旅先で困ることと言えば水浴びと洗濯と食事で、水浴びと洗濯は自然か宿に任せることができる。問題はいつだって食事をどうやってするかで、どうしたって外すことが出来ないために旅人は必死に考え込む。鉄の森の中ではまともな食事が出来なかったため、そろそろ普通の食事が恋しくなる頃ではあった。

「って思ってたんだけど、なかなか幸運続きね私たち」
「そりゃあオルゼさんがいい人だからだろ。絶対今日も携帯食料だと思ってたし」

 私の呟きに兄さんは半分愚痴をこぼして、野菜のスープをおかわりした。目の前ではユティーナが久しぶりの魚料理に最高級の笑顔を浮かべている。エイブロも味を研究しているのか、オルゼさんに味付けの方法をいちいち聞いてはメモをとっていた。―薄切りのパンを焼いて固めただけの携帯食料は、味気がない上に湿気が入るとダメになる。鉄の森を抜けた昨日みたいに、特に急いでいる場合などは味付けをする暇などなくそのままむさぼり食べるしかない。柔らかい食事は喉も胃も刺激しないし、歯が痛いなんて言う羽目にもならないので最高だ。ノウゼンさんは空になったサラダの器をオルゼさんへ差し出しながら、淡々と話しかけた。

「まさかオルゼさんがご馳走してくれるなんて思ってもなかった。…おかわり」
「お客さんをおもてなしするのって普通だと思うけど。ましてや、自分の家に泊めるんだし。あと銀髪のお兄さん、胃袋大丈夫か?」
「あぁ。美味しいものにはつい手が伸びてしまうな」

 かれこれ四回目のおかわりに呆れたため息が机のあちこちから溢れた。いつものこととはいえ、この人実は兄さんの次に大食らいではないのか。だが、敵国だから注意しろと言われてきた身としてはこういう食事ができると思っていなかったので、皆が楽しそうなのは良い事だと思う。食事が終わる頃には大量に料理が盛られていた皿も空になり、代わりに増えたのは話だ。皿を運びだしたオルゼさんに、ノウゼンさんやエイブロが質問を次々に放っては答えを求める。それに律儀に返事するオルゼさんが片付けを終わらせ、机につく頃には満タンだったコップの水も半分にまで減っていた。

「へぇー、調査できたのか。まぁ別に不法入国とかっていう概念は無いもんな、ここら一帯」
「昔は取り締まっていたようだが、今の国境が鉄の森のど真ん中だからな。取り締まろうにもとどまりたくないだろ、あんなところ」

 ノウゼンさんの答えに、コップの水面を揺らしオルゼさんがはっ、と嘲笑うように笑った。全員に配られたコップの水は透明だが、場に渦巻く空気は話す内容が内容だったので重く苦しい。オルゼさんは本当に何でも答えてくれ、自分の気持ちを隠そうとしないその態度はとても良い印象だ。しかし忘れてはいけない、彼はフォブルドン共和国の住人で、私たちはハイマート王国の住人だ。だが、そんなことを気にしない人もここにはいるわけで。

「獣人も人間も近寄らねぇからな。あんな匂いじゃ、鼻が潰れちまう」
「確かになー。あそこを通るには苦労したよ!」

 兄さんの偽り無い笑いがユティーナの華の笑顔を呼び、場を明るくする。ノウゼンさんとエイブロが兄さんの言葉に呆れ、それでも小さく微笑んで話を再開した。いつも思う、私が先走って考えたとしても、いつだって不安も心残りも回収してくれるのは兄さんだ。オルゼさんも私たちにまじって笑い、唐突に話題を切り替えた。

「あぁ、そういやそのギルドバッチ?ギルド章?」
「これのことか?」
「それあればアルストメリアの王都、フェアリーレンの宿に無料で泊めてくれるぜ」
「な!?」

 ギルド章をオルゼさんに見せたエイブロを含め、全員が一斉に声をあげる。こっちでの物価などは分からないが、五人で宿を取ればどこでもかなりの金額をとられる。それが無料となれば泊まらない手はない、というか絶対に泊まる。

「だってギルドでこっち来るって言ったらさ、旅人が多いだろ?あそこでは旅人は例え人間であっても民の一部。もてなすのが当たり前…って、これはアルストメリアの姫様が仰ったんだが」
「す、すごいですね。分け隔たりなくですか」
「…姫が獣人じゃないからな」
「え?」
「おっと、口が滑った。飲み終わったならコップ、回収するぜ」

 意味を考える前に空になったコップを引き上げられ、オルゼさんは洗い場へと歩いていく。その言葉はオルゼさんの一番近くにいた私にしか聞こえなかったらしく、皆は宿について話していた。獣人じゃないとは…アルストメリアの姫は、人間なのだろうか?獣人を率いているのが人間だとしたら、そう私が考え込むのをよそに、ユティーナがオルゼさんへと質問をした。

「そういえば、獣人にもギルドってあるんですか?」
「んー、多分ないな」

 洗い場から帰ってきたオルゼさんは、椅子に座りながらそう答えた。多分、と言うわりに悩まず即答したところが少し気になる。

「そもそもそういうのを人間は教えてくれなかったし。俺たちが教わったのは狩りと殺しの技術と、人型を保つ方法と、どうやったら効率よく働けるかの考え方だけだ」
「…は?」

 一気に羅列した言葉の数々に反応が遅れ混乱する私たちの様子を、図っていたのかオルゼさんは見逃さない。唇の端をつり上げ、悪人顔で話しかけてくる。

「あれ、知らねえの?やっぱハイマートは隠し事好きだな。そういうところは変わらねぇぜ」
「待ってください、言っている意味が」
「もしかして、お前らもハイマートとアルストメリア、フォブルドンが揉めているのは鉄の森の件だけだと思ってるくち?」 

 突然口から出た三つの国の名前に、場が静まる。本当に、言っている意味が分からない。鉄の森の件ー領有権の話、それ以外に争う理由などあったのか。オルゼさんは何も答えない私たちに視線を向け、それが沈黙による肯定と受け取った。

「あちゃー、ここにも一般人がいる。いいか、鉄の森なんか無くっても俺達は争っていたと思うぜ」

 わざとらしく髪をかき上げ、オルゼさんは深い深いため息を着く。からかう仕草に少しだけ苛っとしたが、何とか話を聞くことに徹するために自分を抑え込んだ。少し風が強くなったのだろう、家の窓を軽く揺らしてまるで誰かが叩いているみたいに音を立てている。努めて冷静に、オルゼさんに質問する。

「なんでですか」
「あ? 人間が獣人を奴隷にしていたからさ」
「奴隷…!?」

 ほぼ全員が声を揃えた中、エイブロは黙って考え込んだだけだった。オルゼさんの方はと言うと、私たちがそんなに驚くとは思っていなかったらしい、目を丸くして場を見渡す。

「…なに、本当に知らないわけ。そっちの金髪のお兄さんは?」
「いや、何のこと言っているのかそもそも、」
「黒髪のお嬢さんは?」
「は、初耳です」
「銀髪のお兄さんも?」
「あぁ」

 兄さん、ユティーナ、ノウゼンさんと立て続けにオルゼさんはやり取りを交わす。その次に私の方を向いたが、オルゼさんは目を細めただけだ。

「その様子だと金髪のお嬢さんも知らない、か。あとは赤毛のぼっちゃん」
「昔聞いたことあったけど、本当だと思わなかった」
「なるほど。やけに落ち着いているから細部まで知っているのかと思ったが、俺の勘違いだったんだな?」

 オルゼさんはエイブロに疑いの目を向けつつ、椅子を引いて立ちあがる。話を打ち切る気は無いらしい、新しいコップを棚から取り出して水を注いだオルゼさんは私の前にそれを置いた。座れと手で合図され、私達はもう一度席に着いた。

「参ったね…どっから話せば分かる?俺はあんたらがつまらないことで捕まるのは避けてほしいんだけど」
「はぁ?」

 エイブロとノウゼンさんの間抜けた声が重なる。立ったままのオルゼさんはその二人の声にニヤッとまた意地悪く笑い、両開きになっていた棚の戸を閉めた。

「こっちには人間を嫌っている奴なんて、そこら辺歩けば会えるくらいいるんだぜ。余計なこと言うと喧嘩の原因、果てはスクルトゥーラへ強制連行」
「強制連行?!」
「もちろん。あれ、聞いてない?昔は人間見つけたら即・連行だったんだけど」

 聞いている、聞いてはいるが。どちらかと言えばそんなことをさらっと口走るオルゼさんに驚いたというか、まさか住人からそのことを直接聞くと思っていなかった。小さく生まれた不安と言う名の波紋が、心の中で成長していく。私は何か大きな勘違いをしていると誰かが囁き、波紋へまた違う波紋を生む。外の暗闇の濃さと同じほど私の心が不安の色に染まった時、オルゼさんは思いついたように手の平を合わせた。

「あ、じゃあここから聞こう。あんたらはそもそも獣人ってどういうやつか知ってる?」
「獣が人間に成りたくて試行錯誤した結果だろ」

 すかさず答えたエイブロにオルゼさんは頷く。そうだったのか、と口を挟もうとしたがノウゼンさんに視線で止められてしまった。話の腰を折るなということだろうが、詳しい話を後で教えてくれることを願っている。

「おう、正解。じゃあ獣と獣人の違いは?」
「人型になれるかなれないか。言葉を話せるか話せないか。あとは、獣人は獣の言っていることも、人間が言っていることも理解できる」
「…なに、あんた研究者かなんか?」

 ノウゼンさんの小難しい答えにはオルゼさんも面食らったらしく、腕組みをして聞き返した。椅子に座るのも面倒になったのか、机の端にまたもたれたオルゼさんは話を再開する。

「まぁいい、その通り。あとは単純に寿命だな。普通の奴でも100年越えてくるし、竜みたいに500以上生きるやつもいる」
「ごひゃ、く…?!」
  「想像もつかねぇか?結構長いっていうだけで、退屈はしないんだが」

 五百年も生きる種族が、そもそもあったのか。第一オルゼさんが指標にした竜は伝説とされる、それこそ書物にしかのっていないような生き物だ。平均的な寿命が50歳を超えたくらいしかない人間から考えれば、途方もない年月だとは分かる。ユティーナが目をぱちくりさせ、オルゼさんに質問した。

「お、オルゼさんは?オルゼさんはおいくつなのですか?」
「俺?俺はまだ350いくかいかないかってとこ」
 頬杖をついていた兄さんとエイブロがバランスを崩し、コップに残っていた水を飲んでいたノウゼンさんがむせる。ユティーナが持っていたコップを手から滑らせ、オルゼさんはそれを片手で難なく受け止める。私はただ聞いていただけだったので大丈夫なのだが、周りのメンバーはオルゼさんの年齢を聞いて何かしらの被害を受けていた。何が「まだ」だ、充分長生きじゃないのかその歳は。

「だって知り合いに400以上いるし、俺なんかまだまだざら」
「充分長生きです…というか、年をとっても見た目は変わらないんですね」
「ああ。不老ってやつ?」

 オルゼさんはユティーナの前へコップを置いて何でもにないように答える。そんなに生きていて何をするのですか?と聞くのはさすがに失礼だろうか。だが、そんな質問をする暇もなくオルゼさんは本題に入ってしまった。

「じゃあここで俺たちの過去に関して一番重要な部分だが、人間と獣人の初めての接点は何だと思う?」
「…村で会ったり、とか?狩猟とか?」

 兄さんが答えると、オルゼさんは指を揃えて高く鳴らした。高い音に釣られふと見上げたオルゼさんの目は、光に照らされているにも関わらず闇を映す。今までたためられていた黒い羽根がほんの少しだけ動いた気がした。

「両方当たり。そんで、それが奴隷の話に繋がる。正しくは後者が奴隷のきっかけだな。200年前くらいかなー、捕まった獣がふとした拍子に獣人になっちまって、それを人間に見られちまったんだ。「一部の獣は人型になれる」ってな」

 飲みほして空になったコップをオルゼさんは手に取り、淵を指ではじくとそれは甲高い音を鳴らす。心の中の波紋が形と言葉を持って不安をかたどって、私が信じていたもの―人間を塗り替えていく。昔の事を、つい最近あった出来事みたいにオルゼさんは話していた。

「一番まずかったのは、それを見たやつが普通の人間ではなく商人と貴族だったってところ。すぐにここら一帯は荒らされたよ、獣人狩りでな。で、そうやって捕まったやつらは良い労働力として使われ始めたのさ」

 獣人狩り、という言葉に胸が押しつぶされ締め付けられる。自分達の隣の国で実際にあった出来事だというのに、心のどこかでそれは嘘だと信じたい気持ちがあった。それでもオルゼさんの言葉が反響して、嘘じゃないと語った。ユティーナがコップの中の水へ目を落とし、自らの手を握りしめる。

「そんなの、ひどい。自由が無いなんて、」
「人権なんてねぇよ、獣人だもん。実際俺達はそう叩き込まれたからな。…お嬢さん達は顔を見るにこういう話は嫌いだろう?でもそれが現実だったんだ」

 私とユティーナの顔を交互に見たオルゼさんは、今まで手の中で弄んでいたコップをもう一度机の上に置く。外の風はようやくおさまって、周りが静まる中オルゼさんは背伸びした。

「えーと、80年くらい前かな。とある人間が助けてくれるまで、俺達はずーっと畑や鉱山で働いていたよ」
「人間?」

 獣人を奴隷にしたのが人間だというのに、それを救ったのも人間なのか。その不思議な感覚には全員一致したらしく、ギルド5人からの視線を受けてオルゼさんは頷いた。

「この国の将軍様達さ。変わった人間でな、アルストメリアの王女様と手を組んで獣人達を連れ出し、貴族と奴隷商の屋敷からもらえるもの全部もらって火を放った。俺たち獣人の英雄だ」
「そんな話、」
「聞いたことないだろ。当たり前さ、その人達はハイマートから追放された罪人だ」

 私の短い言葉を継ぐようにオルゼさんは言い放った。アルストメリアとその時から、フォブルドンは手を取っていたのか。しかも、ハイマート国内では罪人とされたような人間が、獣人と共に生きていくことを何故選んだ。いや、そこよりも重要なことがもう一つある。オルゼさんに目を合わせ、尋ねてみた。

「フォブルドン共和国の将軍は、人間…?」
「あれ、まじ?ナヴィリオ将軍って、ハイマートとの戦争の時も戦闘指揮を執っていたくらい有名なんだけど」
「どうなんだ、エイブロ」

 オルゼさんの答えに、ノウゼンさんはエイブロへと質問の先を変える。彼の答えは知らないと首を振るだけで、何も分からなかった。ナヴィリオ将軍、その人は何者なのだろう。

「罪人だろうがなんだろうが、獣人は恩を忘れない。そうしてこの地域に二つの国が誕生したのさ。ハイマートに一矢報いるため、いや、でかい一石を投じるために」

 オルゼさんはそう言いきって、空になったコップをまた洗い場へと持っていく。何のためにそんなことを、とはギルドの誰もオルゼさんに聞かなかった。大がかりな復讐、そんな甘いものですらない。

「つーわけで、外で獣人とお話をするときはお気をつけて。そういうの知っていることを前提に俺達は話するからさ」
「…どうして、そこまでよくしてくれるんですか」
「あんたらは、いい人だと信じているからさ。俺たちが知る人間よりはるかに」

 オルゼさんが知る人間が過去に獣人を虐げた人間達を指していることに、訳も分からないほどの悲しみを覚える。村長さんが私たちをあそこまで毛嫌いする理由も、今なら少しだけ分かる。そして、それらと私達は違うと言ってくれるオルゼさんに感謝しきれなかった。


 寝る前に今日はあの子に会うのだろうか、いや、会えるのだろうかと考えながら薄手のタオルをかぶって寝てみた。これでもし彼に会えたら、自分で夢をコントロールできるんじゃないかと思ったからだ。身体が急に冷えないためにかけたタオルを握りしめ、周りの寝息を聞いて心を落ち着かせる。そして目を閉じて深呼吸をしてから数十秒、その作戦は成功したことを知った。

「よしっ、いけた」
「おや?」

 子供は私が自ら来たことに驚いたのか、珍しい声音で答えた。黒い空と白い地面は相変わらず変わらないが、今日は子供の服装が違っている。今までは長く大きなマントで隠れて見えなかったが、今は華美の少ない濃緑のコートを纏っていた。髪の色は相変わらずだったが、なんとなく心構えをしていたからか普通の子どもに見える。その子供が、何の前置きもなく私の方へと近寄ってくる。思わず避けようと後ろに下がったが、子供は私のその行動が気に入ったらしい。ふふっと笑い、あと数歩のところで彼はその足を止めた。

「ティリス。運が悪いね、君は」

 ぐいっ、と下から覗きこむ顔はいつも通り笑っている。空と同じ黒の髪の間、薄紫の瞳の中に私の驚く顔が映し出されていた。子供の赤鋼の髪飾りが風もないのに揺れて、不思議な色を帯びていく。怖いほどの美しさに、言葉を紡ぎ出すのに時間がかかってしまう。

「どういう、こと」
「ねぇ、君は運命って信じる?」
「…信じない」

 ようやくひねり出した言葉に対して何も返さず、子供は別の、しかも不可思議な質問をした。思わずムッとなって言い返すと、満面の笑みで返事がまた返ってくる。

「あはっ、キッパリ言われちゃった。僕は信じてるよ。今までも、この先もね」

 きびすを返し、子供は私をからかうように軽い足取りで離れていく。何となく楽しそうな様子に見えるが、言葉の意味が分からなくて戸惑ってしまう。今までも、この先も?

「この先って…」
「明日が楽しみだね、ティリス」

 その言葉にかすかな違和感があったと分かって、直後、言葉の意味に気づく。口の端を上げた子供は立ち止まり、私の反応を楽しんでいる。何かが起こることを、この子供は知っているというのか。

「ちょっと待って、明日何か起きるっていうの!?」
「すぐにでも分かるさ、君が目を覚ませば」
「まっ、待ってってば!!」

 どんどん遠くへ離れていく子供の、その小さな背中を掴むために必死に手を伸ばす。だが、私の手はどんなに伸ばしても彼には届かず、空を切る。そして、どうにかして子供を止めようとしたその時。

「待って、『―』!!」

 自分が話した言葉の中に、自分が聞き取れない言葉があった。その単語に、子どもが立ち止まる。空を流れていた灰色の雲が止まり、白い地面に触れる足の感覚が急になくなった。自分でもわけが分からなくなっているというのに、子どもは初めて見せる表情で私の方へ振り返る。

「ティリス、君は…」

 離れていたはずの子供がその目に今までとは別の感情の色を秘めて、いきなりこちらへと近付いてくる。手を伸ばされ、何とかして逃げなければと何故か思ったとき、とっさに何かが私の腕をつかんだ感覚がした。目をつぶりその何かを振り払おうとしたが、それは温かい人肌の感覚で。

「っどうした急に」

 聞き覚えのある低い声に恐る恐る目を開くと、目の前から子どもと空と地面が消えていた。よく見慣れた兄さんの顔、私の腕をつかんでいたのは兄さんのがっしりとした手。

「兄さん、」
「怖い夢でも見たか?ほら、お前の兄貴はここにいるぞ」
「…もう、兄さんったら。私小さい子じゃないんだから」

 兄さんの冗談に笑ってしまうと、兄さんも一緒に笑った。頭を撫でられながら薄手のタオルを握りしめ、夢の中身を、特に最後を思い出す。あの時、確かに私は子どもの名前のようなものを呼んだ。しかしその単語はまったく覚えていなくて、とっさに出たものだとは分かった。ただ…知っているはずもない子どもの名前を、どうして私は知っているのだろう。もし知っているのなら今、何故思いだせないのだろう。どうして、あの子供は私に名前を呼ばれることへあんなにも執着しているのだろう。タオルをかぶる事も止めて考えごとに耽っていると、何の前触れもなく壁にもたれかかって寝ていたエイブロが身を起こした。

「え、エイブロ?」
「水の音」
「へ?」

 エイブロの短い返答に聞き返した直後、縦に地面が揺れ、遅れて何かが崩れるような大きな音が耳をつく。ぐらっと倒れそうになる身体を床に手をついて支えていると、数秒で揺れはすぐに収まった。同じような体勢になっていた兄さんとエイブロに状況を確認する。

「どうなってるの、地震?」
「違う、ただの地震なんかじゃない。何かが崩れた音もしたし、さっきの水の音、」

 エイブロが答えている最中に、兄さんが急に立ち上がった。私もエイブロも兄さんに目を向ける。

「兄さん?」
「ガディーヴィさん?」
「ユティーナとノウゼンは?!外の様子を見に行っただろ!!」

 その言葉に、まとめてあった荷物をひっつかんで立ち上がった。立ち止まっている時間すら惜しく、駆け足で部屋から外に出る。交代で見張りに座っているはずの二人の姿が、部屋の入り口にもどこにも見当たらない。嫌な予感が当たりませんように、とひたすら心の中で祈り目の前の景色に集中した。


 エイブロと兄さん、私の三人で家から飛び出したとき、外には村人と思われる獣人が多くいた。そしてその中に、銀髪の青年と黒髪の少女とオルゼさんがいるのを発見し、獣人たちの間をどんどん駆け抜けていく。

「ユティーナ!ノウゼンさん!オルゼさん!!」

 なるべく聞こえるように大声で言うと、向こうも気づいてこちらへ駆け寄って来る。それほど遠くもない距離だったはずなのに、うろたえる獣人たちにぶつかりながら近づいたせいか、ユティーナの手をつかめる距離になるまでには数分かかった。

「ティリス、エイブロ、ガディーヴィさん!」
「無事だったか」

 飛ぶように抱きついてきたユティーナの頭を撫でながら、ノウゼンさんの言葉にうなずく。三人とも怪我はなさそうだ…予感が当たらなくて良かった。オルゼさんは一息つくと、周りを見渡して言う。

「金髪の嬢ちゃん、お兄さん、それからそこの赤毛の坊っちゃん。そっちの黒髪のお嬢さんと銀髪のお兄さんには話したんだけどさ」
「何か、あったんですよね?」
「いやまあそうなんだけど……今からもあるんだ」

 頭の後ろで手を組み、口ごもりながら話すオルゼさんへエイブロが早く話せと態度で物語る。ほぼ脅迫されているオルゼさんは、一度ため息をついてからぼやくように言った。

「村が沈むかもしれない」
「はあ?!」

 不意に出た言葉は、エイブロと兄さんの言葉と重なり村の中に響いた。

← 前ページへ / 次ページへ →