第三幕「黒き少年が残した残響」
――昔から図書館には深く踏み入ったことがなかった。学校にも街にも建物はあったのだが入る機会は少なかったこと、それから単に口うるさい規則の数々に飽々して耐えられなかったことが原因だ。育て親には"本を読まなければ知識を手に入れることなど難しい"と言われて仕方なく本を読むことはあったが、それも彼が所有していた本だけの話。それ以外は手に取って読む気になれなかった事が多い。だからこうして旅をするようになり、さらに本という存在から離れていったのは仕方ないと思っていた――
手で触れたその書物には、黄金の美しい洋装が施されていた。目を引く紋様が端々にあちらこちらに描かれ、輝く金具によって角や背表紙が守られている。どんな本よりも厚く、どんな本よりも大きく、今まで見たことは絶対にないと言えるほど巨大な本だ。見る人を魅了にする技巧が凝らされた国一の書籍、けれども研究者は明らかに本の存在そのものへ驚愕していた。
歴史書――テオロギア。それは、ノウゼンさんが研究している古い書物のことらしい。実際この目で見るのは初めてなのだが、彼は違うはずだ。それにしてもかなりの驚きようだ、どこでもあるわけではないことは理解出来るのだが、そんなに驚くことなのかとつい言葉にしてしまう。
「テオロギアって、そんなに珍しいものなんですか」
「珍しいどころの騒ぎじゃない。俺が研究に使わせてもらっているのは写本、しかも一部だけしか残っていないものだ。――こんな風に、原本でかつ読める状態にあること自体が信じられん」
つまり、本物がそもそも形として残っていることが凄いということか。改めて巨大な本を凝視する、今も上から降り注ぐ淡い光に照らされて神秘的な雰囲気を醸し出すそれ、確かに特別なものではあるというのは分かる。内容を想像するには経験が足りず、どうしても気になってしまう。
王はその本の表面に触れ、古き文字の羅列に細い指を滑らせる。魔法使いたちが憧れるその言語を理解することは出来ないが、先に歴史書と聞いているせいかどことなく身近な物であるような気がした。やがて沈黙を迎えていた時間に区切りをつけ、王は話し始める。
「このテオロギアは私達が持ってきたものではない。八年前の革命時に初めてこの部屋の存在を知り、この本と出逢った。――読んでみるといい、君ならば読めるだろう、雷の研究者……いや、古書研究の第一人者よ」
差し出された書物を受け取り、青年はその頁を慎重に捲る。普段の癖だろうか、本の表面に王と同じように指先を滑らせながら読んでいるようだ――そう、彼は明らかに見ているのではなく読んでいた、私たちでは下手すれば一文字も読めない可能性のある古語を。そういえば独学で古語を勉強したとかそんな話を以前にもしていたような気がする。それにしてもこれで魔法の詠唱には古語を使わないというのだから不思議な人である。
しかし、その指を不意に止めた彼は本から視線を上げた。沈黙が耐えられなくて失礼します、と一言断ってから本の中を見る。やはり、私では読めない。けれども覗き込んだ人間は私一人ではなかった、隣を見れば黒髪の少女が古語を見て目を細めていた。
「普通の古語……では無いんですね。何だか読みにくいというか、所々文法がおかしいような」
「一番古い古語だ、テオロギアに使われる古語は解読不可能な古語も多い」
「一番古い古語」
なんだそれは、古語に種類などあったのか。頭の中が勝手に混乱していくのは止められず、説明を求めて研究者を見上げる。しかし今は説明をしてくれそうになかった、彼は完全にこちらの意識など気づいていない。反対方向から少女はじっと古語を見詰め、諦めたように顔を上げる。
「色の名前しか分からない……黒と白が多いですね」
「前書きといって、この本がどういう内容なのかを示していることが多いんだ。――"黒きものが紡ぐのは白き書物、白きものはいつか崩れ落ち、この本を我に託す"」
それが本の内容なのか、眉を顰めて本を睨みつけてもさっぱり読めない私が理解出来るはずもなく。青年の言葉から本の内容を予想するも、あまりに抽象的なそれから何を読み取れというのか。回らない頭の中では意味のない思考など、からからと音を立てることもなく転がるだけ、答えなど導き出せるはずもない。
「……全然わからないんですけど」
「それでいいのさ、俺もわからん」
読んでいる彼の手に負えないのならば分かるはずがない、早々に諦めて彼に託せば、青年はまたゆったり頁を捲り始めた。数秒経っては一頁、また数秒経っては一頁。恐らくかなり速い速度で読んでいるのだろう、王や入口付近で待機する近衛隊長も短い感嘆を漏らしていた。つくづくこの人は本当の研究者なのかと思うのだが、今日に限ってはむしろそうとしか見えなくて。彼は言っていた、父親が残した研究でのし上がりたくなど無いと、自分の力で周りを認めさせたいのだと。そして彼は本当に自分から切り開いてここに立っているのかもしれないと思うと、充分研究者として格好良かった。
やがて短くも長い読書の時間は終わりを告げる、真白な頁に辿り着いた所で書籍から視線が逸れ、読み終えた彼は長く息をついた。長いまつげがゆるりと降ろされ、しばしの時間彼は考えるように黙って目を閉じている。
「……中身は、この国の歴史と言ったところでしょうか」
「ああ、それは神官長にも確認してもらった。問題はその先だ」
「先――」
もう一度瞼を持ち上げた青年は本の頁をぱらり、ぱらりと文字を探しだすために捲っていく。すると途中からまた文字が書きだされており、青年は読むことに集中し始める。それにしても変な本だ、こんなに中途半端な頁を残して途中から書くなんて。昔は紙が貴重だったと聞いているし、きっとこの不思議だと思う感覚は正しいと思うだが。
突然青年は顔を上げて王を凝視する、気付いたか、そう口にする国王の言葉に答えることもせず、その言葉に今度は本へ釘付けになっていた。恐る恐るユティーナは顔を覗き込んで、僅か首を傾げながら問いかける。
「ノウゼンさん?」
「ありえません、何ですかこのテオロギアは……!」
信じられないという表情を表いっぱいに出して、研究者は手元の本をまた捲り始める。また途中で切れているらしい、真白な頁に来た瞬間今度は前へと戻しては言葉の羅列に指を滑らしていた。焦っているようにも見えるその行動に、今まで黙っていた兄がとうとう動き始める。唇を噛み締め始めた青年の肩をそっと叩き、顔を振り向かせた。
「ノウゼン、どうした。落ち着け」
「――落ち着いてなどいられるか」
「お前らしくない。焦るな、別に時間は押していない」
念を押す兄さんの言葉に、青年の表情は若干だが緩んだような気がした。言った本人が全く焦っていないからだろうか、ゆっくりと息を吐いた彼はようやくその口を開いた。
「――この本は、ただのテオロギアじゃない。まだ今続いているテオロギアなんだ」
「……どういうことですか?」
曰く、本の内容としてはこんなことが書かれていたのだという。あの真白な頁に挟まれていた部分は、他のテオロギアとも一線を引くほど違う内容だったのだと。中身は、現在起こっている出来事についてだったと。古い歴史書と聞けば何百年前、近くても何十年前のことを示すイメージがある。だが、今目の前にあるテオロギアはそうでないらしい。
「現在――」
「具体的に言えば、俺たちが依頼を受け、フロンティール村で説明を受け、鉄の森を通って――」
「待ってください、それが書かれていたんですか、テオロギアに?」
「ああ」
何だそれは、と頭を抱えたくなったのは私だけだろうか。テオロギアというのがどうやって書かれているのかは知らないが、そんな個人のことを書くようなことだったのか。いや、そこまでいくのであれば日記に近いだろう、あまりに行動について細かすぎる――しかも、国の内容ですらない。歴史書、の内容と果たして呼べるものなのか。
「今は俺たちが謁見を済ませたというところまで書いてある」
「ついさっきじゃないですか……こっそり誰かが書き足したとかではなく?」
「それは不可能だ。この部屋は私が持つ鍵でしか入ることは出来ない。そして、この部屋は外部からは入れないように仕掛けている――自動的に書かれているとしか」
陛下からの言葉に黙り込むギルドの一面、この本の存在がよく理解出来ないと思ったのはもう私だけではないはずだ。何故私たちのことが書かれているのか。自動的に文字が書かれるとは一体どういう仕組なのだろう、そもそも誰の手も使わずに文字を書くということが可能なのか。ぐるぐると頭を巡る思考は意味をなさず、ただぽかんと周りを見るだけしか出来なくなった。
「……進行中のテオロギア。これは、そう呼ぶしか。俺が知っているテオロギアではない」
「進行中の、テオロギア」
そもそも本に進行中という表記が正しいのか、酷く不釣り合いな表現のように思えてくる。歴史書、今も続いている書物、書いた人間が誰かも分からずその方法ですら分からない。まさに謎だらけ、むしろ謎そのものである書物をした何か。
王はテオロギアをゆっくりと閉じ、豪華な装丁が施された表紙に手を置く。他の何倍もある分厚さに存在が無視出来ない、けれどもこんなに神秘的なのに不気味な気さえする。
「君たちはクラベスという名に聞き覚えがあるか」
突然出された名前にギルド全員が振り返る、それもそのはず、その名を持つ少年とはつい先日相まみえたばかりだ。答えるのに何故か戸惑っていると、黒髪の少女が代表してその問に頷いた。
「クラベスってもしかして、あのアルストメリアの」
「そうだ。そのクラベスというものがこのテオロギアに関係していると思われる。別に管理している前王宛の手紙に、その名前が書かれていた。曰くこの国の歴史に関わっている者だと、そう書いてあった。勿論何かの冗談である可能性もあるが、念には念を」
そう言われて、はいと素直に頷けなかったのは嫌だからではない。クラベスについては知りたいと考えていたから丁度良い、ただ調査という行動が大の苦手でちょっとした不安があった。今まで肉体労働を多くこなしてきた身としてはそういう仕事になると、必ず兄妹共々逃げていたことは記憶に新しい。特にこうして直接依頼された時でも、大抵断ってきたのだ。
だが今回は訳が違う、相手は一般市民どころかこの国の王。しかも内容は敵国の軍師に関する内容だ、断りたくないのに頷けないのが悔しい。
「……道中の交通費、食費、宿泊費は全て無料。面倒な手続きは全て無し」
「――えーと」
「勿論、必要ならば此処からも何人か派遣しよう。情報屋であるエイブロ君と同じ酒場で働くユティーナ姫、確かソシットリィオの"蒼い花束"の酒場だったな。それから研究所で働くノウゼン君の職場、この二件には直々にお願いしに行く予定だ」
言葉に詰まった三人は顔を見合わせてゆっくりと頭を下げる、どうやら所属は把握されてしまっているようだ。しかもお金の話題になると兄が動く。私が何かを言う前に兄が――ギルド長が二つ返事で承諾してしまい、晴れて私たちは調査隊になったのであった。
私たちがまず探したのは国立図書館、国内で一番大きな図書館で調べ物としては最適らしい。しかし最初に目を付けた人物伝には載っておらず、歴史にも名は残っていない。根気よく粘り片っ端から関係がありそうな資料を読んだものの、一切手がかりになるような文は見つけることは出来なかった。クラベスは色んなことを知っていたイメージがあり特定しづらいかも、とユティーナから聞いていたが、それが見事に的中してしまったらしい。
こんな時に限って彼は夢に出てきてくれない。酷い時は数日連日で出てくるというのに、あの実際に会った日から一度もまだ対面せず現在に至る。この国ではクラベスを知っているものがごく少数だ、だから何かヒントになるものがなければ難しい。
図書館は残り二つ、そこで見つからなければ別の手段で調べるしか無い。そこで私たちは二手に分かれることにした。一つは北の港街エスペラルにある魔法図書館、もう一つは南の港街にある図書館の分館。どちらも規模は小さく、わざわざ五人固まって移動する必要もない。それぞれに分かれれば派遣してもらえるし、手伝ってもらえるかも知れないという期待も込めて、だ。私たちは調査が終わり次第報告用の魔法を飛ばし、再びいつもの宿屋で落ち合う約束をして、それぞれの目的地に向かうことにした。
その片方である魔法図書館へ向かうために乗り込んだ馬車の中は、しんと静まり返っていた。乗っているのは私一人ではない、もう一人の人間を睨みつけて何度目になるか分からない話を振ってみた。
「何か、喋ってくれませんか」
「何故」
「この馬車、二人しかいないんです。目的地までだんまりするつもりですか」
短い答えを返してきた銀髪の青年は、また興味なさげと言わんばかりに窓の外を見詰める。何故この人とパートナーになってしまったのだろうかと、数時間前の自分を思い出しては殴りたくなる衝動に駆られていた。街を出て一時間は経っただろうか、さすがにこれだけの時間、誰かと一緒であるはずなのに話さず黙りっぱなしというのはキツイ。
「話す必要がないのならそれでいいじゃないか――お前、俺のこと嫌いなんだろう」
「まあ」
「じゃあ話す必要はないじゃないか。俺達の目的はクラベスに関する記述を発見することだ。話すことは目的じゃない」
「――私たちはね」
ついにんまりして言葉の端を捉える。この意地悪さは彼から学習したものだ、揚げ足取りをするつもりはないが、あえて今は攻めて見ることにした。――俺たち、珍しい彼の口から仲間意識。けれども先程から妙に落ち着きがなく、国立図書館で貰った資料も読まない、言葉と行動が一致していないのは明らかだ。口の端に笑みを浮かべたまま、相変わらず外を見たままの青年へ話しかける。
「ノウゼンさん、他に目的があるのでしょう?」
「……何故、そう思う」
「わざわざ同じ馬車に乗っているからです。いつものノウゼンさんなら、前日に出て別の馬車に乗るくらいのこと、していたはずですから」
昨日図書館前で別れたのは夕方、そこからエスペラルに行けば充分夜には着いていたはずだ。ましてや彼の家はそっちにあるのだと以前兄から聞いた、ならばわざわざ王都に留まる必要など無かったはず。それなのに私と一緒に宿を出て、一緒の馬車に乗り込んで、黙ったまま道を行く。普段の彼とは全く違う行動の仕方をしていた。
けれども彼はそれに反応することなく、ちらりとこちらを向いたかと思えば、また窓の方へと視線を移動させる。うんざりしたような表情、けれどもまた黙りこむかと思えば予想を裏切り、彼は口を開いた。
「ああ、そういう方法もあったな」
わざとらしいその言葉に覚えたのは怒りではなく呆れ、今まで完璧なほどの行動をとっていた彼だからこそ分かる崩れだ。いつだってそうだった、寮の挨拶で初めて会った時も、発表会で壇上に立った時も、学内の廊下ですれ違う時だって彼は毅然として歩き続けていた。まだ私が彼のことを魔法使いとして尊敬しているからこそ分かるのか――その違いに気付かないとでも思ったのか、この研究者は。
「……随分不器用になりましたね」
研究者は今度こそ何も答えない、窓の外、変わらない草原をじっと見つめたまま私の方に向こうとすらしない。この時点で彼は違っていた、いつも通りそんなはずないだろうと冷静に返せばいいだけだ。それなのに馬車の中は静まり返っていて、沈黙が肯定を指し示す状態となっていた。
「正直あなたが考えていることなんてこれっぽっちも分からないですし、分かりたくもないです。でも――何かあればお手伝いくらいはしますよ……一応尊敬はしていますから」
「…………はあ?」
たっぷり数秒を使って帰ってきた答えはそれだった。苦笑しながら思いつくままに事柄を羅列してみせる。今まで誰にも話してこなかったかも知れない、彼への考えを。
「実力はあるし古語がスラスラと読めるし、頭の回転は早いしっていうか本当に頭が良くて頼りがいあるし、知識があるから旅の間は困らなかったし、戦闘の時の指示が正確で早いから楽だったし……」
まだまだ思い返せば出てきそうだ、何だかんだ言って彼とは五年ほどの付き合い、兄と共に行動してきただけあって彼とも嫌々ながら顔を突き合わせる時間も多かった。ふと衣擦れの音が前方から聞こえてくる、何気なしに視線を彼の顔へ向けて、つい真顔になった。
「ノウゼンさん」
「何だ」
「……顔、真っ赤」
「うるさい、誰のせいだと思っている」
窓に凭れながらも口元を袖で隠す銀髪の青年、その頬は熱でもあるかのように赤く、白い肌の彼には少し艶めいて見えた。ちょっと褒めただけでこんなに赤くなるとは知らなかった、むくむく芽生え始めた悪戯心は放っておいて、じっとその顔を見詰める。落ち着くまで待ってあげたほうが良さそうだ、何せ彼自身も混乱しているようだから。
「まったく……お前たち兄妹は一体どういうふうにして育ったんだか。育てた奴の顔が見たいよ……ティリス、何だかんだ俺を助けてくれてありがとう」
「な、な、何ですか急に」
いきなり出た自分の名前に素っ頓狂な声が喉を突く、次いで続けられた文章の意味が分からずその場で固まってしまった。いきなりなんだというのだ、この男は。その唇が微妙に笑んでいることに気付き、慌てて何かを言おうとした。しかしそれを遮って彼は小さく笑い声を上げた。
「エイブロのことも、ユティーナのことも、俺だけならばきっと今頃縁など切っていただろう。そうならなかったのはお前の言葉のお陰だ。――少なくとも、あいつらのことを信じられるようになったよ」
その笑顔を、彼らが見たらなんと言っただろうか。それほどまでに青年の笑みは毒気が無いもので――そう、不覚にも見惚れてしまった。だから抑えていた心にもない言葉が出てしまったことにも気付かない。
「頭でも打ちました?」
「いたって正常だ」
「……もしかして、たかだか私にそれを言うためだけに?」
「悪いか」
「……本当に不器用になりましたね……!」
ああ、聞かなければ、言わなければよかったと後悔した。彼が何故一人で先にいかず自分と馬車に乗っているのか、単純だ、周りに聞かれたくなかったのだろうこの話を、私へだけにするためにそうしたまで。そうするしか、彼には方法がなかった。
「……俺だって、昔からこうじゃなかったはずなんだ」
その一言でついくすくすと忍び笑いを漏す。笑うな、そう彼から咎められても堪えるに堪えきれず、とうとう街へと着く直前までずっと小さく笑っていた。それにつられてか、青年も時々呆れたように笑っていたのは言うまでもない。
国立図書館に魔法関連の書籍はない、魔法は時に人を傷つける凶器にもなりえる。だから図書館そのものを分けている――私たち魔法学科の生徒は図書館利用時にそう教えられた。では魔法関連の図書は何処に置いているか、それはこの図書館だけなのだという。
北の港街・エスペラルの大通りを抜けて二十分、街の郊外に近いところにその図書館は立っている。真っ白い建物に数本の蔦が這い、ほんの少し周りと年代を異にする建物、その中は王都の国立図書館よりも古めかしさを感じさせた。
その奥に、古びた書物を保管する書庫があるらしいと聞いたのは、図書館の中だった。一緒に歩く二人の女性に確認を取りながら、奥書庫へと向い早足で歩き続ける。意外と広い書庫の中には、街の人と思われる人間がぽつぽつといて、読書に励む人が多いようだ。
「奥書庫には古い書物が多く置いてあるの。――昨日報告をもらったのだけれど、クラベスは百年前近くに存在していたそうね」
「え、ええ」
「そうなると、当時の資料を調べた方がもしかしたら確実かも知れない、ということよ」
「なるほど、だからこの図書館に詳しいユリアさんとシェスティさんが派遣されたのですね」
ノウゼンさんの問に二人は頷き、書庫の奥へと淡々と進んでいく。淡い金髪の女性と黒髪の女性は、歩いているだけでも目を引くようで、図書館にいる人たちは視線を送ってきては逸らされた。
金髪の女性はユリア、私たちの学校で先生を兼任している第三神官だ。一方黒髪の女性はシェスティ、第四神官らしく短な紹介しかされていない今は、柘榴石ように赤い瞳も相まって物静かな印象を受ける。円滑に進むように、そう一言添えられてやってきた二人には、この図書館内で便宜を図ってもらえるらしい。わざわざ王に派遣を頼んで正解だったと思いつつも、こんな高位の人と作業するのは何だか気が引けた。もっとも隣を歩く雷の研究者は慣れているのか特別表情も変えていなかったが。
図書館奥には受付があり、二人が何か金色のカードのようなものを提示すると受付の女性は慌てて奥の扉を開ける。その瞬間、違う空気が図書館側へと漏れだした。
「……わあ!」
「ここは本来許可書が必要な場所なのだけれどね。あなたたちが調べに入れるよう陛下から一時的に許可書を預かっているわ。存分に調べましょう」
先の情報でつい抱いていた予想を取っ払い、その中へと吸い込まれるように足を踏み出す。図書館のように壁へ本棚が埋め込まれているわけではない、本の数も圧倒的に他の図書館より少ない、けれどもその本たちはどこか一線を画するような気がした。
国立図書館では完全にお手上げだったため、こちらで何かしらの情報を得たい。嫌気がさすわけではないものの、目星を付けること無く手当たり次第に探す、というのは腰が折れる作業だ。何か、あるといいのだが。どこから手を付けようか、と迷っていると黒髪の女性が凛とした声で私の名前を呼ぶ。
「ティリスさん、古語は読めますか」
「あ……ええと、ごめんなさい。あんまり読めないんです」
「ではこちらの資料から探して頂いて構わないでしょうか」
古語という言葉に冷や汗が垂れる、目の前にあった本を一冊手にとって開くと――もう一度閉じて、本棚にしまった。指し示された本棚の本、その背表紙には現在私たちが使っている文字が使われていて、心の底からホッとした。三人はそれぞれ分かれて書庫の奥へ――全て、古語で書かれている本を片手に歩いて行く。自分がここまで古語を勉強していなかったことを、少なからず力不足だと悔やんだ。
その日は夕方まで作業が続いた。ひたすら書庫を漁ってはクラベス、それ以外にももしかしたらとナヴィリオの名前がどこかに刻まれていないか目を滑らせた。けれども、結局書庫を半分近くまで見た所で閉館時間になってしまい、打ち止めとなってしまったのだ。
何か手がかりさえ見つかれば、そこから紐解けていくはずですから。そう言ったユリアとシェスティとは、明日会う約束をして宿の前で分かれている。実質ここにいるのは私とノウゼンさんのみだ。もっとも以前なら嫌がって別の宿をとっていただろうが、昼のこともあって特別その必要もなく一緒の部屋にいる。
自分たちの前に広げられているのは、シェスティが纏めてくれた図書館内の区分だ。魔法と一概に言っても様々な分野がある――例えば呪文を唱えて魔法を発動させるだけの魔法基本学、武器の応用として用いられている魔法工学、薬草と治癒魔法を組み合わせてさらなる効果を生み出す魔法薬学、数えればキリがない。特に魔法図書館というだけあって、魔法の歴史や人物伝などについても置いてあった。もっとも、そちらの方は真っ先に見たので探しても無駄になりそうだが。
「……クラベスとナヴィリオ将軍、有名じゃなかったのかなあ」
「まあ有名でなければそう名前を書かれる機会はないな。ましてやあそこは魔法図書館、魔法関連に全く携わっていなかったのなら載ってくれないだろう」
椅子の背もたれにぐい、と身を凭れさせてため息を吐く。あれだけの実力者だからすぐに見つかるだろう、と高を括っていたのが仇になってしまったらしい。それとも彼らはそんなところまで情報の規制を行っていたのだろうか、国の中の事情が全くこちらへ入ってこないように。
「でも、あの二人が有名でないってどれだけ凄い場所だったんだ。むしろその時代に生きていた人たちの感性を疑うよ、俺は」
「私だって疑いますよ、あんなに……あんなに凄い二人ですから」
片やいくらまだ結成されて日が浅く集団戦闘に慣れていないメンバーだったとしても、五人相手に圧勝していた剣士、片や奴隷開放を導いて国まで立てた建国者で――恐らくかなり実力のある魔法使い。勿論実際に戦ったわけではないから本当の実力がどうかは分からない、けれどもあの魔物から助けてくれた時に、何か確信めいた物があったのだ。
「――あのちびは戦っていないから分からないが、将軍は確実に手加減していた。手のひらで踊らされていたようにすら思うよ」
「ちび……ふふふ」
ついその言葉に苦笑を漏らしながら、ああ夢の中で彼に会えたら今度からちびと呼ぼうか、なんて考え始める。何だかんだ彼には振り回されているばかりだから、それくらいの仕返しは許されるだろう。今まで名前を呼ぶことも出来ず、意味不明な夢でこちらの睡眠をことごとく邪魔をしてくれたのだから。
青年にお休みなさいと告げて自分の部屋、そしてベッドへと向かう、気合を入れて寝るのも何となく目的があると楽しい。樹の枝が組まれたような天井、それを見て覚悟を決めてから目を閉じ、深呼吸を何度か繰り返す。そして、以前と同じようにそれは成功した。
「――いた!」
「おや、何だか気合が入ってるねえティリス」
銀色の平原の向こう、見えた子どもの影に向かって走る。彼は特別逃げることもなく、前まで来ても首を傾げて笑うだけだ。これで逃げられたらそれはそれでいいのだが、その時は文句の一つでも言ってやろうと考えていた。どこか、このとてつもなくへんてこな夢に慣れつつある自分に内心笑う。
この夢では、人目を気にすることもない。彼も意外と役に立つ情報を流してくれることが多く、今回も是非それにあやかろうという次第だ。
「ちょうど良かった、聞きたいことがあったのよ」
「僕が答えると期待しているところ悪いけれど、僕はあの図書館に入ったことがなくてねえ」
先手を取られてつい言葉に詰まる、けれども今回は予想していたからか、続きの質問をそのまま口にすることが出来た。聞きたいことは彼の名前が載った資料の在り処だけではない、この際だから聞きたいことは聞いておこうと決めていた、その反応を含めて。
「やっぱり、私たちの行動を把握しているのね……本当にテオロギアに関わっているの?」
「うん。それがどうしたの、関わってちゃいけない?」
「――人間なの、クラベスは」
思わず出てしまった言葉を彼はくすりと笑い、口元だけを歪めたまま話し始めた。こうしているととても子どもには見えない、やはり彼が見た目通りの年齢ではないのだと暗に示されているような気さえする。いや、ライラから話を聞いた時からおかしいと思っていた、だから出来るだけ驚かないように。
「それは失礼だな、れっきとした人間さ。人間の枠組みは超えているだろうけどね」
それを自分の口で言うか、と視線を向けていると子どもは唐突に歩き始める。慌ててその後を追えば手を大きく広げて、彼は話を元に戻してしまった。
「さてと。折角名前を呼んでもらえるようになったんだ。ご褒美に一つ、ヒントをあげよう」
「何?」
「あそこの図書館、作ったのはシエラ。元は研究室だったものを図書館用に増築したらしい。彼女は類まれなる魔法の才能を持った人でね、当時は貴族の娘でありながら研究者の道に進み、結果魔法文化を一度大きく向上させたんだ。最期の最後までたった一つしかないその研究室で研究を続けていたらしい。初めて女性で賢者の称号を頂いて、そりゃあもう周りは驚きだったわけさ」
すらすらと口上のように流れていくプロフィール、名前だけは聞いたことがある。恐らく学校か誰かの口からだろう、若くして名を上げた研究者で魔法研究に携わっていた人――だったと思う。けれども貴族の娘だったとかそんなに細かなところまではさすがに知らず、へえと感心しながら聞いていた。
「そんな凄い人だったんだ……それで」
「終わり」
一瞬聞き間違いかと思い、もう一度聞き返すと全く同じ文句が突き返された。沈黙を場に迎えながら必死に言葉を反芻させる。ご褒美、ヒント、確かに彼はシエラのプロフィールを話す前に言っていたはずだ。けれども実際に聞いたのは彼女の話だけで――
「ど、どこがヒントよ!」
「君がヒントだと思っていないだけだろう?」
「ヒントって思うわけないじゃない!ただその人の紹介だけでしょう?!」
思わず握った拳でその澄ました顔面を殴ってやろうかなんて物騒なことを考えるも、彼にまともな返答を期待したほうが馬鹿だったのかと思い直した。そうだ、彼はそもそも味方ではない、敵国の軍師か何かで自分たちとは明らかに立場を違えた、人かどうかも定かではない生き物だ。
しかし、彼も話が通じるとは思っていたのか、あからさまな溜め息を吐かれて眉を顰めてしまった。
「これだから頭が足りていない奴って嫌いなんだよね、考えなよ」
「ただの暴言じゃない……」
つい恨み言のような言葉を言っていると、不意に彼がこちらを見上げてくる。その顔には、先程までの呆れたような笑みはなく、代わりに浮かんでいたのは真剣な眼差し。
「ティリス」
「何よ」
「目先の物事ばかりに囚われていたら真実など見えるわけがない。君の世界が狭すぎるだけ」
突然何を言い出すのか、その先を問おうとした時世界は急激に終わりを迎える。一瞬にして周りは暗闇を誘い黒に覆われ、少年の姿もすぐに視認出来なくなり意識をもう一度浮上されれば――組み木の天井。
「……目先の物事ばかり?」
酷くゆっくりと夜が明けていく最中、最後に言われた言葉を口に出してふと気がついたことが一つ。魔法図書館を作ったのはシエラ、彼女は研究者で研究室を持っていた。研究室に増築して作られたのがあの図書館。彼女は最後まで研究を続けていた、たった一つしか無いその研究室で。――では、肝心な彼女の研究室はどこにある?