。地面に落下する前に槍袋を両手に持って腕ごとあげれば、ふわりと自分の身体は落下速度を落とし、ゆっくり谷底へと近付いた。
「ここが……竜の谷」
思わずそう呟いたのは、谷底が崖の上から見るそれとまるで違ったからだ。鉄の森の歪んだような色合いとはまるで正反対、花間の村アウディアで見たような花畑が、そこかしこに広がっている。おまけに山でしか見たことがない滝まで、花畑の近くに流れているのだ。エイブロは竜の谷を一種の理想郷などと呼んでいたのだが、それも間違っていない。
やがて、全員が無事に谷底に降り立ち、エイブロが紐を回収しきった。その時、兄だけが花畑ではなくかすかに見える奥の建物を眺めていたような気がして、声をかけた。
「兄さん?」
「あ、いや、何かさ、初めて来た感覚しなくて」
えへへ、と照れ笑いする彼は、すぐにその建物から目を逸らす。その反動でつい、その建物へ視線を向けてしまった。遠くに見える建物は、恐らく木造の家だろうーー遠くなので、細部は見えないが。
谷底の壁を沿うように皆で移動しながら、周りを見渡す。鉄の森では見えなかった太陽の光が何故か差し込んでおり、岩陰から湧き出る滝の水面に反射して煌めく。
谷の壁を伝うように歩き、先程見えた建物の方へと向かっていると、程なくして二つの人影を発見する。魔物ではない、この距離で、しかも相手にもこちらの姿が見えているのに近づく気配もない。ナイフを準備するエイブロを全員でこっそり牽制しつつ、自分も槍袋の紐は解いておいた。話せる相手だといいな、どこか他人事のようなノウゼンの言葉に苦笑する。
「この谷に何用だ、人間よ」
警戒して近付くと、その人影は言い慣れないように言葉を紡ぐ。若干聞き取りにくい言葉をなんとか頭の中で整理し、槍袋を背負い直す。門番的な役割だろうか。明らかに元々立っていたものでないようなので、自分たちが降りてきたことを合図にでも寄ってきたのか。
「竜族族長にお会いしたいのですが」
「ならん。竜族以外は通さぬのが規則だ」
一言。ばさりと切るような言葉に目を丸くする。いや、分かっていたことでは合ったのだが、ここまで拒絶されるとは思っていなかった。
エイブロの故郷、エルフの里で聞いた話では、竜の谷は何度も人間に攻められたことがあるという稀な土地だという。目的は谷でしか取れない貴重な鉱石と花、そして竜族の支配と統治ーーその攻撃の反動が、故郷ハイマート王国に訪れた竜族による空襲だという。とはいえ当時は魔法文化も廃れてはおらず、魔法使いたちによって討伐された。これは学校の授業でも習うことなので、ある程度の学に触れたものであれば知っている事実だ。
入れなければテオロギアは恐らく閲覧することも、話を聞くことも難しいだろう。何せエルフの里でさえ、その中身を見せてもらえたのは自分が綴る者であるテオロゴイだからという理由で。眉間に皺を寄せた門番のようなその人たちに、入らせてもらおうと半歩踏み込んだその時だった。
「……帰られよ、旅人。谷の奥へ入ったからと言って、テオロギアが読めるわけではない」
テオロギアの単語が出た瞬間、全員が自分の武器に手を触れさせる。思わず自分も槍袋の入り口に手をかけながら、目の前に立つ二人の門番へ疑いの眼差しを向ける。何故知っているのだろうか、テオロギアを見たいというそれは、故郷の国でも国王とその側近しか知らず、エルフ以外に話をした覚えはないーーいや、もしかして既にあの黒髪の少年の手が回っているのだろうか。
「何故それをーー」
「知らぬか、テオロゴイの娘。ならばなおのこと帰る方が良い」
確信する、情報が漏れた訳でもなんでもない。ただ彼らが、自分のことをテオロゴイだとーーテオロギアを求めていることを知っているのだ。あるいは見抜いたというのが正しいのか。エルフの族長でさえ、自分がテオロゴイだと知っていなかったようだが、竜族はなにか特殊な能力でもあるのか。
さて。どうするか。完全に煽られているのが分かっていて、今更引けるはずもない。だが言葉が通じる相手との戦闘は出来るだけ避けたいところだ。
「そういうわけにもいきません。クラベスについてのヒントがあるかもしれないんです」
「なら、力ずくで通るのだな」
「力ずくで良いの。じゃあ全力で押し通るわ」
呆れたため息にかちんと頭の奥で何かが鳴って、槍袋に手を突っ込む。取り出した槍で袋を軽く持ち上げ、ベルトに結びつけた。杖とナイフと、剣と弓のいつもの音が後ろから立って、戦闘準備が完了したことを知る。相手も迎撃体制に入っており、戦闘はもう避けられないようだ。有体を言えば喧嘩を売られたのだから、買うしかない。
「ここは我ら竜の民の故郷の地」
「ここは我ら竜の民の安息の地」
「人間はこの谷に入ることを許されておらぬ」
「人間はこの地を踏むことを許されておらぬ」
「人間は脆い」
「人間は弱い」
「故に人間を竜の民は歓迎しない」
歓迎されていないことなど、とうに知っていた。それでも口にされれば、あぁ本当にそうなんだなと納得せざるを得ない。納得したから、遠慮なく刃を向けることができるのだ。
だが、呆気なく終わると誰が予想できただろうか。息を荒く吐く番人たちを見下ろしながら、研究者の青年は構えていた弓を降ろした。
ものの数分の出来事である。誰よりも早く、正確に彼らの足を止めたのは、ノウゼンであった。それは正しく雷のごとく、竜たちの弱点をついたらしい。
ほとんど何もしていない自分たちは、その様子をただぽかんとながめていただけであった。
「ノウゼンさん、つよ……」
「生憎、竜とは少しだけ面識があるからな」
「……初耳なんですけど」
「言ってないからな」
む、と頬を膨らませると、兄から何故かまぁまぁと止められる。そういうことは――と言うのもそろそろ飽きてきた。
ふと聞こえた足音に振り返る。そこには一人の女性が、簡素な格好で立ち止まっていた。番人たちをまるで傍に従えるようなその立ち位置に、視線が釘付けされる。
彼女は、確か、どこかで。
「番人たるもの、音をあげるのが早いわ」
「申し訳ありません、」
静謐なその声に、番人たちが項垂れたまま答える。どうやら上の存在らしい、そこまで考えたところで、記憶の中から彼女の姿を見つけ出した。
アルストメリア城のあの、門の前。ユティーナを探していた自分たちの前に立って、話をした、黒髪の女性。
ぱちくりとその姿を眺めていると、黒髪に柘榴石の目を覗かせた女性――ローリエは、こちらを向いて静かに微笑んだ。
「インペグノの方々は族長に会いに来たのかしら」
「え、ええ」
「案内したいところは山々なのだけれど、今族長はいないの。私で良ければ話を聞くわ」
その言葉に、少なくとも偽りは感じられない。慌てて首を縦に頷いた自分を見て、彼女はそのまま歩きだした。
故郷ハイマートに花園はない。花の咲かない土地だから、当然それを寄せ集めた花の楽園など存在しない。
だが、竜の谷は違う。かつてアルストメリアでも見たような、広大な花の園が、そこら中に広がっているのだ。赤、黄色、青、紫、白――これほどの色彩様々な花たちの園を、今自分たちは目の前にしている。出迎える花たちの中を進のは、どこか贅沢をするような気分だ。
手を伸ばせば届く場所にある、花。アルストメリアでは『育てた』と言っていたが、目の前にあるものは十中八九『自生』だろう。見事だ、とノウゼンが呟くその隣で、思わず感嘆を漏らしていた。
「谷の中に、こんな綺麗な場所があるなんて」
「花畑はハイマートじゃ珍しいものね」
しゃがんだローリエが手にしたのは、小さな花だ。なんという名前の花だろう、鮮やかで、美しい花だ。
「竜族って、ずっとこの谷で過ごすんすか?」
「別にそういうわけではないけど、外に出てる子は珍しいわね」
そういう彼女も外に出ている人ではないか、と無粋であることは承知の上で言い足す。彼女が目線を落としながらなにか口にしようとしたところで、また別の声が重なった。
「どの時代、どんな場所にだって例外は付き物ですよ」
その声は、聞き覚えがあった。
否、聞き覚えというそんな小さな気付きなんかでは収まらない。もっと懐かしくて、もっと脳に響くような、音で。
「ミラーレ、貴方は家にいて頂戴と」
「気になって出てきたのです。来たのが私の知り合いだと聞いてしまったものですから」
その姿に。驚きよりも涙が出そうになってしまい、慌てて兄の後ろへと隠れた。その兄は剣を落としていただろうというくらい、ぽかんと姿を眺めていた。
「ミラーレ、あなた知り合いだったの」
「ええ、まぁ」
「ティリス、だれ、この人」
「ええと……私たちの育て親。学校いくまではお世話になってたんだ、一応……」
一応という言葉も、なんだか不適切な気がする。だって彼は間違いなく私たちの育て親である。ただ数年も一緒にいないだけで彼がその立場から消えてしまうことはないのだ。
ふと彼が自分たちの後ろへ視線を向ける。まるでそこには人がいるみたいに……いや、いた。
全体的に濃い藍色で統一された、旅人用の服。おそらく動きやすさを重視したのだろう、短めのマントは簡単に風にはためいて、中の人の趣を知らしめる。
「貴方も元気そうで安心しました、ナヴィリオ」
「あれ、バレてた?」
「番人を舐めてもらっては困りますね」
ナヴィリオ、その名前に真っ先に思い当たったのはエイブロだったようだ。すぐさま彼はこちらへ耳打ちしてくる。フォブルドンの将軍だ、と。
その話で思い出したのは対峙したときの話だ。
「クラベスの調子はいかがですか」
「元気も元気。有り余ってるぐらいだな、日々楽しんでるみたいだぜ」
だが彼はあの時のような様子を一切見せることなく、ミラーレと話をしていた。それこそ数年、いやもっと昔からの仲であるような。
「……良かった」
「まぁ、最近顔を見せないものね。竜の谷の番人なんだし、挨拶しに来てもバチは当たらないと思うけど」
「彼も大変ですから」
「んー、そうだな。レオノスと一緒にどたばたしてるし。あそこまで仲良くされちゃ、こっちの出番はねぇな」
そこまで話を聞いてようやく何かがおかしいことに気づいた。ミラーレは、一体何者であるのか。いやそもそもローリエやナヴィリオたちと話していることもそうだけれども。
「ミラーレさん、クラベスを知っているんですか!?」
「おや、質問みたいですね。すみません、ローリエ。彼等を僕等の家へ連れていっても良いですか?」