終幕「再出発の約束」

 その日の宿は、いつもの私と兄が王都へ戻る度に使っている宿を使った。いつも使っている宿というだけあって手続きはすぐに済み、"当日泊まりのみ"という欄に丸を付けて二階の指定された部屋へと向かう。ちょっとしたことでは変わらない、いつも泊まっている部屋。他にも空いている部屋はあったが、きっと女将も一晩だけという所に気を利かせてくれたのだろう。
 荷物を置いて旅の準備をし始める、いつも使っている少し固めのタオル類は二つだけ、切らさないようにと携帯食料の備蓄も万全、愛用の青いブランケットもきちんと丸めて鞄の底にしまった。――この一年間で手慣れてしまった旅の用意、明日旅立つことに なっても慌てることなく必要な物を用意し、荷物としてまとめることが出来る。それが嬉しくてしょうがなくなったのはここ最近の話だ。
 軽いノック音が部屋に響く、返事もせずに荷物をまとめているとリズムよく鳴らされるそれに苦笑し、どうぞと声を掛けた。事前の読み通り入ってきた金髪の男に笑いかけ、ベッドの端へと少し寄れば彼は隣へ。心配してきてくれたのだろうか、それともただ様子見をしに来たのか、どちらにせよこうして旅立つ前日は必ず部屋を訪ねるのが兄の心遣いだ。

「次にここへ来るのは、エルフの森から帰ってからになるかな。ちょっと寂しいね」
「だなー、次は何日くらいかかるかな。なるべく長居して、遅く帰りたいな」
「え?」

 伸びやかな声とその内容に驚き聞き返せば、兄はニッコリと笑ってベッドに背中を預けた。ぽふん、と軽い音を立てて彼はベッドの上に寝転がると背伸びをし、その鮮やかな朝海の瞳をゆったりと閉じる。依然その口元は歪められていて、いつもよりも嬉しそうに見えた。

「だって、もう別れちゃうかと思っていた連中とまた旅ができるんだぜ。長くいっしょにいたいだろ」
「あ、うん……」
「それに、前より仲がいいし、心配事は殆ど無いと思っていい。最高じゃん、仲間が多いまま旅を続けられるなんて」

 小さく笑い続ける兄の口調はいたって穏やかで話しやすい、ついつられるように笑みを溢せば彼もまた笑い続ける。特別意味もない笑みが部屋に谺し、兄の真似をするように口元へ笑みを浮かべれば、彼は更に白い歯を零すように笑った。
 私たちギルドは、国王陛下・フェンネルからの依頼でエルフが住むという森へと行く。目的は敵国軍師でありながらここハイマート王国の歴史書、テオロギアに関わっているというクラベスの情報を詳しく掴むため。エルフにもテオロギアが伝わっている可能性が高く、そちらにもクラベスは関係している可能性があるようだ。それを調査しに行くのが今回の行動予定となるだろう。ただ、険悪な仲を築いてしまったエルフと人間、私たちが行ってちゃんと取り合ってくれるかははっきり言って謎である。――それでも、彼らと行くのならば何でも出来そうな気がして。

「ふふふ、あいつらといると楽しい」
「確かにそれは言える。何だか不思議と癒やされるよね……それに、全く同じメンバーだし」

 主にあの黒髪の歌姫の存在が特に癒やしとなっている、残り二人もまた、やはり話が合わせやすいことから雰囲気が保たれるし、何だかんだ言ってあのギルドはバランスがいい。偶然出会い再会した三人だが、こうしてまた一緒に旅ができると本来の目的を忘れて嬉しい。
 この旅人という界隈では、長く一緒にいるものとそうでない者の差が激しい。平和な国だが自然にはめっぽう弱く、例えば雪山で有名なシュテルンから伸びる山間はいつだって死の通り道、ハーフェン北側に位置する天上の丘は一気に空気圧が高くなる危険地帯だ。国からもその地域を旅するならば覚悟を、なんてお触れが出ているほど。そんな中行ったことも前情報もあまり無い地で旅をし、無事に帰って来れただけではなく、また一緒に旅を続けられることがどんなに幸福か。
 兄が自分の部屋へと帰るところを見送りながら、自分の荷物をそっと傍らへ寄せて抱える。もう明日にはこの宿を出て彼らへ会いに行くのだ、少しばかりの寂しさを安らげる為にベッドのシーツをめくった。


 あの少年とは自分から会いたいと願えば、夢で会えるような仕組みとなっていたらしい。だが今までそうであったように、向こうから呼ばれた時には強制的に夢を見るらしい。目を開けたそこが銀色の世界だったのは驚いたが、この数年間で慣れきったことだ。深々と降り積もっていく白の合間、黒い影を見つけて前へと進む。

「……クラベス」
「やあティリス、調べ物は順調に終わったようだね」
「ええ、シエラの研究室もちゃんと見つけられたし……その、ありがとう」

 段々と小さくなっていく自分の声に戸惑いながらも、何とか礼を言えば少年はくすくすと笑い声を漏らした。彼のヒントがなければ恐らく、あんな場所にあった研究室は見つからなかった。彼のことを調べていたのだから、少なくとも今回は味方してくれたことになる、それが良いのか悪いのかは置いておいて。

「礼を言われるようなことはしていないよ。僕もあんなことで手間取らせるのは申し訳なくてね」

 あんなこと、と言われてさすがに苦笑したのは、探すのに半日を先に費やしてしまったからだ。もっと早くに言ってくれれば良かったのに――と、恨みがましく思うのは失礼か。確実に彼にしかわからなかったことを教えてもらったのだから、今回は、そう今回は。
 少年はこちらへ向けていた視線を変え、何も無い白の世界へと移す。その瞳にはどこか懐かしさを感じるのは気のせいだろうか、瞳に映し出された雪原は果ても見えない。此処から決して見えない遠く遠くを見つめているような、そんな曙空色の瞳に吸い込まれるそうな気持ちになりながら、その唇が開くまで黙っていた。

「……シエラの研究室から見える風景、良いだろう。僕はまだ直接行ったことはないんだけど、あそこは本人もすごく気にいっていたみたい」
「――奇遇ね、私も好き、綺麗だった。昼間に見るのもいいけれど夜に見ても綺麗だと思う」
「夜?夜も綺麗なの?」

 楽しげな声を発して再び振り返った彼の瞳は輝いている、余りにも珍しい声音に首を傾げながらもその問に答えた。

「ほら、エスペラルって港街でしょう。明かりが綺麗かなって」
「なるほど、街の方だね……僕は夕焼けが良いな。草原を赤く染めるあの光の波が良い」

 言われたことを想像して我知らず口元を歪め、忍び笑いを漏らす。ああそれは絶対に綺麗だ、あの新緑の草原が夕陽の光によってグラデーションになって色を変えていく所は何度も見てきたが、いつ見ても美しい。馬車の中から何度も見たがあの光景は、飽きずにずっと見ている事が出来る。私が笑ったのがおかしかったのだろうか、少年は嫌そうな顔をしてこちらを睨みつけた。

「悪いかい」
「ううん、全然。あなたが普通の人間で良かった」
「どういう意味、それ」
「だって今まで夢の中でしか会えなかった。現実では知らなかった色なのに、その髪色と瞳の色を持っていた。ずっと、夢の産物だと思っていたの。あー、私こんな人に会いたいのかな―なんて。全然会いたくなかったけど」

 だが実際こうして話す機会が増えてくると、どうにも楽しいと思う事が出来てきたようだ。今まで名前を呼ばれ、知らないと答えたら思い出したら言ってと返されて、それだけの夢だった。確かにそれだけでは会いたいとも思わないに決まっている、けれども現状はどうだ。話して同じ話題を共有出来る、存在すると分かっているから嫌味の一つも浮かんでくる、次はどんな会話をするのかうきうきして待つことが出来る。呼べば夢の中で会えると分かったし、彼と自分の立場枯からしてみればナイショ話が出来るうってつけの場所――もっとも、個人情報や機密情報を流してやる気はこれっぽちもないのだが――こんな所、こんな人、今までいなかった。
 少年は目をぱちくりとさせ、次いで口元に手を当てたまま肩を揺らす。どうやら私がまた変なことを言ってしまったようだ、彼が落ち着くのを待っていると、彼は数秒の間を空けてからようやく話し始めた。

「けれど、僕は存在していた。僅かな時間だったけれど会うことも出来た。それで、人間だったって喜ぶの?変な人」
「自分の妄想じゃなくてよかったっていう、安堵のね」
「――なるほど、確かにそれなら喜ぶ」

 そう言った彼は踵を返して背を向け、顔だけをこちらへ流すように見せて微笑む。周りの景色が黒い闇に染まっていく、少年の姿もどんどん薄れていって――ああ、夢が終わってしまうようだ。次はいつ会えるだろうか、また、願えば会えるのか。

「さてと、そろそろお別れの時間。――僕ね、この夢好きだよ」
「なんで?」

 即座に聞き返せば左目の眼尻をゆったりと下げ、唇の端を軽く持ち上げる子供、手を暗闇へ伸ばしながら彼はまだかすかに笑っていた。その薄紫の瞳に映すのは白い世界ではなく、私の姿だ。

「誰かに名前を呼んでもらえるって素敵だからさ。……エルフの狡猾さにやられないようにね、馬鹿正直ティリス」
「――え、ちょっ」

 いきなり変わった話題に、その背中を掴もうと手を伸ばす。しかもその内容は物騒で何故か私もけなされているという、意味の分からない忠告だ。けれども伸ばした手は空を切り、少年の姿は半透明なって触れることが出来なくなってしまう。火のない所に煙は立たないだろう、つまりそういうことさ。そう言い切って彼は、そして完全に消えていく。

「クラベス……ねえ、貴方は本当に何者なの」

 最後の最後に、彼はいつも何かを残す。まるでいつも、私に伝えるのが役目であるように。それは一体何のためなのか、何故私にここまで協力してくれるのか――彼に聞くことがまた一つ増えた。目を開けたそこがいつもの宿であることを確認してから、ベッドの中からカーテンの隙間から覗く朝焼けの空を見詰める、今日は何十回目かの旅たちの日。


 滞りなく手続きを済ませたその足で、王都の街門へと向かう。補佐官が馬車をわざわざ用意してくれたようで、野営地まで無料で乗せて行ってくれるらしい。おかげで野営地に泊まる必要はなくなり、エイブロの情報通りならば、エルフの森まで今日中に直行することが出来る。必要でない荷物は協会へと預けた、準備できなかった足らずの塗り薬などの用意は今朝終わらせた。全員の準備が完了していることも計二回確認済みだ、そう思い街門へ足を向けたのだが、そこで待っていた人影二つには大層驚いてしまう。
 こちらの姿を視認したのか、ふわふわのドレスを捲り上げて走ってきた少女は、黒髪の花姫へと飛びついた。肩口で切りそろえられた白金の髪が揺れ、その合間からにんまりとした彼女の笑みが見える。

「ユティーナ!やっほー!」
「え……わっ」
「ローダンセ様、あまり抱きつくと花の姫も困りますよ」
「ぷぅ、だって」

 呆気にとられて目を瞬かせるユティーナへ赤い髪の男は苦笑し、もう一人の姫を彼女から半ば強引に引っぺがす。淑女らしからぬ行動だがそれを咎められる者はおらず、周りの街人からの視線を思い切り集めているのだけを気にすることにした。そもそも歌姫はそこまで気にした様子もなく、地面に降り立った彼女の方を心配していたのだから、何か口出しする必要もない。

「私は大丈夫です。ローダンセ様、どうかしましたか?」
「お見送り。私はこの街で待っているしか出来ないから……絶対、絶対怪我しないでね。私、ここでちゃんと待っているから」

 その言葉に彼女へと視線を合わせ、僅かだが静かな時間が流れる。どうやらただ姫に会いたくてきたのではないようだ、彼女の視線は真剣そのもの。国の公姫がわざわざお見送りに来てくださる、そんなギルドになったのだなとつい、思考の片隅で考えて。
 ユティーナは言葉と姿勢を正して言おうとしたようだが、止めたらしい。普段使いの言葉に直し、国の姫の手を柔らかく両手で包んだ。優しい彼女らしい花が咲くような笑みを浮かべて、その言葉を彼女宛に紡ぐ。

「うん。次に帰ってきた時はまたお話きかせてね、ローダンセ姫――ローダンセ」
「うん。ふふふ、行ってらっしゃい、ギルド・インペグノ!」

 その言葉に頷き返し、用意された馬車へと乗り込んでいく。最期に乗る予定だったユティーナは、彼女へ耐え切れなくなったのか抱きついて、また真珠のように光る涙を目元に浮かべたようにも見えた。次の目的地はエルフの森――今度こそ何も知らない土地へ。
 

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