第二幕「その手に掴めるもの」
オルゼさんの家にギルド全員で再び戻り、話は再開された。黒羽を追いかけて家に入ったは良いものの全く何をしていいか分からず、結局玄関前で私達は立ち尽くしてしまった。座れ、とオルゼさんは昨日食事をした机を指で示し、本人は早足で奥の部屋へと歩いていく。残された5人で顔を見合わせて一度頷くと、兄さん、私、ノウゼンさんが机の右側へと順番に向かう。ユティーナとエイブロも左側の空いた席へ座り、お互いの不安げな顔を見合っては視線をそらした。ノウゼンさんが考え込んで、兄さんが心配そうにそれを見ている。皆、やはり「村が沈む」という言葉に様々な感情、特に不安を抱いているようだ。何か固いものを閉める音から間を置いて、オルゼさんは部屋に戻って来る。鉄の箱を取り出してきたオルゼさんは、椅子に座らず机の上へ行儀悪くもたれた。鉄の箱は厳重に鍵がかけられていて開けるのに時間がかかっているらしく、ガチャガチャと重たい音が重ねて鳴らされる。周りが静まりかえる中その音が部屋に谺し、次第に黒羽根の青年は苛立ち始めた。
「あぁくそっ、誰だよこんなに鍵かけやがったやつは……って俺だな」
鍵を開ける度に毒づいては思い返して沈む、そんなオルゼさんが一息ついたのは五度目の鍵が開く音が響いたときだった。鉄の箱が開かれ、中から取り出された折り畳まれている真新しい紙に皆の視線が集まる。オルゼさんの手に収まり、バッと広げられたのはこのピオーヴェレの村周辺の地図らしい。川とか道とか、いわゆる地図に書いていそうなものはもちろん全てあり、それに加えて裏手の山、水門の位置、果ては修理中の橋のことまで書かれている。こんなものを簡単に見せてもらっていいのだろうか、とは残念ながらこの場では誰も言わない。それもそのはず、今重要なのは村が沈みかかっててるというその事実だけだ。オルゼさんは手に余るほど大きな地図を机の上に目一杯広げ、皆が見える位置で地図上のある一点へ指をさす。エイブロが身を乗り出してその位置を確認すると、少しの沈黙の後顔をあげた。白い紙に書かれた、円を象ったような青い印。
「湖?」
「そうだ。この村の北側に大きな湖が一つある。そこから村に川を引いているんだが、その川の水門が魔物にやられたらしい。今はまだ雨が少ないからいいが、このまま雨量が増えると村へ水が流れ込む。この村付近最大の欠点は一回に降る雨の量。水門で調節が効かなければ、村の小さい川なんてすぐに氾濫してしまう」
まだ窓の外からは雨音は聞こえないが、薄暗い空とどんよりした空気が家の中からでも感じることができる。このままだと時間が経たないうちに雨は降って来るだろうし、そうなればオルゼさんが危惧していることも、確実に起こってしまう。だが、まだ氾濫していないという事実はユティーナの胸を撫で下ろし、笑みを浮かべさせた。
「良かったです……。まだ氾濫していないのですね」
「魔法使えるやつらが総力をあげて水を止めている。が、それもいつまで持つかわからん。所詮魔法のことをかじった程度の知識しかないからな」
魔法をかじった程度、というのがどのくらいかは分からないが、少しの間だけでも水をせき止められるのなら、充分にすごいと思うのだが。魔法を習うことと使うこと、その差はまさに雲泥の差である。勉強するだけなら学校の校舎の壁に耳をつけて聞けばいいが、それだけで魔法という要素を理解できるのなら、ハイマートの国民全員がとっくに魔法使いへなっている。話を聞くだけで理解するということは、一を聞いて十を理解することと同じようなことだからだ。そうでないのは魔法が見ただけで、聞いただけで覚えられるようなしろものではないからだ、と私のクラスを担当していた先生は言っていた。だから使える、というだけでも本当はすごいことなのだ……オルゼさんが何を基準にしているかはともかくとして。そして、地図を見下ろすオルゼさんの目には、皮肉げに言った割に全く諦めの色がない。何か策があるのだろうか、とわざと目を合わせて質問をしてみる。
「どうにかできないんですか」
「んー……方法としては、村に流れている別の川へ湖を繋げるくらいだな。二手に分ければそれだけ流れる水の量が減る。魔物を片付けて水門を直す間は、それくらいしか浮かばねぇな」
「そんな簡単に言わないでください。川へ繋げるには、そこまでの道を作って土砂をどけて、流れる水の量も調節しなければならないんですよ」
オルゼさんの返答に、真っ先にエイブロが眉をしかめた。あまりそういうことには詳しくないが、エイブロの言う通り川を繋げることが簡単ではないと私でもわかる。どうやらエイブロはオルゼさんの提案が無理だと思っているようで、頬杖をついた彼の視線からは疑いの色が感じられる。しかしそう言われることは最初から予想していたのか、オルゼさんはため息をつきながら言葉を続けた。
「んなこと分かってる、けどそれしかないんだって。この村を捨てるっていう選択肢は…ないし」
言った本人が直後に額へ手を当て、もう片方の手でてきぱきと机の上の地図を畳み始める。その苦渋が広がる表情は何かしでかしたと言わんばかりのもので、ノウゼンさんやエイブロがオルゼさんの様子を伺う。今のタイミングはどう考えても、村を捨てる、という部分だった。言ってはならない言葉だったのだろうか、それともそんな言葉が出てきたことに本人が驚いたのだろうか。どちらにしてもオルゼさんは見た目にもわかるほどの動揺があった。そして、そんな自分を見つめる二人に気づいて、オルゼさんはにやりと意地悪く、わざとらしく笑って見せる。
「とまぁ状況を伝えたところで、提案。1日泊めてやったから手伝ってくれないかな?」
「最初から何かしら手伝わせるつもりだったんだろう。じゃなきゃ村の中までのこのこ案内しない」
「あぁそうだよ、銀髪のお兄さん。黙ってりゃイケメンのくせに、口開いたらまじ性格悪いよな、アンタ」
「それはどうも」
「褒めてねえって」
オルゼさんの言葉に神妙な顔で頷いたエイブロと兄さんは、ノウゼンさんに頭のてっぺんを勢いよくはたかれる。自分と同じく苦笑いを浮かべたユティーナと視線が合い、頷きかけた自分の頭をすんでのところで止めてよかったと思う。オルゼさんの依頼は、村の現状を見た時から手伝うつもりだったこともあり、別に文句は無いのだが…どうにもそれをオルゼさんに頼まれると、あまりいい気がしないのは何故だろう。渋い顔になっているのは三人。さっき川のことへ指摘したエイブロ、話を聞いてどう思ったのかノウゼンさんも。そして、多分私も似たような表情になっているだろう。ユティーナと兄さんはオルゼさんへと頷き、すでに請け負う意思を示している。何も言わない残った私たちの沈黙を肯定として受け取り、オルゼさんは話を再開させた。
「人手がいるのは三ヶ所。水が流れ込む村の入り口と、湖から繋げる新しい川のところと、魔物がうようよしてる湖の水門のところ。新しく水門を設けるまでは瓦礫で調節するしかねぇ。村の入り口は村の連中でなんとか止めれる。あとの二つを手伝ってほしい」
「じゃあ、水門の方に五人で行けばいいか。魔物を倒さなきゃいけないんだろう?」
「…いや、二手に分かれてくれ」
兄さんの質問にオルゼさんは間を置いてそう答え、地図を箱の中に戻して鍵をかけ始めた。元々5人しかいないのに、二手に分かれたらそれこそ人数が足りないのではないか。誰もが疑問を浮かべる中、オルゼさん目配せをする。
「あんたら、実力有りそうだし。各所に必要な人材がいればそれでいいんだよ」
「はあ?」
「まあまあ、赤毛の坊ちゃん。今から歩いて湖に向かってちゃ時間がかかるから、移動は鳥族が運ぶことでなんとかする。が、生憎と今この村には、俺を含めて鳥は三人しかいねぇんだ。ならいっそ分けてしまった方がいい。じゃねえと、残りを運んでいるときにはすでに戦闘状態に入っている可能性があるからな」
「……どちらに何人いくかという問題よりも、中途半端に運べば魔物と戦っているところを変に邪魔してしまう、ということか」
「そういうこった。銀髪の兄さんが分かってくれて嬉しいよ」
ノウゼンさんはほぅと小さく息をつくと、エイブロと視線を交わして頷きあった。要するに戦いの途中で余計な水は差すな、ということなのか。あんまり納得はいかないものの、どうやら分が悪いのは完全に私の方で、オルゼさんの視線に思わずうなづいてしまった。最後の鍵をかけ終わったオルゼさんは、軽々と箱を空中に投げてもう一度手の中に収める。五つもかけられた鍵同士が鈍く重い鉄の音を響かせあい、それぞれが錆びた金属特有の光を照らす。奥の棚へ向かう途中、オルゼさんが足を止めて窓のほうへと静かに顔を向けた。皆がつられて彼の視線の先へ振り向くと、窓をほんの小さな音がたたいては滴を垂らしている。やはり、雨が降ってきたようだ。オルゼさんは部屋の端に掛けられていた麻のマントを片手で掴むと、私たちの方を向いて顔を険しくした。
「あんたら、用意しろ。まず水門の方へ三人送る。そのあとの残りの二人を湖の反対側に運ぶ」
オルゼさんの言葉に席をたつと、続けて皆も立って自分の荷物を取りに行き始めた。今の話通りなら、魔物退治に三人で新しい川作りへ二人。兄さんがその人数配分に違和感を覚えたようだ、奥の部屋から帰ってきたオルゼさんへ話しかける。
「土砂を運ぶのなら人がもっといるんじゃ」
「ちっちっ、わかっちゃいねぇなぁ金髪のお兄さん。そこにいるユティーナ嬢ちゃんの魔法属性は何属性だよ」
「…へ、私ですか?」
急に名前を呼ばれたユティーナは慌てて返事をし、呼ばれた意味が分からず首を傾ける。そんな彼女を親指で指し、オルゼさんは自信たっぷりに顔を綻ばせた。
「お嬢さん、土属性と闇属性なんだろう?まだ使っているところは見ていないが、古語詠唱ができるんだ。そんじゃそこらの魔法使いよりは強いはず。つーことは、魔法使うやつと周りを守るやつ、二人いりゃ充分さ」
納得する兄さんに続き、そういえばそうですねと言いかけた。しかし、そんな私の前へ遮るようにノウゼンさんの腕が出される。見慣れた抑制の合図、私は言葉を飲み込んでノウゼンさんの言葉を待った。どうせこの人のことだ、また何かに気づいたんだろう。
「ユティーナの属性、何故土属性と闇属性だと言い切れる」
「あ。しまった、言っちまった」
オルゼさんが視線を床へ向け、額に手を当てて息を深くつく。ユティーナが口を開けてぽかんとしている間に、全員の視線が黒い羽根へ集中する。今度は私にも何がおかしいかがわかった。ノウゼンさんと視線がたまたま合い、理解を示すつもりで一つ頷く。エイブロの刺すような視線とユティーナの下目遣いの視線が、まだオルゼさんへ注がれている。しばらく目を開け閉めしていた兄さんがぽんと手を叩いて、顔をあげたオルゼさんにゆっくりと目を向けた。
「おおっ、なるほど。行った振りをしてあの場所に残っていたのか、オルゼさんは」
バッとオルゼさんが顔を誰もいない方向に向け、私たちから視線をはずした。指摘は図星だったらしい。ノウゼンさんが横目にオルゼさんを見て、疑いの視線をさらに強める。あの場所、というのは多分鉄の森を抜けてすぐの荒れ地、オルゼさんと出会い襲われた場所のことだ。ユティーナが土属性と闇属性だと知っているのは、ユティーナが闇属性を使っていたあの場面にいあわせなければわからないはず。少なくとも、古語詠唱を聞いていたのだから、私達の会話も恐らく聞いていたのだろう。と、そこまで考えたところでオルゼさんの意図に気づく。
「…あ、土属性」
「やっと気づいた。魔法は属性ごとに特性がある。で、土属性の特徴と言えば地面に直接干渉できることだ。黒髪の嬢ちゃん、魔法での干渉のやり方は分かるか?」
「え、ええと、」
どうやら初めて聞いた単語らしい、ユティーナはあたふたとしている。独学に近い形で魔法を習った彼女には馴染みのない言葉だろう。ーー魔法での干渉、というのは単純なようで難しい。簡単にいってしまえば干渉とは、物質に微量だが含まれている魔素を魔法として使って動かすこと。私の場合風魔法をつかうため、風が吹いているときに干渉をして風向きを変えたりすることができる。ノウゼンさんだと落ちてきた雷を方向転換させるとか…まぁあれは、ノウゼンさんの高速詠唱があるからこそできる技なのだが、とにかくその属性と相性をもつ物質を動かすことができる。その実は呪文と動く原理さえ分かってしまえば簡単で、私でも学生時代に何とか覚えることができたし、頭が柔らかく容量がいい彼女なら大丈夫だ。
「私、干渉のやり方知って」
「俺が知っています。ノウゼンさん、ガディーヴィさん、ティリス。俺たちに新しい川の方を任せてください」
私の言葉を遮ぎり、エイブロは私たちへと視線を流した。何故とは言わなくても、この数日間を見ていれば聞かなくても分かる。仲が良い、そんな小さな範囲ではない。初めて会った日のユティーナとエイブロの仲睦まじい様子や、昨日ユティーナが襲われた時からのエイブロの反応、そのエイブロを気遣うユティーナの様子。本当にお互いがお互いを想う、そういう風な仲なのだろう。あくまでも推測でしかないが、私が兄さんを大事にするように彼もきっとユティーナが大事なのだ。やはりユティーナのことは彼に任せた方がいい、と思うし、むしろこの二人を離さないまま行動させる方が良いのではないか。そう考えるほどに二人のことを疑うことができない私がここにいて、反対にその二人を疑う人間がここにいる。一つ、長く深いため息をついて皆の注目をその人は浴びた。
「あのな、そういうのは勝手に」
「…分かった」
「ティリス!」
話を打ち切られたノウゼンさんが腕を掴んできたが、それを空いた手で払いつつ兄さんに視線で了解をとる。兄さんが頷いたのを見てノウゼンさんは分が悪いと分かったのか、すぐに手をどけた。二人いれば問題ないのならユティーナが誰と行ってもいいはずだ、例えそれがノウゼンさんにとって疑いのある二人だったとしても。何か言いたげなノウゼンさんの視線に気づいて、半ば無視をする形で視線を反らす。
「二人に任せましょう、今は喧嘩している暇はありません。……オルゼさん、オルゼさんの仲間の方も手伝ってくださるんですよね?」
一連やりとりを黙って見ていたオルゼさんへ質問すると、間をおいて彼は頷いた。ここでは私たちの方が部外者だと向こうもこちらも最初から分かっている。分かっていたとしても、私は困っている人を放っておけないし、手伝ってくれと頼まれたのなら動きたいと思う。元々私と兄さんの放浪旅はこの名前のわからない感情が原因で成り立っていたようなものだったのだ、それがギルドになろうとその感情を捨て去ることはできない。だから、あくまでも物事を安全に進めるための保険として、今まで話に出なかった「前提」についてあえて触れた。
「今ここで約束してください。何があっても、ユティーナとエイブロに危害を決して加えないと。オルゼさんのことは泊めていただいた件もありますし、一応信用しています。ですから、他の方にも言ってくださると嬉しいです」
「おっと、疑われてんな。さすがは人間、そこだけは誰だろうと昔から変わらない」
オルゼさんは小さく吐き捨てるように笑い、手元に引き寄せた短いマントを広げる。だがその表情はいたって笑顔で、口調にあったような感情は伺えない。どうやら短いのは羽根にあまり被さらないようにするためらしいーーオルゼさんは黒羽に引っ掛かたままマントを慣れた手つきで左の肩口で結んでいた。その行動を黙って見ていたエイブロが目をそらして、自分の荷物を手元へ引き寄せた。
「あんたらだって人間に似たようなことを聞くんだろ。…疑うなと言われた方がよっぽど疑わしい」
「……へぇ、赤毛の坊っちゃん、なかなか獣人のことをわかってるじゃねぇか。まぁいい、約束する。俺たちはアンタらに手伝ってもらっている間は絶対危害を加えないし加えさせない」
ほんの少し沈黙を保ったあと、オルゼさんはそう言いきった。オルゼさんの公言に、偶然視線があったエイブロと頷きを交わす。俗に言う「言質をとった」というやつだ。ちくりと罪悪感に苛まれそうになって、これは必要なことだと自分に言い聞かせて自分の荷物を両手で引き寄せる。そもそも5人がまとまって行動しない、ということですら危うい上に、目の届かない場所に二人が連れていかれるのだ。本来ならば今すぐにでも止めるべきなのだろうが、オルゼさんがちゃんと約束を守ってくれれば何事もなく私たちはまた旅を続けられる。そして、たまたま運良くと言うべきか、今のところオルゼさんは約束を守りそうな人だ。今まで黙っていた兄さんがーー荷物を整理していたらしいーーベルトバッグに必要なものを詰め終わり、バッグを軽く叩いた。
「うし、じゃあ行きますか」
「おう。嬢ちゃん達も大丈夫だな?」
全員が頷くのを確認したオルゼさんは出入り口に一歩踏み出そうとして。ーー直後、踵を返して身構えた。
薄暗く狭い室内に広げた黒羽根からは警戒心が漏れだし、小さな動揺は次第にその場にいた他五人へと感染していく。土を踏む音、雨の音、風の音、それらは静かな部屋の中では鮮明に聞こえる。オルゼさんの視線をたどった先、ギィ……と風に揺られながら木製の扉が開いていた。そして扉の手前、地面に影を落とし床に滴を染み込ませる持ち主からも、オルゼさんと似た気配が感じられる。突然の訪問、オルゼさんは囁くようにその人の名を呼んだ。
「……ワーズ村長」
「そやつらの手を借りるつもりか。オルゼ、孤独な黒鷹の残存者よ」
村長さんは濡れた茶毛に埋もれる耳を動かしながら低い声を出す。強い光を放つ目からは、明らかに私たちを咎める視線。だがそれには全く物怖じせず、オルゼさんは村長さんを睨み付けて言い放った。
「当たり前でしょう。どこからどう見たってこの村は人員不足だ」
「人間に頭を下げろと言うか、我らの仲間も住みかも奪ってなおのうのうと生きる人間へ」
一瞬だけ向けられた突き刺す視線が助けなどするな、と言外に言われている気しかしない。オルゼさんは小さく鼻で笑い、村長さんへ手にいつの間にか握られていたナイフを向ける。止めようとした私に気づいてか、何故か兄さんに腕を掴まれて意図せずに私は言葉を失った。言えなかったことよりも、兄が、私の行動をこんな風に止めることに対して驚いてしまう。どうして止めないの、と目で訴えても、兄さんは首を横に振るだけだ。後ろの私たちのやり取りを気にせず、オルゼさんは誰にも邪魔されることなく言葉を出した。そう、それは言ってほしくなかった、聞きたくなかった言葉。
「じゃあ村もろとも死んでください。獣人は水が苦手なやつばっかりだ、このまま黙って死期を待っていればどうです?待ってりゃ死ねますよ、この状況なら多分」
「オルゼ!!」
「だから俺はあんたと話がするのが嫌なんだ。手段を選んでいる暇があるなら走り回れよ、文句言ってる暇があるなら皆の不安を取り除いてやれよ。あんたの足は、目は、手は、まだ生きることを諦めちゃいないんだろ」
オルゼさんはそう言いきって、ナイフを腰の袋へとしまう。村長さんの目はかすかに、緩やかに揺れ動く。
「俺は嫌だ。この村はアルストメリアの姫さん達が宿無しの獣人のためだけに、何もない荒れた土地に、一から作り上げた大事な村。ここで失えば……俺は、あの方に会わせる顔がなくなる」
目を見開いて黙りこんだ村長さんに、オルゼさんは壁に掛けてあったマントを放り投げて横を過ぎていった。少し早口で話されたものだから、まだ頭の中が整理できていない。あの方、とはアルストメリアの姫のことなのだろうか。それともまた別の誰かなのか、はたまた……思考は次々と浮かぶのに、そのどれもが明確ではないのは当の本人に確認できないからだ。もちろんそんなことをオルゼさんが知るわけもなく、待ってはくれないようだ。
「これだからフォブルドンは嫌いなんだ。うちんとこの族長なら一発で飛んでいくぜ、あんたみたいに戯言をべらべらと喋らないでな。…行くぞ」
最後の言葉が私たちに向けて言われ、オルゼさんに置いていかれないようすぐに追いかける。引っ掛かった単語があったが、急いだせいでその事についてはまたもや言及できなさそうだ。村長さんを除く全員が足早に入り口へと行く。村長さんの隣を通りすぎる際、その拳が強く握られているのを見逃した者はいなかった。
外に一歩踏み出した瞬間、顔や頭を細かな雨粒が叩く。思わず見上げると、どんよりとした空には黒い雲が覆い被さっていて、今よりももっと強い雨風が来そうな雰囲気が漂う。視線を村の中へと戻すが、昨日村に着いた時に比べてどこを見渡しても人の数は格段と少ない。オルゼさんが言った通りなら、総出で川の水を止めにいっているのだろう。すでにこうなることを予想していたのか、家の横には濡れた羽を携えた男性が二人いた。一人は薄い茶色の髪の物腰穏やか男、もう一人は赤茶色の髪のいかつい男。オルゼさんは家の脇へと逸れて二人の鳥に近づき、頭を下げた。
「すまない、話は聞こえていただろ。手伝ってくれ」
「勿論ですとも。あなたに頼まれて動かないはずがない」
「手伝わない。とか言ったら、お前にやられるだけじゃなくてライラさんにも怒られっからなぁ。つーかさぁ、前から思ってたけどお前、厄介事に巻き込まれ過ぎなんじゃね?」
「うっせぇ、お互い様だろうが。ケルンみたいなことを言うんじゃねぇよ。ほら、動け動け」
三人の鳥は、仲良さそうにわちゃわちゃと羽やら足やらを動かしていた。先頭にいた私の耳に、呆れるようなため息が後ろからいくつか聞こえてくる。これがさっき村長さんを黙らせた張本人だと思えない。準備運動なのか腕を伸ばしたり足を伸ばしたり、三人の動きは止まる気配がない。痺れが切れて話しかけようとしたそのとき、オルゼさんが何の前触れもなく突如宙に浮く。そして、飛び上がったかと思ったら自分の視界が急激に変化していく。遅れて襲ってきた圧迫に上を見上げれば、いつの間にやらオルゼさんに片腕を掴まれている。足の裏にあったはずの固い感触がないところを考えるに、問答無用で空へ引き上げられたようだ……とそこまで考えて、急に背中に悪寒が走った。今、自分がどこにいるかを想像して。
「ちょっ…心の準備がまだできて…!!」
「文句なら後で聞く。時間がないから飛ばすが、しっかり掴まっておかねぇと落ちて死ぬぞ」
「嫌です!落とさないでください!!落としたら死んで呪いますよ!!」
「あれ、金髪の嬢ちゃんってそういう子なわけ?普通の子だと思ってたんだけど」
「普通です!」
空気の抵抗を体全体で受けながら、口々に言葉の応酬をしつつ落ち着きを取り戻す。雨粒が顔や体を打ち、目にも何度か不意うちで入る。雨の猛攻を受けながらも、荷物をきちんと肩で結べているのを空いた片手で確認し、バランスを取るためにオルゼさんへその手を伸ばす。私の意思がうまく伝わったようで、掴まれていなかった腕もがっしりとしたオルゼさんの手で掴まれる。両腕を掴まれて宙ぶらりんとなった私は、風をまともに受けながらもオルゼさんに運ばれる形になる。後ろが気になりなんとか振り返ると、兄さんとノウゼンさんも赤茶色の羽を羽ばたかせる二人の鳥に、私と同様に腕を掴まれて運ばれていた。オルゼさんも他の鳥も多分人を運ぶことに慣れているのだろう、浮き上がってまもないというのに村が遠くに見え、オルゼさんの家で見た湖の方へと近づいていることが分かる。もう一度前を向き直れば暗い空が間近に感じ、雨の匂いが風にのって鼻に変則的に届く。ーーどうせなら青く澄みきった晴れの空で、こういうことをしてみたかったと思う。忙しくないとき、それもゆったりとできる時間が持てるときに、そんな空で飛べたら何と爽快な気分になるだろう。だが現実はそうではないというのは分かっているし、この状況は無視できるものでもない。
雨足はまだまだ弱いはずだが、私の手を引くオルゼさんが結構な速度で飛んでいるせいか、少し風が痛く目が開けづらい。その目がようやく速さに慣れた頃、もう一度上を見上げればどこか余裕のあるオルゼさんの顔が見えた。自分の体調を確認しながらーーこういうとき丈夫な自分の体に感動する。大抵何とも無いのだからーー聞きたいことを聞いてみる。
「あの、オルゼさん」
「んー?」
「村長さんと、何であんなに仲が悪いんですか?」
「……唐突にぐさっと心に痛いこと聞くなぁ。別に仲を悪くしたくてあんな風に接してるんじゃねぇぞ」
苦笑するオルゼさんはほんの少し視線をそらし、後ろとの距離を気にしてから話しかけてきた。後ろに聞かれたらまずいことなのだろうか。振り返れば兄さんとノウゼンさん、それからさっきの鳥二人いて、私と同じように話をしているように見える。もちろん先陣をきって飛び立ったオルゼさんや私からはかなりの距離があり、その話の内容はまったく聞き取れない。加えてこの風の音、こっちの声が聞こえるはずがない。小さな呻き声に視線を上げれば、オルゼさんが真剣に答えを悩んでいる姿が見えた。
「んー……あー、まぁ色々あるけど、一番の理由は俺があの村の住人じゃないからかな」
翼がほんの一瞬、止まった気がした。髪を後ろへと揺らめかせる風は相変わらず冷たく感じたが、オルゼさんの手はそれと同じくらい冷たい。その冷たさは決して気持ちのよいものではないと、直感的に感じた。どういうことか、と言葉にする前にオルゼさんは継ぎ足す。
「俺、ああいう考え方の奴は相容れないって言うか……それに俺はどっちかって言うと所属はアルストメリアの方が近いんだ。訳あってこっちにいるけど、あの狐野郎……村長はそれを快く思ってないっていうこと」
「どうして」
「フォブルドンにアルストメリアの流儀を持ち込むな、って。フォブルドンにはフォブルドンの流儀が、やり方がある。お前らが来たら、この村はフォブルドンじゃなくなるって。俺はそんなつもりなかったのに」
ぽつぽつとオルゼさんは呟いて、空を見上げた。つられて見た空はやはり暗く、渦巻く雲は雨をまだ降らす。村長さんの話がやたらと飛躍している気がする。どうやら村長さんは余所者が嫌いな、典型的な保守側の人だったらしい。そこで、先程オルゼさんが村長さんに言っていた言葉を思い出した。同時にある単語が引っ掛かっていたことも。
「じゃあさっき言ってた「うちんとこの族長」は、保守の人じゃないんですね?」
「ん?」
「村長さんに言っていた言葉です。オルゼさん、保守的な考え方が苦手そうですから」
「……そうだな。俺達鳥族の族長は確かに革新派だ。今はアルストメリアの南にある村で村長してるよ。やっぱりああいうやつが村長やるべきだよな、うん」
オルゼさんの目が尊敬の色へと代わり、無邪気な子供のようにキラキラと輝く。どうやらオルゼさんは余程鳥族の族長さんを想っているらしい、急に手の温度が上がってきて、さっきまでの寒さとは大きく違う。会いたい、と思った。アルストメリアの南にある村、一応寄ることはできる。というより、もしかしたら確認をまだしていないだけで、通る予定だったのかもしれない。散々人をけなしてきたオルゼさんがここまで言う鳥族の族長さんなのだ、一体どういう人なのだろう、ぜひとも一度会ってみたい。だが今はこっちに集中しなければならない、と思い直したちょうどその時だった。風をきる黒い翼が一度大きく羽ばたき、空中での体勢を綺麗に取り直す。降下するのかと考えたのも束の間、突如として斜め下へとオルゼさんは急に傾いた。急激な速度で落下するように飛ぶオルゼさん、その手に連れられて体が宙に浮きながらも下へと引っ張られる。そして、地面がすぐそこまで見えるとオルゼさんは上手く歯止めをかけ、速度を落としていく。と、同時に私の体も元の位置ーーオルゼさんの下側へと滑り込む。
「つーわけで、俺んところの族長にもし会えたらよろしく伝えてくれな。マジいい人だから」
「分かりました。いつかその村にも寄らさせていただきます。……それにしても、オルゼさんがそこまで言うならよっぽどいい人なんでしょうね」
先に自分の足が地面に着いてオルゼさんの手が離れていく。ほんの僅かな時間しか飛んでいなかったのに、地面のひどく柔らかな感触が懐かしく感じた。雨のせいだろうか、見下ろせば土はぬかるんでいて、ふとした拍子で靴が滑りそうになる。そしてたまたま気づいた物、靴の横に落ちていた黒い羽。曇りのない黒が雫を光らせ神秘的に輝いたように見えた、その瞬間だった。
「あぁ、まともだと思うよ。この壊れた世界の中じゃな」
「え?」
やけに耳の近くで大きく響いたその言葉が、どんな意味を持つか分からなかった。沈黙した私の耳に、軽やかにオルゼさんが着地した音が風の音に紛れて届く。そして人ならざる声もまた、かすかだが奥から聞こえてきた。ハイマート王国では近年ほとんど聞かれることのなかった、低い独特のそれ。意識が集中して体に緊張が走り、心を落ち着かせるための深呼吸を繰り返す。
「着いたぜ、湖の水門」
オルゼさんの翼がたためられ、彼のいる場所のその向こうにまで自然と目が行く。……一体何が起こればああなるのだろう、と誰かに言ってほしいと思った。目の前に広がっていたのは、事前に知らされていた通りの湖。そしてその右側奥にある、破壊され無惨な姿となった鉄製の水門と、その周りに群がった魔物の姿だった。